
7月最初の定例公演で、狂言は和泉流野村万蔵家の「八幡前」、能は、観世清和宗家がシテで舞う「善知鳥」。
狂言「八幡前」は、登場人物/聟志願の男・有徳人・太郎冠者・教え手の4人
八幡山下に住む有徳人(万蔵)が、美人の一人娘に聟を取ろうと考えて、一芸に秀でた者を募ると高札を打つ。それを見た男(能村晶人)が、その高札を引いて聟入りを望むのだが残念ながら無芸なので、日ごろ世話になっている知人(万禄)を訪ねて指南を仰ぐ。即席で名人に仕立てるなど無理だが、仕方なく、弓の達人だと名乗らせて鳥を射る方法を教え、どうせ当たるはずもないので、射損じた言い訳に、一首の秀歌を詠んで歌道の達人を装えと教える。しかし、教え手は、男があまりにも頼りないので、群衆に紛れて指図をすることにするのだが、教えても頓珍漢な受け答えを続けるので、耐えられなくなって場を外し、師を失った男は終句を詠めずに右往左往して馬脚を現す。
この八幡は、石清水八幡宮のことで、捕獲された魚類や鳥類を開放する放生会の舞台である放生川で、鳥に矢を射かけてしくじると言うストーリーを和歌に引っ掛けたのが面白いが、要するに、「萩大名」と同じで、和歌を覚えられない無風流で教養のない人物が、馬脚を現して恥をかくと言う狂言話。
この聟公募と言うのが、一般化していたのかどうかは知らないが、ほかの狂言でも、
復曲狂言「眉目吉」では、有徳人が美男の聟を募集している所へ、聞きつけた博打打ちが醜男の息子を美男と偽り応募させる。と言う話や、
「賽の目」では、ある金持ちが、自慢の美人の一人娘に聟を探そうとして、算用に達した者(計算に強い人物)を聟にすると高札を立てる。と言った曲もある。
いずれにしろ、聟公募は、あくまで、狂言の骨組みの筋書きと言うことであって、狂言師の、如何にも取ってつけたような真面目な仕草で、しかし、そのシンプルながらも研ぎ澄ました芸の巧みさ面白さを、楽しむことが眼目であろう。
私にも、二人の娘が居て、夫々結婚して家庭を持ち孫たちもいるのだが、親としては、娘の結婚と言うのは、個人的には、最大の関心事でありイベントであることには間違いないので、この有徳人の心境は分かるであろう。
能「善知鳥」は、救いようのないほど悲惨な悲しい曲である。
猟師が主人公として登場し、生前の殺生の罪ゆえに死後苦しむ能は、本作と「阿漕」と「鵜飼」で、「三卑賤」と総称されているが、中でも本作は特に陰惨な描写が続き、苦しみのもととなった殺生の様子が生々しいタッチで描かれている。と言う。
銕仙会の解説を借用すると、次のようなストーリーだが、この解説では、運命付けられた殺生を生業とする卑しい身ながらも、”殺生を生業とし、殺生に楽しみを見いだしてしまった、哀れな猟師。苦しみつつも猟に熱中してしまう、運命の残酷さ。”と言う見方をしていて、「殺生じたいを楽しむようになってしまった猟師・漁師の悲しみ」というテーマを浮き彫りにしており、一層、シテ/漁師の悲惨さ哀れさが強調される。
陸奥へ下る旅の僧(ワキ宝生欣哉)が、途中、立山地獄で修行していると、一人の老人(前シテ)が現れ、自分が外ノ浜の猟師の霊であることを明かし、蓑笠を手向けるよう妻子に伝えてくれと伝言を頼み、その証拠にと衣の片袖を託す。僧が猟師の家を訪れ、猟師の妻(ツレ清水義也)と子(子方清水義久)に猟師の言葉を伝え、形見の片袖を渡して猟師の霊を供養していると、猟師の幽霊(後シテ)が現れ、弔いに感謝する。猟師は我が子に触れようとするが、罪障ゆえに叶わず、殺した雛鳥の親の気持ちを推し量って悔恨の念を述べる。猟師は、生前に殺生を唯一の楽しみとして熱中していたことを懺悔し、善知鳥を捕っていた様子を再現して見せ、親鳥の流す血の涙に染め上がる凄惨な猟の様子を語る。猟師は、地獄に堕ちたのち今度は自分が捕られる側となって責め苦を受けていること、特に鷹と化した善知鳥によって苦しめられていることを明かし、救済を求めつつ消えてゆく。
猟の様子を再現する「カケリ」の場面において、殺生に熱中する猟師の鬼気迫る様子を見せる場面として挿入されており、「追打ノカケリ」あるいは単に「善知鳥のカケリ」と呼ばれているとかで、、
この「追打ノカケリ」では、猟師が雛鳥を捕ろうとして一度逃がしてしまったのち、遠くから息を殺して狙い寄り、杖で打ち据えてついに雛を捕らえる、という演技がなされ、獲物を狙う猟師の様子が演じられる、緊張感のただよう場面となっている。と言う。
とにかく、シテが、息を殺して狙い寄り、杖で打ち据え獲物を捕る凄まじさ。床を激しく踏み据え、杖を背後に投げ捨て、傘を宙に投げ飛ばしながら舞い続ける激しい殺生に熱中する猟師の、鬼気迫るその表情。
”この世を渡るのなら、士農工商の家に生まれればよいのに、そうならず、また、琴碁書画といった風流なわざを嗜む身にもならず、ひたすら明けても暮れても殺生を生業とし、
暮れの遅い春の日も、仕事に追われて時が過ぎ、秋の夜長というが、その長い夜には、
漁火の白い火を灯して働き、眠る間もない。暑い夏の日々も暑さを忘れ・・・”
人夫々の業と言うべきか運命と言うべきか、生まれ出でた瞬間に選択の余地なく運命付けられた生業のなせる業と言うのは、あまりにも残酷である。
詞章の文章も、やや崩して表現するも、その描写の激しさ凄まじさは、普通ではない。
”善知鳥と言う鳥は、平らな砂地に雛を生む哀れにも愚かな習性を持っていて、「ウトウ」と呼ばれた雛は「ヤスカタ」と鳴いて答えるので、簡単に捕獲されるのだが、空からは、雛を捕られた親鳥が血の涙を流すので、漁師は蓑笠を深く着て血の涙から身を守るが、なおも降り注ぐ血の雨に、視界も遮られるばかりで、辺り一面は、紅くれないに染まり上がる。
地獄に堕ちた漁師は、生前の報いか、冥土では怪鳥が罪人を責め立て、鉄の羽に銅の爪で、罪人の眼をつかみ肉を引き裂く。苦しみ叫ぼうにも猛火の煙で声は出ず、逃げようにも歩くことすらできぬ。善知鳥は鷹となり、雉となった漁師を捕らえては苦しめる。安らぐ暇もなき身の苦しみ続ける。
どうか救って下さりませと僧に願って、猟師の霊は消えて行く。”
後場で、妻子に衣の片袖を渡して読経しているところへ、漁師の霊が現れて再会するのだが、このシーンは、些細ながらも救いであろう。
しかし、自分が殺した雛鳥の親とて、子を思う思いは自分とと変わるまいに。ああ、懐かしいと、我が子の髪を撫でようとする猟師は、罪障故に遮られてそれも出来ず、泣くばかり、と言うシーンが、人の親子と善知鳥の親子を対比させて、実に悲しい。
この能においては、恐らく、漁師は成仏することはなかったのであろうと思われるのだが、
何故か、人間に火をあたえたために、ゼウスの怒りにふれて、カウカソス山の山頂に縛り付けられて、鷲に内臓を蝕まれ続けるプロメテウスを思い出していた。
観世清和宗家の「善知鳥」を鑑賞できたと言う幸せを噛みしめながら、家路についた。
狂言「八幡前」は、登場人物/聟志願の男・有徳人・太郎冠者・教え手の4人
八幡山下に住む有徳人(万蔵)が、美人の一人娘に聟を取ろうと考えて、一芸に秀でた者を募ると高札を打つ。それを見た男(能村晶人)が、その高札を引いて聟入りを望むのだが残念ながら無芸なので、日ごろ世話になっている知人(万禄)を訪ねて指南を仰ぐ。即席で名人に仕立てるなど無理だが、仕方なく、弓の達人だと名乗らせて鳥を射る方法を教え、どうせ当たるはずもないので、射損じた言い訳に、一首の秀歌を詠んで歌道の達人を装えと教える。しかし、教え手は、男があまりにも頼りないので、群衆に紛れて指図をすることにするのだが、教えても頓珍漢な受け答えを続けるので、耐えられなくなって場を外し、師を失った男は終句を詠めずに右往左往して馬脚を現す。
この八幡は、石清水八幡宮のことで、捕獲された魚類や鳥類を開放する放生会の舞台である放生川で、鳥に矢を射かけてしくじると言うストーリーを和歌に引っ掛けたのが面白いが、要するに、「萩大名」と同じで、和歌を覚えられない無風流で教養のない人物が、馬脚を現して恥をかくと言う狂言話。
この聟公募と言うのが、一般化していたのかどうかは知らないが、ほかの狂言でも、
復曲狂言「眉目吉」では、有徳人が美男の聟を募集している所へ、聞きつけた博打打ちが醜男の息子を美男と偽り応募させる。と言う話や、
「賽の目」では、ある金持ちが、自慢の美人の一人娘に聟を探そうとして、算用に達した者(計算に強い人物)を聟にすると高札を立てる。と言った曲もある。
いずれにしろ、聟公募は、あくまで、狂言の骨組みの筋書きと言うことであって、狂言師の、如何にも取ってつけたような真面目な仕草で、しかし、そのシンプルながらも研ぎ澄ました芸の巧みさ面白さを、楽しむことが眼目であろう。
私にも、二人の娘が居て、夫々結婚して家庭を持ち孫たちもいるのだが、親としては、娘の結婚と言うのは、個人的には、最大の関心事でありイベントであることには間違いないので、この有徳人の心境は分かるであろう。
能「善知鳥」は、救いようのないほど悲惨な悲しい曲である。
猟師が主人公として登場し、生前の殺生の罪ゆえに死後苦しむ能は、本作と「阿漕」と「鵜飼」で、「三卑賤」と総称されているが、中でも本作は特に陰惨な描写が続き、苦しみのもととなった殺生の様子が生々しいタッチで描かれている。と言う。
銕仙会の解説を借用すると、次のようなストーリーだが、この解説では、運命付けられた殺生を生業とする卑しい身ながらも、”殺生を生業とし、殺生に楽しみを見いだしてしまった、哀れな猟師。苦しみつつも猟に熱中してしまう、運命の残酷さ。”と言う見方をしていて、「殺生じたいを楽しむようになってしまった猟師・漁師の悲しみ」というテーマを浮き彫りにしており、一層、シテ/漁師の悲惨さ哀れさが強調される。
陸奥へ下る旅の僧(ワキ宝生欣哉)が、途中、立山地獄で修行していると、一人の老人(前シテ)が現れ、自分が外ノ浜の猟師の霊であることを明かし、蓑笠を手向けるよう妻子に伝えてくれと伝言を頼み、その証拠にと衣の片袖を託す。僧が猟師の家を訪れ、猟師の妻(ツレ清水義也)と子(子方清水義久)に猟師の言葉を伝え、形見の片袖を渡して猟師の霊を供養していると、猟師の幽霊(後シテ)が現れ、弔いに感謝する。猟師は我が子に触れようとするが、罪障ゆえに叶わず、殺した雛鳥の親の気持ちを推し量って悔恨の念を述べる。猟師は、生前に殺生を唯一の楽しみとして熱中していたことを懺悔し、善知鳥を捕っていた様子を再現して見せ、親鳥の流す血の涙に染め上がる凄惨な猟の様子を語る。猟師は、地獄に堕ちたのち今度は自分が捕られる側となって責め苦を受けていること、特に鷹と化した善知鳥によって苦しめられていることを明かし、救済を求めつつ消えてゆく。
猟の様子を再現する「カケリ」の場面において、殺生に熱中する猟師の鬼気迫る様子を見せる場面として挿入されており、「追打ノカケリ」あるいは単に「善知鳥のカケリ」と呼ばれているとかで、、
この「追打ノカケリ」では、猟師が雛鳥を捕ろうとして一度逃がしてしまったのち、遠くから息を殺して狙い寄り、杖で打ち据えてついに雛を捕らえる、という演技がなされ、獲物を狙う猟師の様子が演じられる、緊張感のただよう場面となっている。と言う。
とにかく、シテが、息を殺して狙い寄り、杖で打ち据え獲物を捕る凄まじさ。床を激しく踏み据え、杖を背後に投げ捨て、傘を宙に投げ飛ばしながら舞い続ける激しい殺生に熱中する猟師の、鬼気迫るその表情。
”この世を渡るのなら、士農工商の家に生まれればよいのに、そうならず、また、琴碁書画といった風流なわざを嗜む身にもならず、ひたすら明けても暮れても殺生を生業とし、
暮れの遅い春の日も、仕事に追われて時が過ぎ、秋の夜長というが、その長い夜には、
漁火の白い火を灯して働き、眠る間もない。暑い夏の日々も暑さを忘れ・・・”
人夫々の業と言うべきか運命と言うべきか、生まれ出でた瞬間に選択の余地なく運命付けられた生業のなせる業と言うのは、あまりにも残酷である。
詞章の文章も、やや崩して表現するも、その描写の激しさ凄まじさは、普通ではない。
”善知鳥と言う鳥は、平らな砂地に雛を生む哀れにも愚かな習性を持っていて、「ウトウ」と呼ばれた雛は「ヤスカタ」と鳴いて答えるので、簡単に捕獲されるのだが、空からは、雛を捕られた親鳥が血の涙を流すので、漁師は蓑笠を深く着て血の涙から身を守るが、なおも降り注ぐ血の雨に、視界も遮られるばかりで、辺り一面は、紅くれないに染まり上がる。
地獄に堕ちた漁師は、生前の報いか、冥土では怪鳥が罪人を責め立て、鉄の羽に銅の爪で、罪人の眼をつかみ肉を引き裂く。苦しみ叫ぼうにも猛火の煙で声は出ず、逃げようにも歩くことすらできぬ。善知鳥は鷹となり、雉となった漁師を捕らえては苦しめる。安らぐ暇もなき身の苦しみ続ける。
どうか救って下さりませと僧に願って、猟師の霊は消えて行く。”
後場で、妻子に衣の片袖を渡して読経しているところへ、漁師の霊が現れて再会するのだが、このシーンは、些細ながらも救いであろう。
しかし、自分が殺した雛鳥の親とて、子を思う思いは自分とと変わるまいに。ああ、懐かしいと、我が子の髪を撫でようとする猟師は、罪障故に遮られてそれも出来ず、泣くばかり、と言うシーンが、人の親子と善知鳥の親子を対比させて、実に悲しい。
この能においては、恐らく、漁師は成仏することはなかったのであろうと思われるのだが、
何故か、人間に火をあたえたために、ゼウスの怒りにふれて、カウカソス山の山頂に縛り付けられて、鷲に内臓を蝕まれ続けるプロメテウスを思い出していた。
観世清和宗家の「善知鳥」を鑑賞できたと言う幸せを噛みしめながら、家路についた。