ようやくブルーレイになったので、『冴えカノ』の最終章を見た。
いやー、よかった!
前から期待していた、恵の「メインヒロインルート」は、あぁ、そうそう、こういうのを見たかったんだよ!ってとても強く思ったw
普通だけど、業の深い女子っているよね、ってw
でもさぁ、そもそも『冴えカノ』って物語は、もともとメタフィクション的要素が強くて、たしかに英梨々にしても詩羽先輩にしても、ゲームやラノベの中からいるよね、というテンプレ・キャラなんだよね。
だから、その2人に重度のオタクの倫也がとにかく惹かれる、というのは、ホント、ただのオタクの習性が投影されているだけのことで。
その確信的に2次元的キャラとして設定された英梨々と詩羽先輩と、もとから現実世界で隣りにいてくれる3次元の恵は、だから、設定の段階で、異なる次元の存在として、すでに描き分けられていたわけで。
その根本的な初期設定の違いが、この映画版では非常にクリアに描かれていた。
いや、もっとざっくり言えば、要するに、英梨々と詩羽先輩は2次元の世界の創造神キャラで、その2柱が倫也の前に現界して今いるのだ、という方が正しい。
だから、仮に、倫也が恵と恋仲になっても、倫也は、いつまでも英梨々と詩羽先輩のことを、愛すべきキャラクターとして追い求め続けることができるし、そこは実は物語の始めから全然変わっていない。
つまり、倫也は、最初から、求め恋い焦がれる対象として捉えるという意味で、英梨々と詩羽先輩のことを「愛して」いたんだよね。
だから、この劇場版の中で変わったのは、そうした倫也と英梨々&詩羽先輩の関係のあり方にようやくきづくことのできた恵の方だったってことで。
つまりは、一般人代表が、オタクの持つ「キャラへの愛情」を理解し受け止めることができた、ということ。
その「2次元キャラに向ける愛情」と「人間である自分=恵に向ける愛情」は両立しうるものである、ということに、恵が気づくことができた、という話。
同時に、倫也もそのことを自覚したという話。
なので、倫也と恵は、最終的に付き合って、婚約まですることになる。
それだけでなく、恵は、倫也の「創造のパートナー」として彼の傍らに立ち続けることを選んだ。
まぁ、要するに、加藤ちゃんは倫理くんに感化されちゃったんだよ、染められちゃったんだよw
でも、一旦染められちゃったら、2次元への愛と3次元への愛は互いに独立して共存しうるものとして認めることができる、ってわかってしまったら、英梨々と詩羽先輩のことを、恵も許せるようになってしまったってことだよね。
だって、英梨々も詩羽先輩も、かしましい妖精さんでしかないからw
で、そんな創造神で妖精さんである英梨々&詩羽先輩からすれば、今度は倫也を、同じく創造神の世界に引き寄せてしまえば、その中でいくらでも(それこそ恵公認でw)、彼との間で愛を交わすことができる。
だから、倫也は最後の場面で、高校時代のようなプロデューサーではなく、ゲームの「シナリオライター」になっていた。
彼もまた、英梨々や詩羽先輩と同じ「創造神」の地平に立つことを選んだわけで。
で、恵は、その創造神の活動を現実世界から支える「ディレクター」を引き受けることになった。
なので、これは、事実上、倫也が、3次元で恵を、2次元で英梨々&詩羽先輩の、都合3人を嫁にした、ということに等しい結果なのだ。
いやー、素晴らしい構図だね。
ここまで、美しく「2次元への愛」を描くことのできた作品ってないんじゃないかな。
しかも、ちゃんと「3次元での愛」を踏み台にして、そことの関係性までちゃんと明らかにした、という点で。
マジ、傑作だよ。
で、そのためにも、この劇場版、というか『冴えカノ』という物語で大事だったことは、倫也が、コンテントを消費するだけのヌルオタではなく、みずから作り手になろうとするキモオタであることが、極めて重要だったことになる。
創ることで、初めて2次元への愛は完成する、ということ。
そうした作り手たちの「創造に向けた情念」、すなわち妄想を、失わせてはいけない、というもので。
要は、「欲望せよ、されば与えられん」ってことで。
その一点で、この作品は、2010年代以後の、ソシャゲで課金されて巻き上げられることが楽しいと思う程度の新興のヌルオタたちを徹底的に批判している。
で、作中でのそうした批判者の急先鋒が、紅坂朱音なわけで。
彼女が倫也に対して、オナニー、オナニー、と連呼するところは、さすがに苦笑せざるを得ないわけだけど、でも、あの場面が、この作品の、映画だけでなく、全物語を少チョするアルファでありオメガであった、ということだよね。
創造とは、自らを愛撫するオナニーであって、それをとことん徹底せよ!ということで。
あの紅坂朱音は作者・丸戸史明の分身だよね。
いやー、丸戸史明、マジで業が深いw
でもその分、この物語の細部まで、心地よい緊張感を伴いながら見ることができる。
そして、「2次元への愛」を理解してくれる3次元の恋人、最後にはパートナーとなった「加藤恵」がどれだけ、作者の妄想の結晶であるかもw
でもこれもまぁ、一種のオタクバッシングに対する内省から生まれた、理解ある3次元の女子、ということで。
うーん、深いなぁ。
多分、多くの自称キモオタの心を、そういうフレーム=妄想が揺さぶったからこそ、結構なヒットになったのだろうなぁ、と納得。
で、よく見たら、この劇場版って、公開は去年の10月だから、もう1年も前のことなのだけど。
でも今書いたように、そこで表されていることが、2次元への愛、つまりは、およそ人間の創作物である人工物にはすべて当てはまる愛のことを扱っているから、全く古い気がしない。
だって、要するに、芸術全般に対する愛のことを扱っているのだから。
で、その芸術愛には、勇気を奮って自ら「創造」の世界に踏み入ることが不可欠だ、と言っているわけでしょ。
いやー、マジでこれ、傑作じゃないかな。
もっと称賛されて然るべき作品であることに気がついた。
マーベラス!!!
いやー、よかった!
前から期待していた、恵の「メインヒロインルート」は、あぁ、そうそう、こういうのを見たかったんだよ!ってとても強く思ったw
普通だけど、業の深い女子っているよね、ってw
でもさぁ、そもそも『冴えカノ』って物語は、もともとメタフィクション的要素が強くて、たしかに英梨々にしても詩羽先輩にしても、ゲームやラノベの中からいるよね、というテンプレ・キャラなんだよね。
だから、その2人に重度のオタクの倫也がとにかく惹かれる、というのは、ホント、ただのオタクの習性が投影されているだけのことで。
その確信的に2次元的キャラとして設定された英梨々と詩羽先輩と、もとから現実世界で隣りにいてくれる3次元の恵は、だから、設定の段階で、異なる次元の存在として、すでに描き分けられていたわけで。
その根本的な初期設定の違いが、この映画版では非常にクリアに描かれていた。
いや、もっとざっくり言えば、要するに、英梨々と詩羽先輩は2次元の世界の創造神キャラで、その2柱が倫也の前に現界して今いるのだ、という方が正しい。
だから、仮に、倫也が恵と恋仲になっても、倫也は、いつまでも英梨々と詩羽先輩のことを、愛すべきキャラクターとして追い求め続けることができるし、そこは実は物語の始めから全然変わっていない。
つまり、倫也は、最初から、求め恋い焦がれる対象として捉えるという意味で、英梨々と詩羽先輩のことを「愛して」いたんだよね。
だから、この劇場版の中で変わったのは、そうした倫也と英梨々&詩羽先輩の関係のあり方にようやくきづくことのできた恵の方だったってことで。
つまりは、一般人代表が、オタクの持つ「キャラへの愛情」を理解し受け止めることができた、ということ。
その「2次元キャラに向ける愛情」と「人間である自分=恵に向ける愛情」は両立しうるものである、ということに、恵が気づくことができた、という話。
同時に、倫也もそのことを自覚したという話。
なので、倫也と恵は、最終的に付き合って、婚約まですることになる。
それだけでなく、恵は、倫也の「創造のパートナー」として彼の傍らに立ち続けることを選んだ。
まぁ、要するに、加藤ちゃんは倫理くんに感化されちゃったんだよ、染められちゃったんだよw
でも、一旦染められちゃったら、2次元への愛と3次元への愛は互いに独立して共存しうるものとして認めることができる、ってわかってしまったら、英梨々と詩羽先輩のことを、恵も許せるようになってしまったってことだよね。
だって、英梨々も詩羽先輩も、かしましい妖精さんでしかないからw
で、そんな創造神で妖精さんである英梨々&詩羽先輩からすれば、今度は倫也を、同じく創造神の世界に引き寄せてしまえば、その中でいくらでも(それこそ恵公認でw)、彼との間で愛を交わすことができる。
だから、倫也は最後の場面で、高校時代のようなプロデューサーではなく、ゲームの「シナリオライター」になっていた。
彼もまた、英梨々や詩羽先輩と同じ「創造神」の地平に立つことを選んだわけで。
で、恵は、その創造神の活動を現実世界から支える「ディレクター」を引き受けることになった。
なので、これは、事実上、倫也が、3次元で恵を、2次元で英梨々&詩羽先輩の、都合3人を嫁にした、ということに等しい結果なのだ。
いやー、素晴らしい構図だね。
ここまで、美しく「2次元への愛」を描くことのできた作品ってないんじゃないかな。
しかも、ちゃんと「3次元での愛」を踏み台にして、そことの関係性までちゃんと明らかにした、という点で。
マジ、傑作だよ。
で、そのためにも、この劇場版、というか『冴えカノ』という物語で大事だったことは、倫也が、コンテントを消費するだけのヌルオタではなく、みずから作り手になろうとするキモオタであることが、極めて重要だったことになる。
創ることで、初めて2次元への愛は完成する、ということ。
そうした作り手たちの「創造に向けた情念」、すなわち妄想を、失わせてはいけない、というもので。
要は、「欲望せよ、されば与えられん」ってことで。
その一点で、この作品は、2010年代以後の、ソシャゲで課金されて巻き上げられることが楽しいと思う程度の新興のヌルオタたちを徹底的に批判している。
で、作中でのそうした批判者の急先鋒が、紅坂朱音なわけで。
彼女が倫也に対して、オナニー、オナニー、と連呼するところは、さすがに苦笑せざるを得ないわけだけど、でも、あの場面が、この作品の、映画だけでなく、全物語を少チョするアルファでありオメガであった、ということだよね。
創造とは、自らを愛撫するオナニーであって、それをとことん徹底せよ!ということで。
あの紅坂朱音は作者・丸戸史明の分身だよね。
いやー、丸戸史明、マジで業が深いw
でもその分、この物語の細部まで、心地よい緊張感を伴いながら見ることができる。
そして、「2次元への愛」を理解してくれる3次元の恋人、最後にはパートナーとなった「加藤恵」がどれだけ、作者の妄想の結晶であるかもw
でもこれもまぁ、一種のオタクバッシングに対する内省から生まれた、理解ある3次元の女子、ということで。
うーん、深いなぁ。
多分、多くの自称キモオタの心を、そういうフレーム=妄想が揺さぶったからこそ、結構なヒットになったのだろうなぁ、と納得。
で、よく見たら、この劇場版って、公開は去年の10月だから、もう1年も前のことなのだけど。
でも今書いたように、そこで表されていることが、2次元への愛、つまりは、およそ人間の創作物である人工物にはすべて当てはまる愛のことを扱っているから、全く古い気がしない。
だって、要するに、芸術全般に対する愛のことを扱っているのだから。
で、その芸術愛には、勇気を奮って自ら「創造」の世界に踏み入ることが不可欠だ、と言っているわけでしょ。
いやー、マジでこれ、傑作じゃないかな。
もっと称賛されて然るべき作品であることに気がついた。
マーベラス!!!