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人類の経済活動が地球を破壊する「人新世」=環境危機の時代。気候変動を放置すれば、この社会は野蛮状態に陥るだろう。それを阻止するには資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならないとする「脱成長」の資本論。マルクス経済学の再生を説くのがこの本。
経済学を学びながら、無知の偏狭さでマルクス経済学に一顧だにせずに半世紀以上も経って、やっと、経済学の奥深さに感じ入った思いで、この本を読んだ。
先日、NHKのBSスペシャルの
人新世の地球に生きる 〜経済思想家・斎藤幸平 脱成長への葛藤〜を見て、まず、読まなければ議論はできないと思ったのである。
人新世の地球に生きる 〜経済思想家・斎藤幸平 脱成長への葛藤〜を見て、まず、読まなければ議論はできないと思ったのである。
まず、本書で、著者が最初にマルクスを引用したのは次の点。
大量消費・大量消費型の豊かな帝国的生活様式を享受するグローバル・ノースは、そのために、グローバル・サウスの地域や社会集団から収奪し、さらには我々の豊かな代償を押し付ける行動が常態化している。のだが、
19世紀半ばに、マルクスは、この転嫁による外部性の創出とその問題点を分析して環境危機を予言していた。資本主義は自らの矛盾を別なところへ転嫁し、不可視化するが、その転嫁によって、さらに矛盾が深まってゆく泥沼化の惨状が必然的に起き、資本による転嫁の試みは破綻する。このことが、資本にとって克服不可能な限界になる。
次への展開は、進歩史観の脱却から「脱成長コミュニズム 」へ。
マルクスの進歩史観には、「生産力至上主義」と「ヨーロッパ中心主義」と言う2つの特徴を持つ「資本主義がもたらす近代化が、最終的には人類の解放をもたらす」と言う楽観的な考えであった。
しかし、「資本論」では、無制限な資本の利潤追求を実現するための生産力や技術の発展が、「掠奪する技術における進歩」に過ぎないと批判している。
「価値」追求一辺倒の資本主義では、民主主義も地球環境も守れないので、生産力の上昇の一面的な賛美をやめて、社会主義における持続可能な経済発展の道を求めて「エコ社会主義」ビジョンを立てた。
無限の経済成長ではなく、大地=地球を「コモン」として持続可能に管理する「合理的」な経済システムであり、この共同体は、経済成長をしない循環型の定常型経済である。ここでは、経済成長をしない共同体社会の安定性が、持続可能で、平等な人間と自然の物質代謝をしていた、というマルクスの認識が重要になる。マルクスが最晩年に目指したコミュニズムとは、平等で持続可能な脱成長型経済の「脱成長コミュニズム」なのである。
「コモン」は、人々が生産手段を自律的・水平的に共同管理する「市民」営化であるから、労働者たちが共同出資して、生産手段を共同所有し、共同管理する「ワーカーズ・コープ(労働者協同組合)」である。
資本主義の終わりのない利潤競争と過剰消費が気候変動の元凶だと糾弾して気候非常事態宣言を発して、国家が押し付ける新自由主義的な政策に反旗を翻す革新的な地方自治体「フィアレス・シティ」の先陣を切るバルセロナの、脱成長社会を目指す「経済モデルの変革」は最先端のモデルケース。
非常事態宣言が、社会的生産の現場にいる各分野の専門家、労働者と市民の共同執筆であり、この運動を推進しているのが地域密着型の市民プラットフォーム政党で、この運動とのつながりを捨てない新市長は、草の根の声を市政に持ち込み、市庁舎は市民に開放され、市議会は、市民の声を纏め上げるプラットフォームとして機能するようになった。と言う。
「脱成長コミュニズム」も、「市民」営化だとしても、組織である以上、ドラッカーの説くごとく、マネジメントが必要である。マネジメントが絡むと、利害得失が跋扈して、組織を歪め、本来の理想目的から逸脱する。
問題点はあろうが、「脱成長」への資本主義への変革は必要だと思っているので、理想論に近いとは思うのだが、斎藤説には殆ど異存はない。
しかし、マルクス経済学には、まだ、疑問を感じてはいる。
著者は博学多識、詳細にわたって「脱成長コミュニズム」論を展開しており、極めて貴重な啓蒙書であるとともに、あらゆる文献を駆使してマルクス経済学の神髄に迫ろうとする真摯な貢献に脱帽する。