熟年の文化徒然雑記帳

徒然なるままに、クラシックや歌舞伎・文楽鑑賞、海外生活と旅、読書、生活随想、経済、経営、政治等々万の随想を書こうと思う。

企業の社会的責任・・・CSRは必須か?(その1)

2005年08月20日 | 経営・ビジネス
   日経ビジネス最新号の表紙は、「何故絶てぬ 企業不祥事 CSRで会社を守れ」と言うタイトル。
   このタイトルでセミナーをやれば、盛況間違いなしとか、兎に角流行である。

   ところで、日経のタイトルで気になるのは、まず、日本の場合の企業不祥事は、コンプライアンス(遵法)とコーポレート・ガヴァナンスの問題であって、件のCSRと言うよりは、それ以前の問題であると言うことである。

   英国政府のCSR.gov.ukのホームページを開くと、
   「CSRとは、経済社会の持続可能な発展目的に対する会社の貢献である。必然的に、どのように、会社が、ベネフィットを最大化し、マイナス面(downsides)を最小化するために、その事業の過程において、経済的、社会的、環境的なインパクトを考慮するかと言うことに関わる。
   CSRとは、会社自身の競争優位に対する利益ともっと広い社会の利益を社会に発信する為に、最低限度の法的要求を遵守する事に関して或いはそれを越えて、ビジネスが実施する自発的なアクションだと考えている。」、と書いてある。

   先に紹介した東大の岩井教授の本にも面白い記述があるので、少し触れながらCSRについて考えてみた。

   アメリカで話題になった、ジョエル・ベイカンの「ザ・コーポレーション」でのインタヴューで、マネタリストの総帥ミルトン・フリードマンが興味深いことを言っている。
   「会社は株主の財産である。株主の為に出来るだけ多額の金を儲けるのが経営者の使命であって、社会や環境上の目標を利益に優先する経営者…道徳的に振舞おうとする経営者は、実は非道徳的である。
   偽善が収益に寄与するのであればそれも良いが、道徳的偽善も収益につながらなければ非道徳的である。」
   会社の社会的責任は利益の極大化である、個人の利益追求の道具である会社の経営者が、独自の判断で慈善事業や文化活動を行うことは、個人の選択の自由の巾を狭めてしまう反社会的な行為であって許せない、と言い切っているのである。

   一方、岩井教授は、ジョージ・ソロスにも触れ、法律に触れない限りにおいて、利益はとことんまで追求すべきで、投機活動の社会的責任など、全く顧慮する必要はないとの投機哲学を披瀝している。
   会社や投機ファンドは、あくまでも個人の利益の為の道具であり、利益の極大化に邁進する、しかし、それで得た利益はどう使おうと個人の選択は自由であるとして、ジョージ・ソロスの世界一の慈善事業家としての側面を語っている。
   ソロスは、英国の経済状況の悪化に目をつけて、固定相場を維持しようと必死の英国政府を敵に回して、ポンドを徹底的に売り浴びせて、ポンドを暴落させて巨利を得た。この時の悲痛な英国政府の狼狽ぶりをロンドンで見ていたので、ロンドンで高等教育を受けて一人前になり一宿一飯の恩義のある英国に対する情け容赦のないソロスの非情さと無慈悲な資本主義経済の厳しさに打ちのめされたのを覚えている。
   同じビジネス哲学を持つフリードマンとソロスが、先の大統領選挙で敵対した。宗旨替えし、仏心を起こして慈善家に転身したソロスが、市場至上主義のブッシュを追い落とす為に、ケリーに、運動資金を提供したのである。

   ところで、ミルトン・フリードマンの経済政策をそのまま思想的バックボーンとしているのがブッシュ政権であるとか。
   京都議定書など無視、石油を確保する為には、嘘を本当にしてイラクを支配する。地球に穴が開こうが、人類が滅ぼうが、自分達が生きている間は大丈夫、兎に角、儲けて儲けて天下を押さえておこう、と言えば言い過ぎであろうか。

   そのブッシュ政権と蜜月のどこかの首相と経済相のコンビも、民間で出来ることは民間にと言って、競争原理を復活させて市場を活性化することが大切だと言う。
   この国にとっては、談合まみれの凭れ合い経済社会からの脱皮の為には、厳しい市場原理の洗礼が必用なのかも知れない。

   次は、別な側面からCSRを考えてみたい。
   
(追記) 写真は、前世紀初期のベンツのスポーツ・カー。先月、ロンドンRACロビーに展示されていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする