夕焼小焼の、赤とんぼ
負われて見たのは、いつの日か
山の畑の、桑の実を
小籠に摘んだは、まぼろしか
三木露風の作詞、山田耕筰の作曲のこの歌「赤とんぼ」は、無性に郷愁を誘い、懐かしい子供時代の故郷を思い出させる。
露風が、一世紀近く前に、故郷である兵庫県の龍野で過ごした子供の頃の思い出を綴った詩だと言うことだが、西と東に離れているが、私も子供時代を兵庫県の宝塚で送って来たので、それ程、印象は違っていないかも知れない。
しかし、私にとっての宝塚、そして、阪神間には、私の青春のすべてが充満していて、思い出の数々を反芻するだけでも実に懐かしい。
この関東へ移って来てからも、宝塚の田舎でもお馴染みの沢山の昆虫や草花を見るのだが、何故か、赤とんぼだけは格別で、マドンナへのような強烈な思いが、走馬灯のように駆け巡ってくるのである。
今では、殆ど都市化して鬱蒼としていた緑の木々も田圃もなくなってしまっているが、私の子供の頃の宝塚の田舎は、見渡す限りの田園地帯で、全く自然に包まれた、この露風の赤とんぼの世界であった。
フナやナマズを掬いに小川に飛び込んで泥まみれになり、モズなどの小鳥の巣を追っ駆けて野山を駆け回ったり、夏の夜には、満天の星空を仰ぎながら蛍狩りに出かけたり、勉強などと言う無粋な世界に全く縁がなく、日がとっぷりと暮れて真っ暗になるまで、遊び呆けていた。
赤とんぼが、真赤な夕日を浴びて、中空を乱舞する光景を、どれほど、畑の中で、友とくんずほぐれつしながら、見上げたことか。
今朝、早く庭に出てみると、菊枝垂桜の枝先に、真赤な赤とんぼが止まっていた。
先日、庭で見かけたとんぼは、少し、尻尾が赤くなりかけていたものの、まだ、全体に黒っぽい感じだったが、このとんぼは、眼もそうだが、全身真赤な赤とんぼである。
鉢植えにして、鎌倉の新居に持って行こうと思っている菊枝垂桜の枝先に止まったので、お別れの挨拶に来てくれたのかも知れない。