BLACK SWAN

白鳥のブログ - 日々の世界を徒然と

ソードアート・オンライン 第25話 4  SAOとAWの印象の違い

2012-12-25 12:20:17 | SAO/AW
ソードアート・オンライン(SAO)が最終回を迎えたところで気になったのが、アクセル・ワールド(AW)との印象の違い。

この、SAOとAWだけど、簡単に言うと、原作を読んだ時と、映像で見た時との印象が全く逆転してしまった。

要するに、原作はAWの方が面白いと思えたのだけど、アニメにしてみるとSAOのほうが面白かった。

で、この逆転はどうして起こったのだろう?

いや、とりあえず、AWの感想の方で何度か書いた、ハルユキの頭身がどうにもおかしい、という違和感はとりあえず置いといて。あるいは、AWの方は、ちょっと顔芸が過剰でうざかったなー、というのも置いといてw

(いや、今、書きながら、この顔芸要素は結構効いてるかも、と思えてきたw)

で、何かなー、と考えて、思いついたのが、AWの方は、基本的に子供の世界の話で、しかも、その子供たちが、揃いも揃って、トラウマ持ち、ってところかな、と。

良くも悪くも、その裏返しとしての自己愛というか、ナルシスティックな部分の描写がともすれば過剰ってことで。

いわゆる、心意ワザも、要は、「心=思い」の強さ、に連動して発動するものだし。

つまり、AWって「心」や「自己」を巡る話が結構多いんだよね。

それに対して、SAOの方は、最終回のオフ会の描写で明らかになったけど、クラインやエギルって、学生ではなく社会人であって、この世界は学生だけじゃなくて、ちゃんと大人もいる世界。もっとも、社会人になってネトゲーやってるって時点で、既にイタイwやつなのかもしれないけれど、とはいえ、キリト、クライン、エギル、あたりは、多分、年齢にして、5歳から10歳ぐらいの開きがあるのだろうけど、にも拘わらず、タメ口で語り合っている。それも、ザ・シードの頒布のことから、ゲーム内の話だけではなく、リアルの世界の話も含めて。

なので、最終的なゲームのクリアは確かにキリトの功績なのだろうけど、それも、周りの面々の、心的、物理的支えがあればこそなんだよね。

ということで、SAOは、大人も子供も混じった「みんな」の世界。
そして、「みんな」の範囲も、もともとは1万人もいた、その意味では、実はよく知らない人たちも含めた「みんな」なんだよね。決してハルユキたちのネガ・ネビュラのような4-5人のチームではない。

で、ここからは、最初に気になったと書いた、ラノベとアニメで両作品の評価が入れ替わったことの原因解明になるのだけど、

AWは、個々人の心=トラウマが問題で、これに没入するには、小説の形で、あたかも告白を聞くかのように、読んで行くほうが多分適している。

ただし、それを映像にするに鬱々とした独白を動きのある映像の中に組み込まないと行けない。で、これは、正直、見る側には鬱陶しい。能美のCVの人の好演はあったものの、それだけでは足りないから、絵的に過剰な顔芸が頻繁に出てくることになる。

つまり、映像にする側からすると、心の描写を何らかの絵、しかもわかりやすい絵にしなくてはならなくて、ここでどうしても過剰になる。だって、心の描写って、小説の場合は、読み手がそれぞれにイメージして補うものだから。

加えて、AWの場合は、基本、格ゲーなので、1対1の対戦という、これもまた個人に焦点が当たってしまう。あるいは、対戦者どうしと、そのギャラリー、すなわちモブとに完全に別れてしまう。

なので、AWって、何だか、とても閉塞感を感じさせるんだよね、映像にすると。

対して、SAOの方は、格ゲーではなくRPGがベースだから、どうしたってまず「パーティ」結成というイベントが必要になる。もちろん、キリトのようにソロの攻略組もいるわけだけど、ラスボスの攻略には、一人だけでは無理、という物理的条件があるので、個々ぞという時は、集団で対処しないわけにはいかない。

その、ソロとパーティ、という二重性が、物語に幅を与えてくれる。

とはいえ、そういう構造は文章で読むと、登場人物の出入りが激しくなってあまりうまく表現はできない。でも、映像だと、例えばモブであっても、きちんと顔や体が与えられて、とりあえず、「あそこにあいつもいた」ってことは、見てる側でも把握できる。

もっといえば、原作中で紙幅の関係で書き込むことがなかった、SAOやALOの背景が、人も建物も含めてちゃんと映像にされることで、キリトのちっぽけさが、造形的も、集団的にも描くことができる。

そして、何よりも、攻略という集団戦をきっちり描くことができる。

要するに、キリトやアスナ、あるいはリーファのようなキャラクターの動きだけでなく、彼らが動きまわるSAOやALOも同時に描写されて、それが原作を読んだ時には見過ごしたりしていた世界観を与えてもくれる。

つまり、SAOの方がAWと比べて、映像にしてアドオンされた部分が多く、しかもそれが必然的なものとしてうまく機能したのだろうな、と思う。

で、こうした違いが、つまり、少年・少女の心を扱う物語か、大人と子供が入り混じった仲間と世界を扱う物語か、の違いが、原作を読んだ時の評価と、映像を見た時の評価が逆転した大きな理由なのではないかと思えてきてる。

そういう意味では、SAO二期で最初に扱われるであろう、GGOの世界の扱いには、期待と不安の両方が入り混じることになる。

というのも、GGOの世界のヒロインであるシノンは、それこそ深刻なトラウマを抱えて、そのトラウマと向き合うためにGGOというVRMMOの世界に参戦することになるから。

