BLACK SWAN

白鳥のブログ - 日々の世界を徒然と

五等分の花嫁∬ 第2話 『七つのさよなら 第一章』 感想

2021-01-15 11:18:52 | 五等分の花嫁
あ、いつの間にか、『五等分の花嫁』って2期が始まってたんだ。

すっかり忘れていた。

でも、なんか2話にしてすでに色々すっ飛ばしていて、どういうつもり?と思いつつ、でも、それもあって、もうどうでもいいかな、って思ったかな。

まぁ、原作が四葉エンドという、面白くもおかしくもない盛大な茶番で終わってしまったから、ほんと、どうでもいいんだけどね。

多分、1期が終わったときには、それなりに2期に期待していたはずで、だから待ちきれずに原作にも手を出したわけで。

で、原作の終盤は、結構、楽しめたのだけど、最後は正直、裏切られた感が強くて、急速に関心を失ってしまった。

そのあたりの原作の終盤の展開が気になる人は、このブログの「五等分の花嫁」タグの過去記事を見てもらえればいいかな。

まぁ、とにかく、そりゃないでしょ?ってオチだったからねえ。

いまや、この原作を面白いと思っていたこと自体、一種の黒歴史なのでw

でも、多分、世の中的にも、完全に旬を逃したのではないかな、2期をやるタイミングとしては、って、思っている。

だって、いまさら2期で二乃の風太郎に対する気持ちが入れ替わるプロセスとか見せられても、それこそ茶番でしかないから。

あれだけ風太郎の傍らにいた五月に至っては、恋愛ステージにすら立たせてもらえなかったわけだし。

いやはや、ほんと、何がやりたかったのだろうね、作者は?ってぐらいの失敗作だから。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五等分の花嫁記念日を記念して: なぜ『五等分の花嫁』は四葉エンドで終わったのか?

2020-05-28 10:25:05 | 五等分の花嫁
5月27日の「五等分の花嫁記念日」で久しぶりに、『五等分の花嫁』のことを思い出したら、意外とあれこれ思いついてしまったので、せっかくだから書きとめておく。

なぜ、四葉エンドで終わったのか

あれだけ、一花や二乃や三玖を通じて伏線を撒きまくっていたにもかかわらず。

気がつけば、風太郎の傍らには五月が、まるで嫁のように、歯に衣着せぬ物言いをし、ええい!、この二人、もうつきあっちゃえよ!と、バカップルぶりまで発揮していたのにw

でも、最後は、「将来の夢はお嫁さん!」とうそぶく四葉がもっていった。

正直に言えば、高3の修学旅行くらいまでなら、四葉、まぁ、いいヤツ?ぐらいには思っていたのだけれど、最後のコミックで言えば13巻から14巻にかけての四葉は、こいつ、なんて泥棒猫なんだ!、と思い切り手のひらを返さないではいられなかった。

四葉の好感度はストップ安!という感じでダダ下がっていった。

でもさ、それくらい、風太郎が日の出祭で四葉を選んでからの展開は、杜撰だったんだよ。

確かに、いつかは四葉も本心を明かし、晴れて一花、二乃、三玖と恋敵になるとは思っていたし、そこから、二転三転のやり取りがあり、ついには五月まで重い腰をあげ、というか、遅ればせながら五月も自分の恋心に気づき、5人の姉妹の間の駆け引きになるとばかり思っていた。

ところが、四葉が選ばれた時点で、物語はあっけなく終わってしまった。

それも多くの伏線を残したまま。

なので、心ある真面目なラブコメ読書経験者たちなら、おいおい、全然話の辻褄があわねえじゃねいか、なんだよ、あの伏線どうなったんだよ?それともあれか、伏線ってのは全部、その場限りのミスリーディングだったのかよ、と悪態も付きたくなってしまうくらい。

アマゾンの14巻のレビューで、星を1とか2とかつけてるものをみれば、納得できるものばかり。

でもね、どうやら、そうした読者は(ここのサイトも含めて)、一つ、大きな見落としをしていたのだと思う。

それはなにか?

多分、作者にとって、五つ子は、最初から「一人」だったんだよ。

なにせ、一卵性の五つ子なのだから。

全員が基本スペックは同じ、いわばコピー体。

で、そのオリジナルが、作者にとっては「四葉」だった!というのが真相だった。

なにしろ、当初は、五つ子の全てのCVを作者イチオシのあやねるにやってもらう、という話もあったわけでしょ?

つまり、五つ子は、全員、実は「四葉」だったんだよ。

こういってよければ、四葉は、五重人格の存在だった。

あ、これは、あくまでも作者にとっての視点ね。

で、そう考えれば、終盤、唐突に選ばれた四葉が全てもっていった、というのも納得がいく。

なぜなら、作者目線で行けば、一花も二乃も三玖も五月も、みんな四葉の分身だったのだから。

つまり、作者からすれば、

四葉は、

一花として悪女お姉ちゃんを演じ、

二乃としてツンデレを演じ、

三玖としておどおどした奥手女子を演じ、

五月として憎めない腹ペコキャラを演じていた。

そうして、姉妹の姿を通じて、四葉は、風太郎と一通り、恋愛イベントをこなしていた。

少なくとも、作者目線ではそう見えていた。

だから、作者にとってのゴールは最初から明確で、とにかく、「姉妹の4人」という四葉の別人格が、風太郎と様々なシチュエーションで、あれこれのやり取りをすませてしまった後で、おもむろに風太郎に四葉を選ばせればよい。

だって、ラブコメに必要なアレコレの定番シーンは、姉妹というアバターで四葉はすでに経験してしまったから。

ついでにいえば、風太郎も。

なにしろ最初から、風太郎と四葉(とその別人格の一花、二乃、三玖、五月)の2人しかいなかったのだから。

四葉と風太郎の二人芝居だったのだよ、最初からずっと。

妄想の4人が、そこらへんを闊歩している、というのが作者視点から見た『ごとよめ』の世界だった。


・・・ってことだったんだと思う。

もちろん、これはあくまでも作者の頭をよぎった最初期の着想で、それをどうしたらマンガにできるか、と考えて、五重人格が五つ子に変わり、アニメにするならCVも5人分必要、ということになって、5人がきちんと個別の人格として確立されていった。

そう思えば、アニメにしたら竹達彩奈効果で二乃の人気が爆上げでビックリ!とか作者自身、思ってしまったわけでしょ?

