
高等学校学習指導要領に、「歴史地理のうち世界史A及び世界史Bのうちから一科目並びに日本史A、日本史B,地理A及び地理Bのうちから一科目」と規定されているにも拘らず、受験勉強に十分に時間を取れないために、世界史を教えていない高校がある、必修科目を履修していないので卒業できない、と言って騒がれている。
高等学校の授業は大学受験が目的なのかと言う意味では言語道断だが、その前に、私自身が最初に思ったのは、日本人はやはり順法精神の欠如した文化を背負って生きている国民だと言うことである。
大学進学率を上げるためには、生徒の受験勉強の負担を軽減する為には、受験に必要のない科目の勉強は、たとえそれが、高校卒業の要件であっても教えずに、他の受験科目の授業にその時間を振り向けようとする、指導要領無視の教育である。
高校卒業要件を満足させ得ない授業カリキュラムを組んで学校運営をするなどコンプライアンス意識の欠如も甚だしいが、更に要件を知っていながら、受けてもいない授業に成績をつけていたと言う学校まであるとなれば、正に犯罪行為である。
スクール・ガバナンス(?)の欠如と言うべきか、企業経営におけるのと同じ様なことが学校教育の場でも起こっている。
教育の当事者に指導要領を遵守しなければならないと言う順法意識が欠如しているのみならず粉飾評価まで行っており、学校当局や関係機関にガバナンスは働かず、更に、それを監視指導しなければならない文部科学省や教育委員会にもその意識が乏しい。
もう一度繰り返すが、日本人には、順法精神が乏しい、見つからなければ何をしても良いと言う風潮と法律遵守を交通法規のように考えているきらいがあって、学校教育の現場でもそれが日常茶飯事に全国規模で行われていると言うことである。
営利団体であろうとなかろうと、ある目的を持って活動する組織は、会社のように、コンプライアンスとガバナンスが命。法律に準拠して活動し、目的に沿った正しい行動を正しく行っているか監視監督を行い統治するのは、組織としての初歩の初歩である。
いくら立派な教育基本法に改定しても、精神を敲き直さねば無駄に終わってしまう。
日本の学習指導要領が正しいと言う大前提を置くとしても、今回の不祥事を悪いと思わないような教育者乃至教育関係者が、何を生徒に教えられると言うのであろうか。
今回のこの問題を問うた某世論調査では、理解できないが56%、理解できるが36%、どちらとも言えないが10%だとかと言うことだが、理解できるなどと言う言う人が多数いるのが実に情けない。
ここからは余談だが、
私自身の経験から言えば、大学の時も大学院の時も、必修科目は、学年の若い時期、大学なら2年生、遅くても3年生に履修することを心がけて来た。
大学時代に、3浪した友人が、必修科目の経済原論を4年生の最後まで残して、試験当日に朝寝坊して受験をミスって卒業できずに1年を棒に振ったのを知っている。
アメリカでは必修はCORE(基礎)科目であるから早い時期に履修するのだが、必修科目とはそう言うものであろう。
私たちが高校生の頃は、やはり英数国が必須で、理社は従、美術音楽体育と言った科目はおまけだと言う雰囲気が確かにあって、受験科目以外は勉強しても無駄だと言う風潮があった。
しかし、私の受験した旧帝大系の大学は、受験科目が8科目で、英・数(2科目)・国の他に、社会2科目(私は世界史と地理)と理科2科目(私は生物、化学)あり、科目の点数の比重も同じで、全科目均等に手を抜かずに勉強せざるを得なかった。
ところが、数学も幾何を選択したし、この幅広い受験勉強のお陰で、その後の人生が実に豊かになって大変感謝をしている。
その後、私の趣味にオペラやクラシックが加わり、何故、学生時代に音楽を軽視していたのか後悔したりもしている。
ところで、問題の世界史であるが、文科省は、グローバル時代の今日においては、重要な科目だと考えて必修にしたのであろう。
時代の変遷によって世界史の認識は大きく変るが、世界史は、言うならば、人間がこの世に生を受けてから歩んできた人類の文化文明の軌跡をグローバルベースで総括する学問、こんなに大切な科目は他にはない。
世界史には血塗られた悲しく悲惨な歴史も多いが、私は、世界遺産や人類の残した素晴らしい文化遺産に接して何時も感動し続けている。
美しい芸術や素晴らしい文化に接すると何時も思う、先日、孫達が歌っていたが「ニンゲンッテ、イイナ」と言う感慨である。
今だから言えるのかも知れないが、私が、アーノルド・トインビーの偉大な「歴史の研究」を知ったのも、平家物語や源氏物語、或いは近松門左衛門の素晴らしさを教え導いてくれたのも受験勉強のお陰であったし、世界各地を心配なく渡り歩けたのも世界地理や世界史の受験勉強のお陰だと思っているし、やはり、あの厳しい受験時代があったればこそと思うことが多い。
私自身、あの頃は、受験校でもなかったし予備校にも行かなかったので対策など全く無視して我流に勉強しただけだったが、それでも得たことは多かった。
なまじっか傾向と対策ばかりに奔走して、本来の教育の本分と使命を忘れて、受験科目ばかりに集中して安易にショートカット教育をしているとしっぺ返しはきつい筈。
勉強することが如何に素晴らしいことか。そんなことを生徒達に感じさせるような教育を目指さなければ駄目だと思っている。
高等学校の授業は大学受験が目的なのかと言う意味では言語道断だが、その前に、私自身が最初に思ったのは、日本人はやはり順法精神の欠如した文化を背負って生きている国民だと言うことである。
大学進学率を上げるためには、生徒の受験勉強の負担を軽減する為には、受験に必要のない科目の勉強は、たとえそれが、高校卒業の要件であっても教えずに、他の受験科目の授業にその時間を振り向けようとする、指導要領無視の教育である。
高校卒業要件を満足させ得ない授業カリキュラムを組んで学校運営をするなどコンプライアンス意識の欠如も甚だしいが、更に要件を知っていながら、受けてもいない授業に成績をつけていたと言う学校まであるとなれば、正に犯罪行為である。
スクール・ガバナンス(?)の欠如と言うべきか、企業経営におけるのと同じ様なことが学校教育の場でも起こっている。
教育の当事者に指導要領を遵守しなければならないと言う順法意識が欠如しているのみならず粉飾評価まで行っており、学校当局や関係機関にガバナンスは働かず、更に、それを監視指導しなければならない文部科学省や教育委員会にもその意識が乏しい。
もう一度繰り返すが、日本人には、順法精神が乏しい、見つからなければ何をしても良いと言う風潮と法律遵守を交通法規のように考えているきらいがあって、学校教育の現場でもそれが日常茶飯事に全国規模で行われていると言うことである。
営利団体であろうとなかろうと、ある目的を持って活動する組織は、会社のように、コンプライアンスとガバナンスが命。法律に準拠して活動し、目的に沿った正しい行動を正しく行っているか監視監督を行い統治するのは、組織としての初歩の初歩である。
いくら立派な教育基本法に改定しても、精神を敲き直さねば無駄に終わってしまう。
日本の学習指導要領が正しいと言う大前提を置くとしても、今回の不祥事を悪いと思わないような教育者乃至教育関係者が、何を生徒に教えられると言うのであろうか。
今回のこの問題を問うた某世論調査では、理解できないが56%、理解できるが36%、どちらとも言えないが10%だとかと言うことだが、理解できるなどと言う言う人が多数いるのが実に情けない。
ここからは余談だが、
私自身の経験から言えば、大学の時も大学院の時も、必修科目は、学年の若い時期、大学なら2年生、遅くても3年生に履修することを心がけて来た。
大学時代に、3浪した友人が、必修科目の経済原論を4年生の最後まで残して、試験当日に朝寝坊して受験をミスって卒業できずに1年を棒に振ったのを知っている。
アメリカでは必修はCORE(基礎)科目であるから早い時期に履修するのだが、必修科目とはそう言うものであろう。
私たちが高校生の頃は、やはり英数国が必須で、理社は従、美術音楽体育と言った科目はおまけだと言う雰囲気が確かにあって、受験科目以外は勉強しても無駄だと言う風潮があった。
しかし、私の受験した旧帝大系の大学は、受験科目が8科目で、英・数(2科目)・国の他に、社会2科目(私は世界史と地理)と理科2科目(私は生物、化学)あり、科目の点数の比重も同じで、全科目均等に手を抜かずに勉強せざるを得なかった。
ところが、数学も幾何を選択したし、この幅広い受験勉強のお陰で、その後の人生が実に豊かになって大変感謝をしている。
その後、私の趣味にオペラやクラシックが加わり、何故、学生時代に音楽を軽視していたのか後悔したりもしている。
ところで、問題の世界史であるが、文科省は、グローバル時代の今日においては、重要な科目だと考えて必修にしたのであろう。
時代の変遷によって世界史の認識は大きく変るが、世界史は、言うならば、人間がこの世に生を受けてから歩んできた人類の文化文明の軌跡をグローバルベースで総括する学問、こんなに大切な科目は他にはない。
世界史には血塗られた悲しく悲惨な歴史も多いが、私は、世界遺産や人類の残した素晴らしい文化遺産に接して何時も感動し続けている。
美しい芸術や素晴らしい文化に接すると何時も思う、先日、孫達が歌っていたが「ニンゲンッテ、イイナ」と言う感慨である。
今だから言えるのかも知れないが、私が、アーノルド・トインビーの偉大な「歴史の研究」を知ったのも、平家物語や源氏物語、或いは近松門左衛門の素晴らしさを教え導いてくれたのも受験勉強のお陰であったし、世界各地を心配なく渡り歩けたのも世界地理や世界史の受験勉強のお陰だと思っているし、やはり、あの厳しい受験時代があったればこそと思うことが多い。
私自身、あの頃は、受験校でもなかったし予備校にも行かなかったので対策など全く無視して我流に勉強しただけだったが、それでも得たことは多かった。
なまじっか傾向と対策ばかりに奔走して、本来の教育の本分と使命を忘れて、受験科目ばかりに集中して安易にショートカット教育をしているとしっぺ返しはきつい筈。
勉強することが如何に素晴らしいことか。そんなことを生徒達に感じさせるような教育を目指さなければ駄目だと思っている。