つまり、AWの物語パタンがSAOの世界に接木されることになる。

原作を読んだ時も、GGO編は鬱展開が多くて、結構ゲンナリしたと記憶しているし。

なんというか、この作者の筆圧の強さは、ともすれば、そういうグリグリ主人公やヒロインをいたぶるところに発揮されるところがあってw

ついでに言えば、GGOの後のマザース・ロザリオもそういうところがあってw

なので、二期は楽しみだが、同時にその出来がどうなるかに一抹の不安がある。

とはいえ、GGOのシノンは、MORE DEBAN組のリズやシリカと違ってw、SAOの中では、妹ポジションを確保しているリーファは別格として、アスナに次ぐ重要なヒロインになるので、物語に早く絡んで欲しいとは思うのだけどね。

そういう意味では、短編の「キャリバー」を、先に制作してくるといいのになー、と思う。

キリト、アスナ、リーファ、シノン、ユイ、に加え、リズ、シリカ、クラインが登場してパーティを組み、あるお宝のクエストに出かける話は、笑える所満載で、非常に楽しいのでw

これだけ、先に映像にしてくれないかな、マジでw

あ、もちろん、AWの二期も期待してる。というか、AWの方は「災禍の鎧編」こそが物語の本番だと思うので、こちらで、むしろ、SAO的なパーティやチームの結束や裏切りが描写されることに期待したいので。

ともあれ、暫くの間、SAOとAWの覇権は続くのだろうな、と思う。

原作にしても、映像にしても、楽しみに続きを待ちたいw

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ソードアート・オンライン 第25話 『世界の種子』 3 追記2

2012-12-24 00:02:09 | SAO/AW
もう一点、記しておく。
やっぱりいい最終回だと、書きたいことが止まらなくなるなw

それは、ALOに入って、飛翔が可能な世界になったことの意味。

これは、最後の場面でわかるけど、やっぱり空間的移動の自由を保証してくれる飛翔は、何かを達成した時の爽快感を表すのに最適であること。多分、これが最大の意味だと思う。

SAOの時は、飛翔が使えないので、皆、地面をそのまま進んでいくことしかできない。そうやって、一層ずつアインクラッドを攻略していく。

これは、とても地道な作業。

裏返すと、集団でのスピードに欠けて、その分、集落が出来たり、リズやエギルのように、攻略の第一線には参加せず、いわば後方支援に徹する人たちも出てくる。

その分、世界はリアルになる。

で、これはこの世界での死がリアルの死を意味する設定にした茅場明彦からしてみれば当然の措置といえる。

ついでにいえば、SAOの世界に「魔法」がなく、剣技でしか攻略出来なかったのも、身体的なリアルを維持するためのものだったのだろう。

こうした地べたを這うようなリアルが、SAOの設定上、どうしても必要だった。

対して、ALOは飛翔も魔法も可能で、ある意味、誰もが、スタートから少しだけ全能感を味わうことができる。作中でエギルも言っていた通り、「飛ぶこと」自体が一般ユーザーにとっての魅力になるから。そして、その魅力は、ALOを、SAO出身者の300人を実験用に拉致した須郷からすれば、その実験の隠れ蓑としての電脳空間を維持するのに好都合だったから。

なので、実は、こんなところにも、つまりはゲームのフィールドの設定自体にも、茅場と須郷の目的の違いが現れていたことになる。

とはいえ、飛翔は、やはり爽快で、その爽快さは、最終話の締めのためにも必要だった。

一つは、前のエントリーに書いたように、リーファの想いの比喩として機能させるため。

そして、もう一つは、最後に登場した新生アインクラッドを、外部から客観視するため。

つまり、VRMMOの世界を俯瞰する地位を得るために必要だった。

いうまでもなく、俯瞰は、「上から目線」そのものだ。つまり、キリトらが、この世界を基本的には掌握した、ことも表している。

その俯瞰する視点を獲得してSAOの世界を眺めることで、初めて攻略が終わることを意味する。そして、攻略した事実をきちんと示すことで、初めてこの物語を閉じることができるから。

なにしろ、キリトが茅場を倒した場面自体は、他のプレイヤーは直接には見ていない。

だから、確かにこのゲームは一旦クリアされたんだ、ということを、プレイヤーの全員に明らかにしてやる必要があった。そのためにも俯瞰する視点を皆に与える必要があった。そして、飛翔は、そのための鍵だったといえる。

まぁ、確かに、クラインやエギルが、羽を使って飛んでるところは、今一つぱっとしないのだけどw

でも、そうやって飛翔させることで、攻略の事実を明らかにすることができたのだと思う。

つまりは、プレイヤーにとっての記憶の鍵をちゃんと作ってやるということで。

ということで、SAOを完結させるためには、ALOでは飛ぶ必要があったわけだ。

もちろん、飛翔は、過度に全能感を与えかねない。
だから、リミットがあることも同時に示されなければならない。
そして、そのリミットの存在は、前のエントリーに書いたように、リーファ/直葉の心象風景を表現することにも貢献した。

飛ぶことは、かくも偉大な効果を持っていたということだ。

とにかく、彼らが飛べなかったら、この最終回の大団円はなかった。
とりわけ、リーファ/直葉の物語を畳むことができなかった。

ということで、SAOからALOへの流れは、うまく作られていたと思う。

ソードアート・オンラインは、本当に緻密な作品で驚く。
そして、それが映像にしたことで、はっきりしたことが素晴らしい。
なぜなら、映像化することで、魅力が格段に上がったわけだからw

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ソードアート・オンライン 第25話 『世界の種子』 2 追記

2012-12-23 18:53:48 | SAO/AW
さっき書き忘れたことを一つ。

アインクラッド編からフェアリダンス編への移行で一番大きい変化はアバターだった。

強制的にリアルの似姿にされたSAOと違って、基本、ALOではアバターは選択できる。自分の似姿である必要はない。

この基本的な違いが、終盤まで、リーファ=直葉、という事実を隠すことができた。

で、そのリーファのアバターだけど、明らかに直葉と違う。
リーファと直葉は、体型、スタイルからしてかなり異なる。

この違いは、普通に考えて、「違う自分になりたい」ってことの現れだよね。

だから、直葉にとっては、ALOはもう一つの世界だった。

それに対して、アインクラッド編の面々は、もう一つとは決して言えないほどリアルな世界をとしてSAOを捉えていた。なにしろ、姿も自分自身だから。

なので、確かに、最後に、リーファがキリトにどうして、他の人達のようにアバターをSAOのものに戻さなかったのか?と聞いたのは、当然の疑問。

実際、クラインやシリカたちはほぼ同じアバターを使っていたから。

そのリーファのもっともな疑問に対して、キリトは、SAOのキリトの役目はもう終わったから、と答えた。

ここは結構大事なところで、既に、リアルもバーチャルも「現実性」という点で差が亡くなっていたキリトからすると、アスナを解放した時点で、かつてのSAOは全部クリアしたと感じた。

その完結感が、以前のアバターを捨て去ることに繋がった。
彼にとっては、もうSAOは過去の出来事だから。
そして、今使ってるALOのアバターこそが現在の自分である、と感じている。

で、この姿勢、というか決断が、リーファの心を軽くしたのは間違いないよね。

で、更に大事なのは、アスナも、アバターを変更したことで。

多分、この、キリトとアスナのアバター変更の選択が、リーファにとって、彼らとの壁をなくすきっかけになったし、それによって、彼女はようやくキリトの世界に参加することができた、ということになる。

いやー、しかし、こういう心境の変化を示すような絵の表現というのは、やっぱり、実際に絵で見ないとわからない。

原作だと、なんとなく見過ごしていた、ウンディーネとしてのアスナのアバターも、リーファの心情に立って見ると、ちゃんと意味があるものになってくるから面白い。

もっとも、そう思うのも、ALO編が、基本的には、リーファ/直葉視点で物語が語られていたからなんだろうな、と思う。

そうして初めて分かるものもあるから、原作から映像にするのって、やっぱりシリーズ構成で苦労するのだろうなー、と感じる。

そういう意味では、フェアリダンス編は、ホント、丁寧に作られていたと思う。

だから、きっと今回のリーファに起こったのと同じようなことが、GGOの後に、ケットシーを選択してALOにダイブするようになるシノンにも起こるのだろうな、と思う。

これ以後の話では、GGOで登場するシノンも含めた三人が、キリトのサポート役としてそれぞれに大事な位置を占めるようになるわけで。

ということで、続編が本当に楽しみになってきた。

それにしても、リーファ視点にこだわって映画的演出を多用したフェアリダンス編は、本当にいい作品だった。

いつか、ボーナストラック的に、シノンも参戦して、新生アインクラッドを、皆で攻略している物語を見てみたいものだなぁ。

いや、原作では、ALOの攻略編はあるんだけどね。
あと、最初のSAOの攻略はプログレッシブの方で始まってるわけだけど。

この、フェアリダンス編以後に登場したものを見てみたい。

要するに、リーファがキリトたちと一緒になってガチに攻略する姿を見てみたい、ということだけなんだけどねw

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ソードアート・オンライン 第25話 『世界の種子』

2012-12-23 16:11:59 | SAO/AW
いやー、いい最終回だった。

アスナの救出と解放をようやく成功させ、SAOの面々が再結集する。
そして、最後の最後で、このフェアリダンス編の主人公だったリーファをアインクラッドの世界に導くことで、SAOとALOの話がきちんと繋がって終わる。
同時に、前々回あたりから何となしに感じられていた、リーファの疎外感もきちんと解消されて。

最後に、リーファがALOの中で月に向かってどこまでも上昇を続けていく場面は、垂直方向にどこまでも上り詰めようとする彼女の決意と、けれども、その彼女の意志にも拘わらず、上昇できる高度には物理的限界があることが示されていて、つまり、意志の強さとともにそれをはねつける限界も示されていた。

それは同時に、リーファがキリトを追おうとする意志の強さと、それでも乗り越えられない壁の存在を表していた。
つまりは、彼女の決意と断念が同時に表現されている。

もともと、リーファ/直葉は、キリト/和人が囚われてしまったSAOの世界を知るために、ALOに参加した。システムは違えど、同じVRMMOの世界を体験することで、もしかしたら、和人が感じていたこと、考えていたことに気付くことができるのではないかと思って始めたことだった。その過程で、和人の思考の追体験だけでなく、ALOの世界のあり様に気づいていき、その世界に慣れ親しんでいった。

だから、あるタイミングで、直葉はそれなりに和人のことを「理解」できるようになったと自信をもつようになったのだと思う。

もちろん、それは、SAOの中に閉じ込められて眠ってしまったまま起き上がらない和人の存在を「感じる」ための行為だった。和人が目を覚まさない以上、彼にコミュニケートする手段は、彼の世界を追体験するしかなかったから。

このあたりのジレンマをうまく表現したのが、最後の、月に向かったリーファの上昇飛行だったのだと思う。

以前であれば、どこまでも飛翔して、月(=和人)にまで手がもう届く、届くはず、と確信していたはず。
その自信を揺らがせたのが、フェアリダンス編での、キリトとの冒険だった。
キリト=和人は、結局、ALOにいてもSAOのアスナを目指していたわけだから。

もちろん、キリトにはキリトの事情があるのだから、そのことだけでリーファが自信をなくす必要はないのだけど、そこは、完全に一人よがりの、自分勝手に落ち込んでいるだけ(それが前々々回の、バレの後の爆発なわけで)。

近づいたと思ったはずの和人が、フェアリダンス編の冒険を通じて遠くなった。

正確には、どこまでも近づくことができるはず、と思えていたことが、アスナの登場によって、和人=キリトとの距離がある近さで確定してしまったように思えた。
キリト=和人とアスナ=明日菜の関係も、頭では理解できても、心がついていけない。

それを、ALOとSAOの間に横たわる壁、として理解しようとした。

これも、正確には、SAOのオフ会を最後に挿入することで、その現場を直視する直葉の疎外感を同時に表現しようとする、作者の構成がどうにもあざといわけだけどw

その疎外感を、最後に、ALO内での飛行並びに飛行限界で暗示しているのだから、ホント、あざといなぁ。

でも、その、リーファが感じていた壁すら、アインクラッドを強引にALOの中に呼び込み、一緒に攻略することでチャラにしてしまう、キリトさん(+作者)はホント、あざとい。

リーファが逃げ口上に使おうと思っていた「壁」が実際になくなってしまったわけで、それじゃ、リーファがキリトの前から退散する(真っ当な)理由もなくなる。

同時に、この新しいアインクラッドで、アスナやクライン、エギル、シリカ、リズ、といったSAOの面々と、リーファやサクヤたちALOの面々が、協力して攻略に当たる、新たなゲームが始まるわけで、そこで、リーファからすれば、また、ゼロベースで、キリトとアスナたちの世界に参加できる。

同時に、キリト=和人との距離も埋められる(かもしれない)と期待できる。

実際、休戦協定終了後の、リズやシリカのような存在もいるわけだしw
この後のGGO編からは、シノンも加わるわけだしw

・・・ということで、直葉=リーファの中で燻っていたわだかまりも、最後にきちんと昇華して大団円を迎えたわけで。。。。

いやー、ホント、よくできた構成だなぁ。
物語のパートパートで示されたことが、いずれもきちんと最後には意味を持って繋がっていくところが。

最後の最後で、須郷が、心理的にも、肉体的にも、そして、社会的にも、ボッコボコにされる爽快感も含めてw

加えて、須郷との対比で、いつの間にか、茅場がどちらかというといい奴だったって誤解させていくところも。

もちろん、以上の構成は、全て基本的に原作通りなのだけど、そのツボをいずれもうまく映像化してくれたわけで。制作スタッフの方々には大感謝ですよw

そして、改めて、ソードアート・オンラインって物語が、細部まで緻密に作られている作品だな、と感じたのだった。

個々のエピソードにしても、シリーズ構成にしても、それらを支える世界観にしても。

アニメ化によって原作もバカ売れしているので、二期と言わず、続編が作られること自体には何ら不安はないので、希望としては、できるだけ間を開けずに、二期、三期の製作に取り組んでもらえるといいな。

ともあれ、最後、アスナとキリトの物語も、リーファとキリトの物語も、ともに、気持よく閉じてもらえて、ホントよかった。

まだまだ言い足りないところはあるのだけど、まずはこんなところで。

面白かった! 続きが楽しみ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中二病でも恋がしたい! 第12話 最終話感想 追記/補足

2012-12-21 19:20:57 | 京アニ
昨日のエントリーではちょっと言葉足らずだったところがあるのでちょっと補う。

まず、ナレーションでかたをつけたのがどうして駄目なのか、だけど、それは、中二病という病に対して、勇太や六花がどう向き合ったかについて、自ら語る機会を奪ってしまったから。

昨日も書いたように、そのことに自覚的に取り組んで、かつ、自分なりの回答を得たのは丹生谷だけなんだよね、作中では。

モリサマーによれば、俺様モード(オレ/アタシは特別!って自意識をもって)で何かに熱中しているのは、その対象が何であれ、中二病だ、ってことだった。
要するに、自意識過剰なまま何かを打ち込むのは、等しく中二病だ、ってことになる。

で、その、何か打ち込んでしまってる自分に対して、それを冷静に見るもう一人の自分がいるのが、中二病を卒業した自分=モリサマーだ、ってことになる。

要するに、自分のコントロールが出来る、ってこと。
もちろん、その上で、中二病的振る舞いをするのは、全くオッケーになる。
だから、彼女的には、街頭ゲリラ・パフォーマンスは、それがどれだけ奇天烈であっても、わかってやっている以上、問題なし!、ってことになる。

その「わかってやってる」って意識が大事。

で、その意味では、前回と今回の変化で見る限り、実は凸守もそうだったように思える。

そんなのわかってるけど、やってる、ってこと。

だから、結局、頭のいい、優秀な子は、比較的カンタンに中二病から離脱できる。
というか、中二病を行き来できる。

もっとも、そんな行き来ができる時点で既に「病い」ではないのだけど。

で、六花と勇太については、そういうプロセスが全然見えないまま、終わってしまった。

だから、彼らにとっては全然、中二病「でも」いい、じゃないんだよね。

実際、最後に、勇太は、まだ「恥ずかしい」なんて言ってるわけだから。

さらに、六花の場合は、もっと重症で、そもそも彼女にとっては、中二病的奇行は文字通り、現実逃避のためのものでしかない。しかも、その発端は、勇太の奇行を見て真似したところから始まっている。なので、これは、もはや病いですらない。

ここが、グルグル周り、って言ったところ。
要するに、勇太と六花は、実は互いが互いの鏡像だった。
その鏡像どうしが、最後に、よくわからんけど「恋」って言葉で誤魔化されて、互いに互いを許してオッケーということにしてしまった。