そうして、五つ子のそれぞれが独立したキャラとして動き始めてしまった。

そもそも、連載の段階で、三玖の人気の急浮上にも作者は驚いていたのだし。

だから、作者と読者のボタンの掛け違いは、そのあたりで始まったのだと思う。

となると、本来はそのあたりの調整を図るのが担当編集者の役割だったはずだけど、結果を見れば、彼らが大して力を発揮できなかったか、単純に大した力量を持ち合わせていなかった、のどちらかなんだろうな。

少なくとも13巻と14巻を見る限り、とにかく、終盤が、色んな意味で、作者や編集サイドの思惑から外れて、バタバタと物語をたたむしかなかったことは明白だし。

ともあれ、作者からすれば、四葉と風太郎しかいない世界を作りたかっただけのことで、あとは、それをどう膨らませて、今までにない斬新なマンガのふりを装うか、というところに注力したのだと思う。

それが、花嫁当てミステリー、という装いだった。

でも、もともと、それは、一人の四葉と4つの別人格から始まった「五つ子設定」だったから、誰が花嫁かなんて問いは、ミステリーでもなんでもなく、ただの出来レースでしかなかった。

その理屈でいけば、風太郎にしても、京都で会った最初から「四葉」しか存在せず、一花を会っても、二乃と口論をしても、三玖とデートしても、五月とバカを言い合っても、彼女たちの顔の向こうに、同じ顔をした四葉しか見えてなかった、ということになる。

その意味では、五つ子ゲーム、というのは、そもそもゲームとして成立していなかった。

あれがひどかったのは、「四葉の森」ではなく「五月の森」にしたことで。

でも多分、あそこは、作者からしたら「四葉の森」にしたかったのだろうな。

そして、あそこを「四葉の森」にしておけば、実は、四葉エンドももっと穏当に迎えられていたのだと思う。

そういう意味では、過剰に、オリジナルは四葉しかいないことを隠しすぎたのが失敗だった。

随所で、夢や眠りのシーンが繰り返されたのも、本当は、夢の世界で、四葉が5つに分裂して、別人格の4人を生み出していた、ということを示唆してしたのだと思う。

ただ、そういうアナロジーは、大してうまくいかなかった。

だから、この作品は駄作というよりも、失敗作、という方が適切。

四葉しかいない世界、四葉の多重人格からなる世界、としてうまく読者にプレゼンテーションできなかったのだから。

つまり、偽装すべきジャンルは、恋愛ミステリーではなく、恋愛ホラーだった。

ある日突然、風太郎の目に、一花、二乃、三玖、五月の姿がブレ始めて、いつしか四葉のイメージと重なって消えてしまう。

だから、結婚式にいた四葉以外の4人も、新婚旅行についてきた四葉以外の4人も、みな、いわば一種の生霊のようなものだった。

あのマルオが与えたマンションに、四葉は、ずっとたった一人で住んでいただけなんだよ。

姉妹なんて、実は最初からいなかった。

全部、夢、白昼夢だったんだよ!

・・・というオチであるべきだった。

あるいは、平行世界の四葉が二重写しでこの世界に顕現していたのだ!とかw


だから、うーん、惜しかったね、としか言えない。

でもまぁ、ミステリーという(ファンタジーではなく)リアリズムの世界を選んででしまったのだから、ああいう終わり方しかできなくても、仕方はなかったってこと。

つくづく、なろう的なゲーム脳世代の作者、という気はした。

でもそう考えると、あの流れで四つ葉エンドで終えても、平然と、むしろ満足していいられるのもよくわかる。

だって、最初から、五つ子なんていなくて、四葉しかいなかったのだから。

前に、きっと四葉という名前は、『君の名は。』の三葉にあやかってつけたのだろう、って書いたことがあるけど、本当にそれだった、ということ。

もともと四葉しか、作者にはいなかったんだよ。

残りの五つ子はその分身でしかなかった。

だから、消えて当然だった。

だったら、風太郎が二乃や三玖の告白に対して謝る必要もないし、一花の卒業のことを描く必要もないし、五月の敬語離れを一回限りのネタにしても問題はない。

だってはじめから彼女たちは存在しなかったのだから。

少なくとも物語を紡ぐ作者にとっては、全て、夢の世界の話だった。

そう考えれば辻褄があう。

ただ、そんな幻想物語(ファンタジー)を犯人当てのようなリアリズムに基づくミステリー仕立てを装ったのが間違いだった、ということ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今日2020年5月27日は「五等分の花嫁記念日」だったんだって!

2020-05-27 19:57:24 | 五等分の花嫁
いや、今ごろ、知ったのだけどw

しかし、記念日って何さ?

あの物語の締め方で、何を記念すればいいのか、よくわからない。

普通に読んでいったら、高3以降の物語、とりわけ京都への修学旅行からの後の展開は、支離滅裂だと思うけれど。

ただ、マンガも、ゲーム同様、物語の途上で、うぉおおお!って盛り上がれればいいだけのものになったのだよ!と言われれば、あぁ、そうなんですか?というしかない終わり方だよね。

ディズニーランドのライドのようなものね。

はい、ここは三玖が初々しい回、

はい、ここは二乃がデレる回、

はい、ここは一花が闇落ちする回、

はい、ここは四葉が泥棒猫のように風太郎の頬にキスする回、

はい、ここは五月がヒロインになるかも?と思わせる回、

などなど。

あのマンガが重視したのは、そういったシーンごとのテンプレMAXの展開の提供だった、というのが、最後まで読んで得た結論。

だから14巻の最後には、飛行機の中でまで眠りから覚める風太郎が描かれてしまう。

ぜーんぶ、夢、というウソ―! な展開。

要は、妄想の垂れ流し。

ただ、それでも人気を博したのは、まさに、その妄想の垂れ流したる個々のシーンで、あぁ、そう読者を震えさせますか、上手いですね!、と思わせることに、徹底的に拘っていたから。

だから、終わってみれば『五等分の花嫁』というのは漫画家の手による作品、というよりも、ただの絵師/イラストレーターによる「熱量のある絵」のシークエンス、というのが正解だと思う。

ただそうだとして一つだけわからないのは、まさに高3の修学旅行以後、どんどん絵が劣化していったことで。

最後は、みな、五月なみのデブになっていた。

てか、キャラのプロモーションが壊れていたわけで。

それじゃ、絵師としても失格でしょ。

あれは、ホント、よくわからなかった。

とはいえ、商業的には成功だったことは間違いないわけで、むしろ、あれで成功できたのはなぜか?という問いをたてる方が賢明なんじゃないか、と今では思っている。

絵と物語は、必ずしも、今、シンクロしている必要はなく、都合のいい物語を、あとで、読者が一人ひとり、脳内補完できればよい!

それが、むしろ、読者も、書き手も、共有している、今の時代のマンガなんじゃないかと思っている。

少なくとも、商業的な成功はそれで担保できる、ということみたい。

だから、まぁ、もはや考えるべきは、『五等分の花嫁』現象の社会学、みたいなことなんだろうな。

どうでもいい話だけどw

でもまぁ、五等分の花嫁記念日、というから、ちょっと考えてみたw

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『五等分の花嫁』については、もう14巻の結末で評価を定めればいいだけじゃない?

2020-04-24 12:35:17 | 五等分の花嫁
最終巻の14巻も出て、単行本組もあの終幕を確認したわけだから、『五等分の花嫁』については、あの14巻の結末で「完結」ってことで、作品の出来を評価しても、もういい時期なんじゃないかな?

なんで、こんなことを言っているかというと、ときどき、いまだに、マルチエンドで他のシナリオを!とか、続編を!とか、言ってる人たちを見かけるから。

でもさ、あの結末を見たら、この作品が、単に、雰囲気としてミスリードを使っていることははっきりしたわけで。

しかも、連載の時に最後の場面を見たところで、「あれ、夢オチ?」と思わせておいて、それなりの読者から(もちろんこのブログもそうだけど)考察や非難が起こったにもかかわらず、さらに「夢オチ」の上乗せみたいなことを、14巻で「おまけ」として加えているのだから。

これ、作者も担当編集者も、もう確信犯で「思わせぶり」なことをやってるってのは、バレバレじゃない。

つまり、この作品において、伏線と思しき「思わせぶり」な場面の取り込みは、単に、その時の読者の気分を高揚させる一種の麻薬みたいなものでしななくて、あくまでも「その場限り」の興奮剤でしかなかった、ということ。

一種の炎上商法。

だから、もはや伏線の未解消や、以前の描写との矛盾点の指摘を、それこそ「アラ探し」のように行うのって、さすがに、もうなんの意味もないと思う。

そう感じるのは、たとえばアマゾンのレビュー欄とかみると、ちゃんとこれで「完結」と受け止めて良作と見ている人もいれば、駄作と断じている人たちもいることがわかるから。

もちろん、評価としては、圧倒的に、星1や星2の人たちの意見に近いけれど、でも、その一方で、あの結末で納得する人たちも大勢いるということで。

だから、単純に、駄作とか失敗作とか思ったら、そのことをきちんと表明すればいい。

で、それでも気に入らない、俺の推しが嫁にならないのはおかしい!とか言うのなら、その考える展開で、盛大に二次創作をすればいいじゃない?

少なくとも、あの結末で満足できる人たちが相当数いる以上、商業的には大成功、というのが、作者も編集者も実感していることだろうし。

もちろん、四葉が選ばれたことが全くのイミフなのは大賛成だし、

誰が選ばれたか、ということよりも伏線回収の雑さには心底呆れるけれど。

でも、それが作者の能力の限界だったと思ったほうが、読者としては健全だと思うけどな。

今までも何回か書いたけど、特に誰推しということもなく、ミステリーっぽい展開に面白さを感じたものからすれば、終わってみれば、その「ミステリーぽさ」はまさに「ぽさ」のところだけが作者&編集者の狙いであって、実際には、全然ミステリーでもなんでもなかった、ということ。

それが14巻の「おまけ」場面の追加で確定した、ということかな。

だから、『五等分の花嫁』はアマゾンレビューの星1や星2の人たちと同様に、駄作で失敗作だと思っているけど、それは、物語の構造上の問題ということで。

つまり、春場ねぎに、ストーリーテラーとしての作家性を求めても無理だということがはっきりしたってことで。

それを、自分の「推し」のエンドにしたいからといって――この傾向、意外と二乃推しや五月押しの人に多いみたいで、多分、一花は一度悪堕ちしたことで、三玖は自分の成長を認めて自己完結したことで、それぞれ推しの人も不満を言うことが一花や三玖の決意を損ねることになると思ってるからなのだろうけど――、物語の矛盾点をついて、だから書き直される、いや、書き直せ、というのは、単に、今ある結末を「否認」した上での懇願でしかないと思っている。

なので、さっぱり駄作認定して、次の良作を楽しむほうがいいだろうに。

連載しているときには一喜一憂しながら楽しむ。

で、完結したら、その受け止めには時間がかかることもあるけど、そこで終わったものとして判断する。

それくらいの距離感が大事だと思うけどな。

あと、大抵の場合、続編、っていいことはない。

すでに、物語への印象やキャラ造形の先入観があるから、物語もキャラも自由に動かせなくなるから、よっぽど物語の背景がしっかりしていない限り、たいてい、どうでもいいものになる。

マガジンで言えば、『ネギま!』に対する『UQ Holder!』がまさにそれ。

画竜点睛を欠いた作品を、蛇足で補うことなんてできない。

という意味で、『五等分の花嫁』についても、たしかにカラー版では、シュタゲのように途中から『シュタゲ・ゼロ』に分岐したように、違う時間線に分岐していく可能性はあるけれど、でも、まさに『シュタゲ・ゼロ』がそうだったように、それが良作に繋がる可能性は極めて薄い。

同様に、アニメ第2期が全く異なる展開になる可能性もあるだろうし、それは実際、『ネギま!』がアニメ版で異なるエンドを示していたはずだけど、それって、原作が連載中だったからこそできたオルタ・エンドだったと思うのだよね。

それを一度完結しているもので行うのは難しい。

なぜなら、作者監修の下で行えば、原作エンドとどっちが正史か?みたいな無駄な争いを呼び起こすだけだし、作者とは関係ないアニメの監督や脚本家が行えば、まちがいない黒歴史認定されるだけのこと。

ということで、『五等分の花嫁』については、粛々と14巻で完結したことを受け止めるだけのこと。

で、ここの判断は、あれはさすがにないわー、というものだった。

そのあたりの判断がどういったものだったかは、このブログの過去エントリを見てください。

しかし、114話の直前あたりまでの文化祭編は、連載中は面白いと思っていたけど、14巻の完結を見た後だと、あそこからもう作者&編集者は整合性のある物語の終結を諦めてしまっていて、だからこそ日の出祭の時に、前もって五つ子姉妹の個別ルートをやってとりあえず5人分、見開きでいい表情の顔を、個別ファンごとに届けていたのだと思う。

その意味で、徹底的に絵師の仕事でしかなかったってこと。

むしろ、(少なくとも連載初期においては)絵の巧さが、ストーリーテリングの上手さをも読者に期待させて、しかし、その期待に応えることができなかった、というのが真相だと思う。

天は二物を与えず。

つまりはそういうこと。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五等分の花嫁 14巻完結 感想: 風太郎、何回目覚めれば気が済むの?

2020-04-17 20:24:51 | 五等分の花嫁
ようやく刊行された14巻。

連載時の展開が大きく変わることもなく(←いや、普通のことだけどw)

最後におまけで新婚旅行の飛行機の中で目覚める風太郎。

いや、夢オチのフリを何度すれば気が済むんだよ、全く。

うん、なんか、もう、ホント、どうでもいいかなぁ。

この描き足したところでも、「あなたの新婚旅行」と(作者の便利人形である)五月に言わせるにとどめ、「あなたと四葉の新婚旅行」とは言わせないもてあそびぶり。

ただただ、読者の脳内変換で勝手に妄想させて、あれ、もしかして花嫁は別?とか思わせるのだものね。

なんだろう、それはそれで、もう作者の信じる手法なんだろうけど。

それはもう飽きた。

風太郎は、ホント、とにかくよく寝る「信用のならない語り部/主人公」でしかなかった。

要はディズニーランドのライドみたいなもの。

あ、そこでお化けが出た!、あれ、あのモンスターは何? きゃー、落ちるー!

…なんて感じの絶叫コース。

脳内を興奮させる言葉/セリフをそこら中に撒き散らして、真面目に登場人物たちの心情を読み取ろうとする読者を煙に巻く…、というか、弄ぶタイプの作者。

だって、新婚旅行という「二人だけの」イベントに、なんのてらいもなく五つ子姉妹が同乗してしまうような、非現実的なシーンを描けてしまうくらいだから。

妄想の垂れ流しであって、そこに物語はない。

一貫したストーリーテリングはない。

というか、きっと、そんな物があることを春場ねぎは知らない。

ホント、マンガしか読んだことがないんだろうなぁ、作者は。

このままじゃ、絵師としてしか生き残れないんじゃない、と思ったけど、最後の方、絵も劣化していた(デブになっていた)ので、ちょっと無理かもね。

今のままでは引き出しが少なすぎる。

というか、引き出しがなさすぎる。

もっとも、ディズニーランドのライドだから、その場しのぎの驚きだけでいいのかもしれないけれど。

いやはや、ホント、騙された。

時間、返せよ。

夢オチの何十掛けなんて、作家として不誠実、極まりないよ。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五等分の花嫁 総評7:四葉って、結局、実父・無堂の血の一番濃い「誠実を装う邪悪なキャラ」でしかなかった

2020-03-31 12:21:45 | 五等分の花嫁
『五等分の花嫁』について、ちょっと時間をおいてから、改めて、最初から少しずつ読み直してみた。

で、あの四葉エンドで公式に確定だ、と知ってから読み直すと、これは想像していた以上にひどい。

結局、連載中は「伏線」と多くの読者が思っていたものは、全て、その場限りのミスディレクションでしかなった。

ただ、逆に、一つだけはっきりしたことがあったのも確かで。

それは、なぜ、学園祭という終盤に「無堂」というクソ実父が登場したのか、ということ。

いや、この物語が最後は結婚式で終わることはわかっていたので、五つ子と妻をおいて失踪した実父の話はどこかで必要だ、というのはわかっていたし、実際、連載中に彼が登場したときにもそのような感想を書いたわけだけど。

でも、それは、あまりにも真面目な読み方だった。

今回、通しで読み直してわかったのは、これ、四葉が最も無堂の「邪悪さ」を引き継いだことを示すためだったんだな、って気づいた。

要するに、極めて自分本位に世界を眺めて、自分はみんなのことを考えて行動しているんだ、と主張しながら、自分の基準に合わないことは相手が悪い、と言い切ってしまうネジ曲がった性格のこと。

本人は全く悪気はないのだから、たちが悪い。

というか、人の気持ちを本質的に理解できないのだから。

だから、平気で、他者から見たら「嘘」としか思えないことを臆面もなく言えてしまう。

それなら、四葉が常々「自分のことは棚に上げて」三玖に対して四葉のフリをして入れ替わるという冗談に対して「倫理的にだめ」とか言ってもおかしくはない。

だって、四葉って一事が万事、そんな感じだから。

五月に、零奈のふりをさせて過去の自分との決別を風太郎に対して付けさせておきながら、そのことで、五月がどんな気持ちになったかなんて微塵も思わない。

そもそも、京都の子のことも、零奈のことも、ホントに封印したまた風太郎と結婚するとか、どれだけ、風太郎に対して不誠実を働いているか、ということにも思いが及ばない。

それでいて、風太郎から114話で告白された時に、風太郎にはもう嘘はつけません、とか応えることができるのだから、もう、自己中、ここに極まれり、という感じで。

面倒だから、もうこれくらいにするけど、こと「自分のことは棚に上げて」小狡い行為を四葉がしていく場面は、これ以外にも多々ある。

もちろん、黒薔薇時代に、講堂で表彰されている時、壇上から五つ子の残りの4人を見下しているところはいうまでもない。

あの場面でゾクゾクしてしまうような四葉の出どころが他でもない無堂であったわけで。

四葉エンドからみて初めて気づいたのが、この四葉の邪悪さの由来を描くために無堂を登場させた、ということだった。

てっきり、五月の自立のために登場したのだとばかり思っていたけど、それは、あまりにも「優しい」解釈であることがわかった。

端的に、四葉って無堂だったんだ、と、明らかにさせるための登場だったと。

まぁ、五つ子の全員に無堂の邪悪さは遺伝しているわけだけど。

でも、その無堂の邪悪さが生み出した遺伝上の最高傑作が四葉だったということだったんだな、と。

だとすれば、あの115話以降の話についても、すべて夢オチというよりは、無堂と零奈ママが付き合い始めた頃のシミュレーションを描いていたわけで。

つまり、まさに零奈ママが、いい先生だからという理由で無堂に勝手についていってしまったように、風太郎もまんまと最初から手を差し伸べてくれた、という理由だけで四葉を選んでしまった。

その後の、零奈ママの不幸な顛末を考えれば、風太郎の向かう未来も想像できるというもの。

きっとあるタイミングで、風太郎との間の子どもを残して(多分5人w)、四葉は、風太郎の元から逃げ出すんだよ。

失踪/疾走するんだよ、無堂のように。

で、その残された四葉と風太郎の子どもを、残りの五つ子の誰かと、風太郎は育てていくんだよ、きっと。

いやー、ブラックな未来だな。

でも、あのタイミングで無堂が登場したのはどうしてか?というのは四葉エンドから考えたら、もう四葉の「破綻した性悪な」性格を正当化するためだった、としか思えないんだよね。

だって、五月のエピソードはホント、どうでもいいものだったわけで。

その意味では、114話の告白の前が五月回で、そこで無堂がピンポイントで登場したのは構成としてうまいといえばうまい。

読者にイキリ親父を見せることで、イキリ女子の筆頭たる四葉を隠すためだったんだな、と。

もちろん、その場合は、またもや、五月はただのミスディレクションのために体よく利用されただけなのだけど。


・・・とまぁ、こんなふうに書いているのは、もちろん、皮肉なんだけど。

でもまぁ、四葉エンドを知ってから読み直してみて思ったのは、ホント、連載中は伏線と思っていたものがほぼすべて、単なるその場しのぎのミスディレクションだったってことに気がついた。

その意味では、四葉のみならず、春場ねぎも、相当、天然で邪悪。

そのことについては、また別の機会にしたいけど。

というのも、こういうネガティブなことを書いていると、書いている側がいつの間にか、消耗してしまうので。

でもね、伏線と思っていたものも、それが後日、回収されなかったから、ただ、その場しのぎのミスディレクションでしかないんだよ。

ご都合主義のかたまり。

いや、最初は、どうしてかなぁ、と思っていたのだけど、細かいところを気にし始めたら、まぁ出てくるわ、出てくるわ。

ご都合主義の、伏線を装ったミスディレクションのオンパレード。

多分、最大の矛盾は、第1話の学食シーンで、あのときには、なんと、風太郎って、五つ子のことをちゃんと見分けているんだよね。

だって、最初にあった五月が座っているテーブルの他の姉妹を、友達か?とかいっているんだもの。

あの段階では、ちゃんと見分けがついていた。

でもさぁ、さすがに、一卵性の五つ子なら、見かけはクローンのようなものなのだから、あれ、そっくりだ、と思って当然じゃない。

でも、最初はちゃんと見分けているんだよね。

愛なんて、まだかけらもないのにw

・・・とまぁ、こういう具合に、連載中は、そういうものか、と読み流していたものも多かったのだけれど、あらためて読み直すと、そこら中、穴だらけで。

その意味では、うまく騙されてたなぁ、と思うし、なんか、2度めで読んだら、単純に、そういった場面は、まさに読者に対する感情操作のために、ミスディレクションとして使われていたんだなぁ、ということがわかってしまって、ものすごく萎えてしまった。

確かに、これは、もう、あの四葉エンドは夢オチだったからリブートします、とか言われても、シラけるだけだなぁ、という感じがしてきた。

まぁ、そのことはまた別の機会に。

でも、実際問題、読み直して痛感したのは、四葉の邪悪さね。

あれはもう小悪魔というレベルでは片付けられない、不誠実なキャラクターの王様のような存在。

つまり、真性の悪魔、ビッチ。

まぁ、そんな邪悪な存在に、零奈同様、甘い言葉にほだされて、ホイホイついていってしまったのだから、風太郎も大概なんだけどね。

さすがはタヌキを相手に「好きだ!」と練習できるガリ勉くんだけのことはある。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五等分の花嫁 完結総評6: 伏線未回収も困ったものだがそれ以上に終盤にあって当然の重大イベントが尽く省かれているのはおかしいでしょ

2020-03-18 20:09:21 | 五等分の花嫁
五月のキャラクターブックで明らかになったとおり、作者はあの四葉エンドがベストだと思っているようなので、これは夢オチだから『ぼく勉』みたいに、ある時点から新ルートが開始される、というのは基本的には考えても意味がなくなった。

・・・という前提で『五等分の花嫁』を完結したラブコメ漫画として見たとき、やっぱり、これはお世辞にも成功した作品とは言えない。

いや、伏線回収ができていないから、とか言う話を抜きにしても、単純にラブコメとして、ぜんぜんダメだと思うんだよね。

なぜなら、告白後の肝心な描写をすっ飛ばしていているのだから。

なにがおかしいってさ、秋の学祭に行った「告白」後の展開として、その二人で過ごすクリスマスの描写もなければ、ヴァレンタインデーの描写もない。

これはさすがにおかしい。

何をそんなに急いで、3年生の冬の一番ラブコメとして盛り上がるはずの描写を抜かしているのだろう。

受験があるといっても、どうせ風太郎はA判定なんだから、クリスマスもヴァレンタインデーもイチャラブしたって全然平気なはずなのに。

四葉に至ってはスポーツ推薦で入試はいらないわけでしょ? 

(いや、そんな部活に所属していない助っ人に推薦の声がかかるわけないじゃない?という常識的な反応はとりあえずおいておくとして。)

だったら、ヴァレンタインデー上等!って感じで過ごせばいいじゃない。

基本、スラップスティックコメディの『ぼく勉』にだってヴァレンタインデーのチョコの話は(全員、受験生であるにもかかわらず)あったじゃない。

なんでやらないかなぁ。

クリスマスとかヴァレンタインでちゃんと四葉と風太郎を二人で描けば、とりあえず、四葉をビッチ呼ばわりする空気も払拭できたんじゃない?

加えて、その冬の高校生活描写があれば、振られた四葉以外の五つ子との和解なりの場面も描けたと思うのだけど。

五つ子と一緒という意味では、大晦日とお正月の描写があってもよかったわけでしょ?

だいたい、普通、受験生だったら、正月には合格祈願に行くでしょ?

少なくとも、風太郎と五月は。

あるいは、大晦日だったら、もうマルオと勇也も同級生だったことはバレているんだから、マルオのマンションで、中野家と上杉家で忘年会なり年越しそばを食べるなりすればいいじゃない。

多分、そういう「普通の」描写があれば、四葉と風太郎に対しても、生暖かい目で祝福される、という雰囲気になったと思うのだけどね。

それをどうして、あんなに急いで駆け足で終わらせたのだろう?

だって、学園祭は秋だよ。

そこから卒業までまだ、半年近くあったはずで。

それを115話以降で描けばよかったのに。

まぁ、だから逆に、あの終わり方は夢オチでしかなくて、再起動がある、と思ってしまったわけで。

せめて、卒業式はちゃんと描くべきだった。

結局、一花の卒業の有耶無耶にされたままだし。

あれだけ、家庭教師の設定から、五つ子の進むべき進路は何か?というのが、物語の鍵になっていたはずなのに、それもあっさり捨て去ってしまって。


ともあれ、あのエンドは夢オチではない、リブートはないというのなら、単純に、ラブコメの終盤の展開としては、あまりに雑で、お世辞にも褒められたものではない。

物語の構成としては単純に破綻している。

キャラのコントロールのしやすさとか脇においても、物語の流れはきちんとコントロールしてほしかった。

結果としてはラブコメとしては恐ろしく中途半端な凡作になってしまった。

なんていうか、最低限のジャンルの約束は、やはり果たすべきだと思う。

これなら『ぼく勉』のほうが、よっぽど誠実だと思う

しかし、まさか、そんなふうに思う日が来るとは思っていなかった。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五等分の花嫁 完結総評5: コントロールしやすかったヒロイン、それが五月!

2020-03-17 14:45:34 | 五等分の花嫁
五月のキャラクターブックの中で、作者が「五月はコントロールしやすい」と発言していたのだけど、

なるほどなぁ、と思う一方、

ひどい話だなぁ、とも思う。

というか、そもそもキャラクターについて、そういうコメント、普通、公開するかな? とも思って、やっぱり、この作者、なんだかなかぁ、と思ってしまった。

どんどん株が下がっていくばかりなのだけど。

いや、ただ作者の株が下がるだけならいいけど、そうすると、この先、あまり実りある「再起動」なんて期待できそうもないので、ひたすら冷めていく感じ。

しかし、そうなると、マジな話、あれこれ、この先の展開はどうなるのだろう、と考えながら読んできた人たちは、完全に肩透かしを食らったってことになる。

夢オチかどうか、とか検討するなんて、事実上、無意味だよ、と、作者自身から言われたようなもの。

なにしろ、五月は、ただコントロールしやすいヒロインだったんです、と言えてしまうくらい、もう作者自身が突き放した物語になってしまっているのだから。

要するに、五月って、物語を進めるための、いわばパベットとしてあっただけで、それがたまたま五つ子と同じ顔をしていただけ、ということでしょ?

それが、五つ子の一人ではなく、友だちキャラの一人くらいだったら、そういう一つ格下のキャラを配置して、その人に狂言回しをしてもらってもいいとは思うけど、

仮にも『五等分の~』というタイトルを付けながら、そのうちの一人は、実は、最初から本戦には関係ない便利要員でした、みたいなことをいわれてもなぁ。

だって、恋愛ゲーム、というか花嫁レースのカマセですらない、ということで。

だったら、少なくとも最後の最後で、五月が風太郎に対する恋心に気づいた、なんて描写、わざわざ入れるなよ、と思ってしまう。

残酷だよ、キャラに対して。

いや、正確に言えば、五月推しだった読者に対して、その発言はあまりも残酷だから、さすがに公式には発言を控えろよ、ということかな。

別に、五月推しということではなかったけれど、物語の流れからすれば、五月が花嫁になるのは結構自然な流れだと思っていただけに、その感情すらマニピュレートされていた、というのは素朴にショックだった。

だって、零奈に扮したところとかも、マジで、作者が都合よく使っただけ、ということでしょ。

ということは、四葉に感じる天然の邪悪さは、実は作者の邪悪さが無意識のうちに投影されていた、ということになるし。

うーん、これは応えるな。

なぜなら、そもそもあのイキった四葉とか、風太郎にあれこれ隠したままの四葉とかについても、本心から何の問題もないと思っているにちがいないから。

いやー、やられた。

さすがに、ストーリーテリングの部分で、そんなバイアスがかかっているとは思わなかった。

完結後、ずっと思っていたのは、四葉を花嫁にするなら、せめて、誰もがぐうの音も出ないほどに納得できるくらい、四葉が、五月はもとより、一花や二乃や三玖よりも「いい子」なのだと思えるエピソードを描いておいてくれよ、と言いたかったことなのだけど、そもそも、そんな「不足」を作者が感じていないのだから、もはや取り付く島もない。

書くにしてもまたの機会にしたいけど、四葉って、完結したところまでの内容でいけば、普通に「ビッチ」と呼ばれても仕方ない、嫌なキャラになってしまったと思うのだけど。

まぁ、それはいいか。

ともあれ、五月はコントロールしやすかったのか。

いやはやホントに不憫なキャラクターだ。

しかし、こうなると、読者の側からすると、「五つ子」という、いわば5人のクローンのヒロインたち、という設定にだいぶ騙されていた、というのが真相だね。

読者の側で、「幸せも五等分」といっていたことから、五月にも勝手に下駄を履かせて、あれこれ期待値を高めてしまった、ということだな。

これが最初から5人バラバラの、特に血縁もないキャラだったら、もう少し自由に見れていたのかもしれない。

であれば、こんなに終了後、嫌な感じもしなかったのかも。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五等分の花嫁 完結総評4: むしろマルチエンド展開でのリブートはエゴを押し通して四葉エンドにした作者に対する編集部からの救済策だと思うのだけど?

2020-03-13 17:02:24 | 五等分の花嫁
例の『ぼく勉』のパラレルストーリー展開の公表以来、『五等分の花嫁』についても同種のマルチエンドの展開についてあれこれコメントされるようになってきているけど、その中で、ちょっと気になったのは、

マルチエンド展開は、エンタメ重視で、ストーリーテリングを放棄している(から望ましくない)

というような意見をいくつか目にすることがあったのだけど、

さすがに、それって偏見じゃないかなぁ。

別に、マルチエンドだからといって、ストーリーテリングを放棄しているわけではない。

むしろ、複数の結末を重ね合わせることで描くことができる物語もある、でしょ?

もっとも、そういう語り方は、小説なマンガよりも、「ステージ」の概念が自然と出てくるゲームの形式のほうがあっているのかもしれないけれど。

でも、それを小説で導入して成功しているケースはたくさんある。

語り手が語りを呼び込んでいくタイプの枠物語なんて、それこそ『千夜一夜物語』の頃からあるわけだから。

なので、さすがに、マルチエンドだから(ゲームっぽくて)エンタメ!、というのは、言い過ぎだと思う。

『ぼく勉』の場合であれば、素直にうるかエンドで納得だから余計なことするな!、っていえばいいだけだと思うけどね。

同じことは『五等分の花嫁』がマルチエンドを導入した場合でもいえるだろうから。


もっとも『五等分の花嫁』の場合は、四葉エンドがあまりにも雑な展開だったからやり直せ、といっているのとほぼ同じだから、ちょっと動機は違うのだけどね。

ゲームの比喩に近づけるなら、『五等分の花嫁』というゲームのプレイヤーとして春場ねぎは失格としか思えないエンドを選んでしまったから、プレイヤーを変えてもう一度やり直せ!というのに近い。

ゲーム実況を見てたら期待はずれだったから、違う人がプレイするゲームを見たい、というのに近いよね。

だから、正確には、四葉エンドに納得できない人たちが、勝手に二次創作をすればいいだけなんだけど。

ただ、今日日、この二次創作のうち、旨味のある部分は、作者というか、作者を抱えた製作チームが、しっかり手を出す領域なのだけど。

たとえば、『禁書目録』に対する『超電磁砲』なんか、まさにそれで。

いや、スピンオフはちょっと違うじゃない、というのはわかるけどね。


まぁ、だから、作者が手を出せる二次創作として、『五等分の花嫁』の場合は、四葉エンドは夢オチだった・・・解釈からの真エンドへの展開への期待なわけだけど。

夢オチの可能性については何回か書いてきたし、じゃあ、リブートの地点、すなわち夢が始まったあたりはどのあたり?ということについても書いてきているので、ここでは省略するけど。

ただ、単純に、四葉エンドって、それまであった「花嫁は誰だ?」的なミステリーとしての楽しみを完全に放棄しているからダメだ、と思うわけで。

もっとも、どうやら作者は、ガチで四葉、というよりもアニメでCVをやった「あやねる」に対して、自分のほとばしる想いを風太郎に託して伝えたかっただけのキモオタ絵師だったようだから、作者本人はあれでもう十分満足しているのだろうけどね。

そういう意味では、マガジン編集部は四葉以外のエンドを考えていたけど、最後は、作者のエゴに押されてしぶしぶ四葉エンドを認めた、というのが真相なのではないか、と思い始めている。

つまり、編集部としては、ただ「思い出の子」を探し当てるだけの話じゃラブコメとして全然面白くないから、せっかく五つ子というミステリーにありがちな「双子設定」の強化版の設定を導入するなら、それを可能な限り利用して、花嫁当てゲームにしてみよう、と考えて、連載を始めさせたのだと思う。

で、その編集部の狙いは見事に成功したのだけど、でも、多分、その成功に一番不満だったのが、作者である春場ねぎだった、ということなんじゃないか。

おそらく、いよいよ四葉の過去に触れた(修学旅行後の)エピソードのあたりから、そうした作者のエゴが前面に出始めて、基本的には113話あたりから以後は、もう編集部もさじを投げて作者の好きにさせたんじゃないかな。

つまり、まずは作者本人が見たいエンドを描かせないと、作者のモチベーションが持たないレベルにまで、作者と編集部の亀裂は達していたということ。

で、その結果、編集部側との協議の上で仕込んできた伏線の多くは、なかったこととして放棄された。

でなければ、あんな取って付けたような鐘キスバレを最終話でやるはずがない。

基本的に、日の出祭以後の性格破綻した四葉は、それまで我慢してきた作者の反動だった、と思えば納得できるし。


ただ、こう考えてくると、すでに作者は満足してしまっているのだろうから、いまさら、四葉以外のエンドを、その「四葉=あやねるラブ」が重い作者本人に書かせるのは難しいよね、きっと。

ということで、次の一手があるとしても、しばらく冷却期間をおいてからになるのだろうな。

さすがに、あの終わり方で太鼓判を押すマンガ編集者はそうそういないと思うけど。

だから、あったとすれば、マルチエンドによるリブートは、どちらかというと編集部による作品の救済が狙いだと思う。

そういう意味では、中途半端に人気が出てしまった結果、編集部が作者のたずなをきちんと握れなくなったのが原因だろうな。

人気が出た結果、作者と編集部の力関係が入れ替わってしまい、作者のエゴを押させることができなくなった、・・・というのが真相じゃないかなぁ。

逆に、こう考えてくると、限りなく『五等分の花嫁』の再起動は困難なのではないかと思えてくるのだけどね。

ワンチャンあるとすれば、むしろアニメ2期のほうかね。

あちらはストーリーの原案を編集部が脚本家と一緒に詰めて、作者の納得さえ取れればいいいはずだから。

うーん、でもそれも難しいかなぁ。

まぁ、だんだんどうでもよくなってきているのだけどね、さすがに終わってから1ヶ月も経つとw

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五等分の花嫁 完結総評3: 『五等分の花嫁』も『ぼく勉』にならって物語を再起動させるべき!

2020-03-10 14:44:32 | 五等分の花嫁
『ぼく勉』の最新話でマルチエンド展開がなされることが公表されて、そちらの感想でも『五等分の花嫁』もマルチにすべき、と書いたので、エントリーを変えてもう少しふれておこうかな、と。

で、『五等分の花嫁』については、すでに何度か触れてきたけど、マルチエンド、というか、とにかく「やり直し」をすべき、と思っている一人。

理由は、現状の結末では、物語として破綻しているから。

先に断っておくと、特に五つ子の誰かを推しているわけでなく、あくまでも、物語のそこら中にばらまかれた伏線を、もう少しちゃんと回収してほしいから。

でないと、単に作者が都合よく読者の気をそらすために、「紛らわしい伏線もどき」を、まさに撒き餌としてばら撒いたようにしか見えなくて、端的に言って、不快。

なので、これも先に断っておくと、特に五つ子に推しはなく、純粋に新種のラブコメとして楽しんでいた(と思っていた)方なので、あの終幕を見てからは、むしろ、ストレートに不満は作者に向かっている。

つまり、特定の推しのいる人たちが、春場ねぎは擁護して、たとえば出版社の大人の事情に憤慨する、という感じではなく、単純に、あんな物語で筆を置きやがって!、という点で、春場ねぎに直接、不満を抱いている。

ついでにいえば、その結果、(特定の「推し」はないとはいったけれど)物語が終わって、四葉のことが嫌いになったし、合わせて、あの結末を作中で選択した張本人である風太郎についても呆れている。

もちろん、この先、「実は・・・」という具合に「新章」がしれっと立ち上がる可能性はあるかもしれないのはわかっていて、それを期待している一人ではあるけれど、でも、いまだ、特に新しいプロジェクトが公表されているわけでもないので、『五等分の花嫁』はあの形で完結した、と今では思っている。


そのうえで、まぁ、『ぼく勉』もああして世間の空気を読んでw、マルチストーリーを選択したんだから、『五等分』もそうしてみたら、というオススメね。

ちなみに、日の出祭前までの物語の展開からしたら、推しはいないとはいうものの、花嫁にふさわしいと思っている順でいうと、

五月>一花>>>>>二乃=三玖

という立場(もちろん、もはや四葉は論外)。

これは、伏線として重要視されてきた、

京都の子、
鐘キス、
零奈

との整合性をつけるのが第一だと思っているから。

なので、自ら零奈を演じていた五月が筆頭で、次点が、実際に6年前の京都で風太郎と会っていた一花。

逆に、6年前の京都の話から外れている二乃と三玖が劣後する。

実は、二乃の場合、6年前に風太郎を見かけているのと、結婚式場におけるミサンガの問題があるので、三玖よりは上だと思いたいところもあるのだけど、その一方で、高校の修学旅行編を経て、二乃と三玖の関係は、ほとんど双子のようなものとして確立されてしまったので(実際、二人は一緒にお店を始めてしまうし)、どちらが勝てばどちらかが泣くことになるため、結果的に、選択されにくい立場として同等になってしまったかなぁ、と思っている。

で、なんで、京都の子の話や、零奈の件が大事か、というのは、今まですでに何度か書いてきているので、そちらを見てもらうとして。

(たとえば、 五等分の花嫁 第118話 感想4: 119話以降の展開ではやはり「零奈問題」は爆弾だ )


『ぼく勉』との違いという点では、『五等分の花嫁』の場合は、完全なパラレル、というよりも、異なるルートを重ねるたびに、それぞれのルートのヒロインの新しいバックストーリーが開示されて、そうした事情を含めて、物語の「真エンド」に向かう、という展開が合っているんじゃないかな、と。

というか、そのプロトタイプは、すでに一度、日の出祭の時に、五つ子ごとのパラレル展開としてやっているだよね。

あれを本格的にやればいいんじゃないかな、ということ。

なので、マルチストーリーを走らせる起点としては、あの99話とか100話とかの、日の出祭初日のところからなんだろうな、と思っている。

たとえば、いきなり横道にそれてしまうかもしれないけれど、あの日の出祭期間中に三玖が語った「この恋が実らないことをすでに知っている」という(感じの)セリフについては、結局、その後、何も触れられなかったし、そもそも、それが何のことを指すのか、というヒントも、それまでの物語描写にはなくて、ひたすら、唐突な一言だった。

で、それは、明らかにその発言(独白)をするための情報のピースが欠けていた、ということと解釈すべきで、そのような話を改めてはさみながら、それぞれの物語を完結させていく、というのが、やはり美しいのかな、と。

だって、三玖はもうこれは絶対ムリ!って思っていたところで、風太郎に選ばれたりしたなら、それは三玖にしても、三玖推しの人にとっても、この上なくハッピー!、ってことでしょ。

なので、あの日の出祭のパラレル展開は、後日、物語を分岐させて再起動させるための仕込みだったのではないかと(かなり作者に対して好意的ではあるけれど)思っていたりする。

そういう、新たなバックストーリーの補填とともに新しいエンドが用意されて、それで、読者からすると、そうした新たに追加されたバックストーリーも含めて、真エンド?に納得する、という展開でいいんじゃないのかな、と。

その意味では、確かに『ぼく勉』のうるかルートはよくできていて、なぜなら、あの最後に明かされていた成幸とうるかのエピソードって、成幸が文乃や理珠たちと出会う前の出来事なので、理珠ルートや、文乃ルートにおいても、あのエピソードの存在はそのまま生きてくる、というか、全く矛盾はしない新情報に過ぎないわけで。

となると、そうした新しい情報を読者は足し算した上で、次のルートを読むことが可能なわけで。

あれと同じような「加算式」のマルチルートをしていけば、面白いんじゃないかな、と。

で、『五等分』だったら、日の出祭からリブートをかければちょうどいいかな、と。


・・・と、そんなふうに思っている。

まぁ、どうなるかはわからないけど。

でも、あの終わり方はないわー、と思っているので、なにかしらやり直しを図るべきだと真面目に思っているんだけどね。

  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする