「神様になった日」は、久しぶりのだーまえ作品として、開始前にもそれなりに注目していた。
で、実際に始まってから見始めると、やっぱりなんだか懐かしいな、という気がして、なんとなく見続けてしまった。
どんな作品でも、とりあえず序盤はキャラや舞台の説明から入るので、あぁ、またそういう感じね、と素直にみることができた。それこそ、だーまえ流の、さむい平成ギャグも含めてw
加えて、前半のポイントは、とにかく「世界の滅亡までXX日」というカウントダウンが物語の最後に示されていたこと。
そりゃあ、そういわれれば、なんか凄いことが起こるに違いない!と期待は高まる。
というか期待を煽ってきていた。
なので、途中、麻雀とかラーメンとか映画とかで夏休みを遊んで暮らす様子が描かれても、きっとある時、この幸せな時間を愛おしく思う時が来るためにあえて描いているに違いない、と思ってみていた。
実際、そうなったわけだけど。
で、そうこうしているうちに、鈴木央人というなんかすごそうなハッカーが突然あらわれてきて、彼が興梠博士というなんか凄い天才博士のことを探る場面が出てきた。
量子物理学者で凄腕プログラマー、なんだ、SAOの茅場と一緒じゃん、またぞろ量子コンピュータか???って思ってたら、ホントに量子コンピュータネタがやってきた。
いや、この時点では、なんか凄いことが起こるのか?って真面目に思ったんだよな。
これまでのだーまえ作品って、とにかく奇跡をオカルト的な超常の力をつかって力技で起こす展開がほとんどだったから、今度は科学か、量子コンピュータか、まぁ、量子論ってお話としては、ほとんどオカルトみたいなものだから、まぁ、それもありか・・・、なんて思ってたんだよ。
でもさ、終わってみれば、量子コンピュータって、ほとんど物語の結末には関係がなかった。
鈴木央人も、彼を抱える会社の女性CEOも、全然関係なかった。
というか、ひなもそうだけど、わざわざ「オーディン」をもじっていたのは、なんだったのさ?
で、何がいいたいかというと、いや、さすがに、あれこれいろいろと途中でネタをまぶしてきていたのに、そして、それらが何らかの伏線のようにみせていたのに、そんなこと、全然関係なく、最後は、ただのフル介護エンドって、何?ってこと。
奇跡、起こらないのかよ?ってこと。
いや、ほとんど知的能力を無くしたはずのひなが、それでも陽太と過ごした日々のことを思い出したこと自体が奇跡だろ?というのもわからなくはないけれど、いや、それ、奇跡として、ちっちゃすぎるだろ?ってのが正直な感想。
なので、結局、期待を高めるように煽るだけ煽っておきながら、見事なまでに、その梯子を外してくれやがった!!!って印象しか残らないんだよね。
加えて、陽太、ならびに彼の家族や仲間たちの様子も、とても人間に見えなくて。
むしろ、こいつら全員、実はロゴス症候群じゃないの?って思ってしまったくらい。
それくらい、人として当然の、変わってしまったひなを見たときの衝撃もない。
いや、だって、一応、陽太だって、サナトリウムでひなを見かけた時、ショックを受けてたじゃん。
ああいう自然な感情の動きが、あまりにもなさすぎて。
あんまり物語を見て感情移入ができない!なんて、駄々をこねるガキのような感想は述べたくないのだけど、でも、この作品に関しては、一事が万事、それ。
まぁ、それはつまりは、さすがに美少女ゲームの「泣き」というテクニックが陳腐化してしまったということだと思うのだけど。
もしも、陽太の喜びと絶望、そこからの復活というのを描きたかったのだとしたら、もう少しキャラの数を減らして、陽太の内面を描くことに時間を使うべきだったと思う。
麻雀やラーメンのようなギャグに尺を使うのではなくね。
だって、ひなが最後まで元の姿に戻らないのなら、ひなの相方となる陽太の感情の起伏が、この物語がもたらす感情の揺さぶりの全てになるから。
でも、控えめに見ても、それには失敗している。
それくらいなら、いざなみさんをひなのパートナーにしたほうがまだわかりやすかった。
同性の間での慈しみにしたほうが、介護という枠組みにもはまったと思う。
せめて、陽太を一人っ子にしておくべきだった。
空なんて妹はいらなかったんだよ。
あれは友だちの妹、という設定くらいでちょうどよかった。
結局、陽太は八方美人過ぎて、なぜひななのか、が全く伝わらなかった。
もっといえば、彼が高校生である設定も必要なかったよね。
鈴木央人もそうだけど、この作品、学校という舞台をあまりにも蔑ろにしすぎたのも敗因だったと思う。
ひなが高校の校舎に足を踏み入れていたら、また違ったドラマが生まれていたんじゃないかな。
裏返すと、家族愛にしても友だち愛にしても、それを育むための社会という土壌が必要で、それがいままでのだーまえ作品なら、学校を取り巻く社会だったのだけど。
今回はそれもなかった。
せいぜいが、過去のだーまえ作品で印象の強かったシーンを適当にピックアップして繋げただけ。
最後の、雪に囲まれた山上のサナトリウムなんて、もうKanonのパロディにしか見えなかった。
ということで、これはダメだ。本当にダメだ。
圧倒的なまでの失敗作、それが『神様になった日』。
てか、そもそも神様になってないじゃん。
神殺しされただけじゃん。
つまりはタイトル詐欺なんだよ。
それじゃあ、ダメに決まってる。
で、実際に始まってから見始めると、やっぱりなんだか懐かしいな、という気がして、なんとなく見続けてしまった。
どんな作品でも、とりあえず序盤はキャラや舞台の説明から入るので、あぁ、またそういう感じね、と素直にみることができた。それこそ、だーまえ流の、さむい平成ギャグも含めてw
加えて、前半のポイントは、とにかく「世界の滅亡までXX日」というカウントダウンが物語の最後に示されていたこと。
そりゃあ、そういわれれば、なんか凄いことが起こるに違いない!と期待は高まる。
というか期待を煽ってきていた。
なので、途中、麻雀とかラーメンとか映画とかで夏休みを遊んで暮らす様子が描かれても、きっとある時、この幸せな時間を愛おしく思う時が来るためにあえて描いているに違いない、と思ってみていた。
実際、そうなったわけだけど。
で、そうこうしているうちに、鈴木央人というなんかすごそうなハッカーが突然あらわれてきて、彼が興梠博士というなんか凄い天才博士のことを探る場面が出てきた。
量子物理学者で凄腕プログラマー、なんだ、SAOの茅場と一緒じゃん、またぞろ量子コンピュータか???って思ってたら、ホントに量子コンピュータネタがやってきた。
いや、この時点では、なんか凄いことが起こるのか?って真面目に思ったんだよな。
これまでのだーまえ作品って、とにかく奇跡をオカルト的な超常の力をつかって力技で起こす展開がほとんどだったから、今度は科学か、量子コンピュータか、まぁ、量子論ってお話としては、ほとんどオカルトみたいなものだから、まぁ、それもありか・・・、なんて思ってたんだよ。
でもさ、終わってみれば、量子コンピュータって、ほとんど物語の結末には関係がなかった。
鈴木央人も、彼を抱える会社の女性CEOも、全然関係なかった。
というか、ひなもそうだけど、わざわざ「オーディン」をもじっていたのは、なんだったのさ?
で、何がいいたいかというと、いや、さすがに、あれこれいろいろと途中でネタをまぶしてきていたのに、そして、それらが何らかの伏線のようにみせていたのに、そんなこと、全然関係なく、最後は、ただのフル介護エンドって、何?ってこと。
奇跡、起こらないのかよ?ってこと。
いや、ほとんど知的能力を無くしたはずのひなが、それでも陽太と過ごした日々のことを思い出したこと自体が奇跡だろ?というのもわからなくはないけれど、いや、それ、奇跡として、ちっちゃすぎるだろ?ってのが正直な感想。
なので、結局、期待を高めるように煽るだけ煽っておきながら、見事なまでに、その梯子を外してくれやがった!!!って印象しか残らないんだよね。
加えて、陽太、ならびに彼の家族や仲間たちの様子も、とても人間に見えなくて。
むしろ、こいつら全員、実はロゴス症候群じゃないの?って思ってしまったくらい。
それくらい、人として当然の、変わってしまったひなを見たときの衝撃もない。
いや、だって、一応、陽太だって、サナトリウムでひなを見かけた時、ショックを受けてたじゃん。
ああいう自然な感情の動きが、あまりにもなさすぎて。
あんまり物語を見て感情移入ができない!なんて、駄々をこねるガキのような感想は述べたくないのだけど、でも、この作品に関しては、一事が万事、それ。
まぁ、それはつまりは、さすがに美少女ゲームの「泣き」というテクニックが陳腐化してしまったということだと思うのだけど。
もしも、陽太の喜びと絶望、そこからの復活というのを描きたかったのだとしたら、もう少しキャラの数を減らして、陽太の内面を描くことに時間を使うべきだったと思う。
麻雀やラーメンのようなギャグに尺を使うのではなくね。
だって、ひなが最後まで元の姿に戻らないのなら、ひなの相方となる陽太の感情の起伏が、この物語がもたらす感情の揺さぶりの全てになるから。
でも、控えめに見ても、それには失敗している。
それくらいなら、いざなみさんをひなのパートナーにしたほうがまだわかりやすかった。
同性の間での慈しみにしたほうが、介護という枠組みにもはまったと思う。
せめて、陽太を一人っ子にしておくべきだった。
空なんて妹はいらなかったんだよ。
あれは友だちの妹、という設定くらいでちょうどよかった。
結局、陽太は八方美人過ぎて、なぜひななのか、が全く伝わらなかった。
もっといえば、彼が高校生である設定も必要なかったよね。
鈴木央人もそうだけど、この作品、学校という舞台をあまりにも蔑ろにしすぎたのも敗因だったと思う。
ひなが高校の校舎に足を踏み入れていたら、また違ったドラマが生まれていたんじゃないかな。
裏返すと、家族愛にしても友だち愛にしても、それを育むための社会という土壌が必要で、それがいままでのだーまえ作品なら、学校を取り巻く社会だったのだけど。
今回はそれもなかった。
せいぜいが、過去のだーまえ作品で印象の強かったシーンを適当にピックアップして繋げただけ。
最後の、雪に囲まれた山上のサナトリウムなんて、もうKanonのパロディにしか見えなかった。
ということで、これはダメだ。本当にダメだ。
圧倒的なまでの失敗作、それが『神様になった日』。
てか、そもそも神様になってないじゃん。
神殺しされただけじゃん。
つまりはタイトル詐欺なんだよ。
それじゃあ、ダメに決まってる。