しかも、そのことに何ら、自覚的な発言をせずに。

この点で一番気になったのは、終盤になって、ほとんど六花が受動的な態度しかとらなくなったこと。特に今回なんか、ほとんど意志のある言葉を発していない。

そして、意志のある言葉を発さないから、第三者と全く意味のある対話をしない。

勇太に至っては、二年前の自分からの突然の(超・ご都合主義的なw)手紙を見ての、自己との対話しかしてない。

つまり、六花も勇太も、何か、勝手に自分で納得して終わっただけ。

そして、そのステージを、周りが、ありえないくらいのホスピタリティでお膳立てをしてくれる。

というか、いくら何でも、二代目邪王心眼はないだろ。
くみん先輩を便利に使いすぎだよ。

いや、コミカルだからもちろん笑えるんだけど。

でも、最後に、くみんが出てきて勇太に六花の経緯を告げる当たりは、いくらなんでも、調子が良すぎる。もちろん、突然、示し合わせたかのように、六花の実家に集ってる、丹生谷、凸守、一色もね。

この優しすぎる隣人たちは、なんというか、宮崎アニメ的ご都合主義なので、それだけでニンマリできるけど、でも、それだけなんだよね。

彼らのお膳立てにのって、六花と勇太は、なんちゃって逃避行をする。。。。

で、ここにも、二人の主体性はほとんどない。

だから、一言で言うと、幼稚なんだよ、二人とも。

で、その幼稚さを挽回する最後の機会が、自分たちで「中二病でもいい」って自覚し、発言することだったはずなんだけど、その機会を、天の声=ナレーションが奪ってしまった。

ついでに言えば、このナレーションのCVのおっさんの声、嫌いなんだよね。
いかにも訳知り顔ふうな語りが。
しかも、結局、この声、第一話の冒頭と、最後に出てくるだけで、登場人物の誰かであったわけでもない。
なので、一体、この天の声は、何の権利があって、こんなお節介なコメントを物語の前後に組み込んでくるのか、全く不明。

普通は、ナレーション的声は、途中で誰か作中人物の一人であることがわかり、その人の目線で語ってるんだな、ってわかるのだけど。

例えば、最近なら、ヨルムンガンドのヨナとか、昔だったらギアスのCCとか。
あるいは、京アニだったら、ハルヒのキョンでもいい。

何にせよ、誰が、どんな資格で、物語の解釈に繋がるナレーションをしてるのかが、明らかにされる。

それが最後までないままだった。
モリサマーであればまだ納得できた、というのはこういう理由から。

で、その天の声が、「中二病でもいい」と言ってしまい、六花と勇太に宣言させる機会を奪って、ぶち壊し。
そこには、何のカタルシスもない。
ヌルい自己肯定がそこにはあるだけ。

もちろん、六花も勇太も単にイタイやつとして、中二病やってた、というだけなら、そんな自覚なしで終わってもいい。

でも、六花の場合は、父の死の受け止めを巡る不調や、それを基づいた家族関係の崩壊、という話を途中で入れてしまった。さすがに、それだけ重たい問題を六花の奇行の原因として作中で示したのなら、形だけでもそれに作中で答えないと駄目だろう。

十花が延々と抱え込んだ六花と母の問題はどうなったのか、そもそも、六花の母はちゃんと六花と対峙することができたのか。六花の爺ちゃんにしたって、ただ堅物だから、騒ぎ立てていたわけじゃなく、彼なりに孫のことを考えての叱責や怒りだった。

そうした六花の家族を取り巻く、結構厳しい表現に対して、それらに何ら応えることなく、終わってしまった。

これは、やっぱり、物語としては、不誠実だと思う。

京アニでいえば、過去のKey関連作品は、そういう家族の問題については、作中で提示したら、一応、ちゃんとそれに答えていた。単に、物語を盛り上げるために、都合よく使ったりはしなかった。

それに対して、この『中二病でも・・・』は、放り投げっぱなしで終わらせた。
あるいは、そのあたりの描写をすっ飛ばした。
これは作劇の仕方として、不誠実でしょ。

で、そうした不誠実な畳み方は、12話しか尺がないから、というのでは理由にならない。

全ての伏線に物語が応える必要があるとは思わない。
けれども、物語の根幹に関わるものについては、きちんと応えるのは大事なことだと思う。

そして、このあたりの対応が、どうもアニメオリジナル(ないし、それに近いもの)については、結構蔑ろにされているなぁ、というのが、最近、気になるところ。

アニメは作画だけじゃなく、まず、物語がある、ってところに戻って欲しい。

そうでないなら、ただ、綺麗な作画だけを、イラストとして流通させればすむことだから。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中二病でも恋がしたい! 第12話 『終天の契約(エターナル・エンゲージ)』

2012-12-20 15:19:15 | 京アニ
「・・・人は、一生、中二病なのだ・・・」

・・・って、そんなわけないだろう、何いってんだ?

てか、このナレーションは蛇足だったな、マジで。

前回までの展開になったら、最後は中二病「でも」いいじゃないか、ってなるに決まってると思っていたけど、ホント、その通りで、何の捻りもない。

で、その中二病「でも」いい、ということを、どうして勇太に語らせないで、わざわざ、ナレーションのような天の声を使って、まるで、神様が許してくれるかのごとく、語らせなくちゃいけないのか。

いや、中二病「でも」いい、という終わり方は全く面白いと思わないけど、そのことを「中二病は卒業だ」といって切り捨てた勇太にその意味を再確認させないと意味ないんだから、そりゃ、「中二病でもいいんだ、六花!」って、勇太に言わせなきゃ、全く意味ないだろう。物語として破綻しちゃうじゃない?

せっかく、モリサマーが、勇太は「浅い」って指摘したんだからさ。

その意味では、中二病とは何か、ということについては、さすがはマビノギオンなんてものまで、せっせと書き綴ってしまったモリサマーこそが、この物語を通じて、ある意味で達観することができたわけで。

いっそのこと、ナレーションは、モリサマーが最後、やればよかったのに。
それなら、まだ納得できたかなぁ。

そもそも、二年前の自分が書いた手紙を見て、昔のことを思い出し、自分が六花を中二病の世界に引き込んだから、その責任を取ろう、って、いやー、勇太、何だそれ?

何が何だか、わからん。
さすがに、それは、話をグルグル周りにし過ぎだろ?
結局、六花の家族はどうなるの?とかね。
あれだけ、シリアスモードにした、家族の不和の問題なんだから、それはさすがにちょっとは畳めよ、って思う。

・・・ということで、結論からいうと、最終回、つまらなかった。
物語としても、駄作だと思う。

まぁ、明らかに話数が足りなかったんだろうけどさ。

終わってみれば、六花と勇太の、中二病を巡るグルグル周りの話を、つまり、中二病として互いに傷を舐め合うことを容認する?話だけで、その間に、モリサマーやくみん先輩を始めとした、脇役たちがコミカルに味付けする、という話だったわけで。

ホント、モリサマー、一色、くみん、凸守、がいなかったら、全くつまらない話じゃない。

是非とも、六花と勇太を除いた、残り4人が活躍するコメディを、スピンオフで作ってもらいたいなぁ。

裏返すと、この4人をあまりにも便利に使いすぎたと思う。

だったら、ちゃんと最後の最後で6人が集まる絵を入れて終われよ、と思う。
あんな、説教臭いナレーションなんか入れるんじゃなくて。
いや、説教臭いというよりは、甘やかしてばかりのナレーションなんて入れるんじゃなくて、か。

京アニがどんどん、ただ絵がいいだけのプロダクションになっていくような気がして、残念でならない。

もっと物語を大事にしろよ。
その上で、動きや絵の精妙さで驚かせて欲しい。

これなら、『氷菓』の方が千倍良かったってことになってしまう。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヨルムンガンド PERFECT ORDER 第23話 『ウォーモンガー』

2012-12-19 20:24:02 | Weblog
毎回、面白く見てきていて、前回、とうとうタイトルであるヨルムンガンド計画が明らかにされたわけだけど・・・

うーん、ちょっとありきたり過ぎる展開かなぁ。

全世界を覆う衛星網の話は前からあったわけで、それを使って何かするのか、そこで、南が何かロボっぽいものを導入するのか、と、さて何が来る?と思っていたのだけど、それが、量子コンピュータを使った、リアルタイムでの既存コンピュータ同時多発ハッキングで、それによって制空権から制海権、といった全ての主権国家の軍事上の機動力を麻痺させる、というものだった。。。

ってのは、ストレートすぎたかなぁ。

それが武器商人であるココが、兵器や軍人が、それこそ虫酸が走るほど嫌いだから、というので、一気に反転して、ヨルムンガンドという超兵器、というか、メタ兵器を使って一足飛びに全世界的な同時武装放棄を実行し、世界平和を実現しちゃいましょう、という。

その、反転ぶりが、また、いかにも、で。

さらには、そうやって数十億の人類を戦争放棄状態にして強制的に平和な状態にするにあたり、70万人にはとりあえず死んでもらう、という計算。

それが天秤にあうと考えるココと、直感的に違うと感じるヨナ。

Fateの切嗣さんのテーマなまんまなわけでw

加えて、ココと違って、イージー・ゴーイングで現状維持をむしろ望むキャスパー、そして、CIAに居ながらにして所属組織が無力化させる方にむしろ賭けてしまうブックマン。。。

うーん、いずれも、あまりに、ありきたりの展開過ぎて。。。
正直、大味すぎて、しょぼい。

ここまで見てきたヨルムンガンドの面白さって、やっぱりディテールの積み重ねにあって、その掛け算の仕方が、ちょっと不思議に思わせる展開にあった。

あるいは、登場人物のそれぞれに相応の人生背景を与えて、それぞれの物語に合わせてエピソードが展開していく。

ココのチームも、基本、ココの護衛が任務だから、防衛が中心で、その位置づけの延長線上で、とりあえずは義賊っぽく見える殺戮も行なってきた。

要するに、ワルの中にも正義があるのさ、ってノリで。
より悪いワルをのしていく、という感じで。
そういう点では、現実世界とのリアリティ描写の違いはあるけど、基本的には、ワンピなんかと大して変わらない展開だった。

それが、前回、ルツが言ってたように、ココの展開が強引になったことで、イメージが変わった。防戦ではなく、ココ自身が、ゲームを仕掛けていくことになって。

まぁ、これは普通に、善玉が涼しい顔したまま悪役に転じる、ってことなんだけど。

ただ、そこでやることが、世界平和の実現とそのための、いわゆるダモクレスの剣的な恐怖の支配、というのは。。。。
で、それが、衛星×量子コンピュータ、ってのはね。

まさか、こんな陳腐な、それこそマンガみたいな超展開でこの話を終わらせたりしないよね?

原作未読なので、そう期待したいところなんだけど。

あまりにも書割的な結末に向かっているのは、あくまでも舞台をわかりやすくするためだけのことで、その裏で、もう一捻りした展開が待っているんだよね?

でないと、最終コーナーでぶち壊しな感じがするなぁ。

いいじゃない、Black Lagoon的に、ダークな裏稼業のまま終わっても。
その中で姑息に相手の裏を書いて勝利する、あるいは、敗北しない、という展開で。

もちろん、この物語の語り手はヨナであるわけだから、彼の「武器商人と旅した」というモノローグにあった、彼が見た結末でいいと思うので、その視点からのひっくり返しが欲しい。

ただ、その場合も、子供にはこう見える、大人には見えないかもしれないけど・・・、のようなヤワイ展開ではなく。

そこに、大人/子供の線を引いて、子供は無垢だから、というようにするには、ヨナが経験したことは無残なものだから。

直感的に考えて、ヨナがココに背を向けたのは、ココの計画で死ぬ70万人は、彼が収容所にいた時の妹分の女の子が地雷を確認させられるために死んだ(殺された)のと質的に変わらない、と捉えているのだと思うけど、それをヨナが言葉にするのかどうか。

せっかくここまで来たのだから、一捻りも二捻りもある終幕を期待したいところ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ジョジョの奇妙な冒険 第11話 『ゲームの達人』

2012-12-17 21:33:10 | Weblog
ジョセフの第二部はやっぱり楽しいなぁ。
今更だけど、ストレイツォを使っての、第一部から第二部へのイントロってもの凄くうまい構成だな、と思う。
いや、もう、これは、原作がイイ!、ってことにしかならないのだけどねw

新OPも良い感じ。
ワムウやリサリサ、シーザーたちが縦横無尽に動いていて、ここから先どんな感じで出てくるのか、楽しみでならない。

いや、登場の仕方はもう知ってるのだけどさ。

これほど、物語の流れは既に知っているけど、それがどう映像として、動きとして表現されるのか、を楽しみにできる作品ってのも、珍しいよね。

ていうか、OPの神砂嵐の表現、あれだけでもう、お腹一杯w

なんていうのかな、もともと荒木飛呂彦の画風が、最近のアニメ絵と全く異なることもあるのだけど、その、いい意味でマンガらしい感じを、つまり、線で描かれている絵を動かすことに、とても成功しているよね。

なので、作画の乱れがあっても、あまり気にならないw
勝手に脳内補完してるからw

そして、そこまで計算して、あの画風を、擬音の重ね書きも含めて表現しているのだとすれば、もう、脱帽せざるを得ない。

シュトロハイムも既にいい味出してるし。

スタンド合戦に入ってからはスタンドの紹介=謎解きから、どうしても物語が長期化してしまうのだけれど、この第二部は、そうなる前の、波紋=人間讃歌が中心の話で、、ジョセフの成長も含めて物語がテンポよく進んでいくはずなので、そのテンポも是非確保してほしいな。

原作を読んだ時、ニューヨークからいきなりメキシコの砂漠かよ、って思ったものね。
石仮面がそういう設定だから仕方ないのだけど。

でも、ロンドン→ニューヨーク→メキシコ、って空間移動のダイナミズムにも結構しびれたんだよね。

もちろん、その方向は、第三部で長大なシルクロードの旅のような形でより詳細に展開されるわけだけど。

で、メキシコの後は、イタリアだからね(ヴェネツィアだっけ?、確か)。

ヨーロッパ大陸が舞台になるのも凄いなぁ、と思った。
いや、シュトロハイムがドイツ人だから、当然そうなるんだけどね。

空間的にも時間的にも、ものすごくスケールが大きいところが、ジョジョのいいところ。
それをこのあとも映像的にうまく表現してほしいな。

いまから、最後の石になるカーズを飲み込む宇宙空間が楽しみでしょうがないw

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ソードアート・オンライン 第24話 『鍍金の勇者』

2012-12-16 19:32:32 | SAO/AW
結局、茅場明彦の掌の上での出来事だった、ってことだよね、このALOも。
プレイヤーがゲームマスターと対峙して、しかも、そのゲーマスが須郷なんだから仕方ないといえば仕方ない展開だけど、しかし、実際に映像になると、どうにもしょぼい終幕で。。。さすがに苦笑せざるを得ないw

いや、原作を読んだ時は、全く気にならなかった(と記憶している)ので、となると、これは、文章と映像との違いなんだろうな。

気分的には、前回のグランド・クエストの突破のところのほうが、絵的にはよかった。
やっぱり、映像は動きがあってなんぼ、って感じがする。

そうか、しかし、この茅場のシステムを、種子として世界に散らす作業って、フェアリィダンス編の最後だったんだな。すっかり忘れていた。こうなると、アインクラッド編とフェアリィダンス編がセットで第一期としてまとめて作られたのもわかる。

・・・にしても、だ。

最後の最後で、結局、キリト-ヒースクリフ、キリト-アスナ、のアインクラッド組で話が閉じるってのはねぇ。

要するに、フェアリィダンス組の話は全てこのための前座みたいな話になってしまうわけで。それがちょっと切ないかなぁ。

いや、前回までの話は圧倒的に、直葉/リーファとキリトの話、兄妹の話だったわけで、その直葉/リーファがこの物語の終幕に立ち会えていない、というのがね。なんとういか、残念というか、悲しいというか。

別にリーファが直葉であることはもうキリトにもわかっていることなのだから、最後の場面にまで付き添っても良かったと思うんだよね。もっといえば、前回のシルフ/ケットシーの軍団にしても。

そうすれば、須郷がやったことが、ゲームプレイヤーたちをモルモットにして、体の良い実験をしていたってことが、プレイヤー全員にもバレて、それはひどい!、ってことになった、須郷に対する罵倒が集まったはずだから。

あるいは、キリトがアスナを助けるところで、ヒースクリフとの秘密のやり取りがあったことを、リーファが目撃する、というのでも良かったと思うのだよね。

というのも、これはフェアリィダンス編になってからずっと思っていたことだけど、キリトの必死さが他のプレイヤーに全然伝わらないのがもどかしいというか。これでクラインやエギル、シリカやリズあたりが参戦していたら、そのあたりの必死さをキリトの口からではなく、彼らの口からALOのプレイヤーにも伝えることができて、ALO内でのバトルやクエストの意味付けがだいぶ変わったはずだと思うので。

もちろんフェアリィダンス編の山場は、キリトとリーファの関係のバレにあるから、周りにクラインらがいたらそのことを土壇場まで秘匿するのが難しいのはわかるんだけどね。

とはいえ、このALOの中で知り合った人たちが、キリトと同じく須郷バカヤロー!、グランドクエストなんか突破できないようなゲームの作り出し、そもそも空中庭園なんかないじゃないかー、って激高させるほうが良かったと思うんだ。

つまり、ゲームの構成に対する怒りをきちんとプレイヤーがゲーマスとしての須郷に向けさせながら、その傍らで、キリトが個人的事情で須郷をボコるっていう方がいいと思える。

その方が、今回の、割りと容赦のないキリトが須郷を(ゲーム内とはいえ)いたぶって殺す場面にも、ちゃんと意味が発生したと思うのだよね。つまり、私怨だけでなく、プレイヤーとしての怒りも(他のプレイヤーの分も代表して)須郷に向けたがゆえに、あれだけ虐殺的な場面が生じてもやむなし、ということにする。そのほうが良かったように思える。

というのも、ソードアート・オンラインという物語は、全体として、そういう、プレイヤーとゲーマスとの対峙というのも隠れたテーマとしてあるはずなので。どういう世界なら、世界として人工的に作られてもいいのか、という創造主の所業の善悪って判断も控えている物語だと思うので。

そして、フェアリィダンス編は、今回キリトが言ったように、須郷は、茅場の想像した世界を横からかすめた泥棒でしかない、ということで、ゲーマスの側のフェアのあり方についても触れていたわけだから。そのことを、(キリトから後日聞くのではなく)直接、プレイヤーが目にしてもよかったんじゃないかな、と思う。

そういう意味で、グランドクエストまでパートナーだったリーファを伴ってアスナの救出に向かい、須郷の鬼畜ぶりや、キリトのチートぶりを、リーファが目撃した、という構成でも良かったように思う。

まぁ、きっと、原作の時点では、この段階で、今後、リーファ/直葉をどう扱うかというのが、曖昧だったろうから、最後はわかりやすく、キリトとアスナ、キリトと茅場の関係に焦点を戻したのだろうけど。

でも、その分、須郷だけでなく、フェアリィダンス編全体が、アインクラッド編の実質的な完結のための、噛ませ犬に見えちゃうのが残念だな、と。そうしないために、フェアリィダンス編の登場人物たち、とりわけリーファ/直葉には、最後までALOの真実をきちんと見届けて欲しかったな、と思ったのでした。

もちろん、面白かったのだけどね。

それにしても、映像で見ると、やっぱり、AWよりもSAOの方が面白いと思えるから不思議。

ということで、次回は最終回か。
年末年始に原作を読みなおそうかなぁ。

あ、それじゃ、思う壺かw

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中二病でも恋がしたい! 第11話 『片翼の堕天使(フォーリン・エンジェル)』

2012-12-13 16:54:11 | 京アニ
何だか、随分、安っぽくて下らない展開になったな。
ホント、誰得なんだ? これ。

中二病って、そんなにまでイタイものなのか?
というか、六花のケースを、さも中二病の代表のように取り扱うタイトルも含めて、
さすがに、この展開はどうなのだろうね。

いや、ここまでシリアスな展開になったら、つまり、「中二病を卒業云々」という話にまで持ってきたら、次回最終回は、「中二病でも」の「でも」のところに焦点が当たって、中二病でもいいじゃないか、という落とし所にしかならないんじゃないの?

なにしろ、丹生谷が、「無理してんじゃない?」って忠告までしてるわけだし。

でも、それって、かえって事態を重くしてるよな。
要するに、重度の中二病と、軽度の中二病があって、前者は現実逃避せざるを得ない理由がきちんとあって本人の実存そのものがいつの間にか賭けられてしまってるもので、一方、後者は、まぁ、なんちゃって遊びの延長だから無害である、という感じで。

で、後者の方は、いわば、パフォーマンスと言う形で、中二癖をうまく現実世界にすりあわせた、丹生谷/凸守の即興パフォーマンスは、きちんと「演劇」という現実世界として承認されたようで。(きっと、このパフォーマンスは映像特典とかに付くんだろうけどね)。この丹生谷のエピソードでちゃんと、軽度の方は容認されていて。

で、見てる側かすれば、どう考えても、丹生谷ぐらいのもので、楽しくやれればいいじゃん、ってことなんじゃないのかな。

それを、どうして、ここまでシリアスにするかなぁ。

なんか、こう、過去に京アニが扱ったものというならKey的展開過ぎて、ドン引きする。

勇太の中の人がゼロだったことも含めて、要所要所を、京アニ製作であったかを問わず、パロディで散りばめてきていて、いわば、それらをネタとして笑ってきている横で、この無駄なシリアス展開はどうなんだろうな。

ホント、誰得なんだ?

オリジナルアニメって、どうしてこうも迷走するんだろう。。。

というか、アニメという表現自体が、もはや二次創作でしかないってことなのかね。

是非、続編は、モリサマーを主人公にして、楽しいものを作って欲しい。
というか、それ、続編じゃなくて、スピンオフか。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする