鉄道をめぐる日泰関係史に話が及んだところで、いよいよ今回のヤンゴン詣でついで・バンコク寄り道の本題である、泰緬鉄道=今日のナムトク線の話題に入りたいと思います。
泰緬鉄道は、かつて日本軍が英国のアジア方面への補給線、とりわけ蒋介石への援助ルートを断つためにビルマ=ミャンマーの地政学的重要性を極めて重視し、さらに西の英印本体へ打って出るための足がかりとするため、人煙まれな泰緬国境に400km強のレールを敷設したものであり、その事績は、建設困難な長大路線を僅か1年数ヶ月で建設するために、連合軍捕虜や東南アジア各地の労務者を大量に動員して莫大な死者を出したことで夙に知られているところです。筆者も、確か1980年頃のRF誌に連載された泰緬鉄道に関する回顧録を見て、小学生ながらに「こんなスゴい鉄道があるのか……」と計り知れない衝撃を受け、単に眼を皿のようにして何度も熟読しただけでなく、暇つぶしに駅名を全部暗記したほどでした (今はすっかり忘れちまいましたが、何故かビルマ側の終点付近であるレポウ・ラバウ・ウエガレエ・新タンビザヤ・タンビザヤ [現地の発音はタンビュザヤ] だけは、音の繋がりが良いためか覚えているという……笑)。
というわけで、文系人間のはしくれとしては、その後高校や大学でいろいろと世界史をかじるにつけ、余りにも歴史的に強烈な存在感を誇る泰緬鉄道を一目見てみたいものだという思いはあったのですが、大学に入って以来しばらく非鉄期に入ってしまったため、大学の旅行(先生が企画した参観ツアー)にバンコクで現地参加し、バスで最大のみどころ・クウェー・ヤイ川鉄橋を訪れて鉄橋を徒歩で渡っただけでとりあえず満足してしまったのでした (汗)。というわけで、現役の大型鉄道車両用木橋として世界的にも極めて貴重なタムクラセー(建設時はアルヒル)桟道橋、あるいは岩山をスッパリ掘り下げたチョンカイ切通などの名所は後回しに……。まぁ、タイのバンコクは東南アジアの要にして、そのうちまた訪れる機会も多々あるだろうから、その際に……と油断してしまったのがいけません。実際、その後数度の旅行は中国方面にハマってしまい、ここ数年東南アジアでの鉄活動に目ざめてからもインドネシアを最も優先してしまったため、バンコクを再訪したのは昨年のヤンゴン詣でのついで……(滝汗)。しかも昨年は「まずバンコクにほど近い場所を固めてから」というわけでメークロン線に力を注いだため、念願の泰緬鉄道初乗車は、あろうことか卒業旅行でクウェー川鉄橋を訪れてからちょうど20年の節目……ということになってしまったのでした (こう記せば記すほどヲッサン丸出し。爆)。
しかしまぁ、DLが日本風の客車を牽引し、単線ではタブレット閉塞を行っているというタイ国鉄の基本的なスタイルは、20年経っても相変わらず。時空を超えて20年前、そして60数年前へとワープするというノリでも良いでしょう。
いっぽう、泰緬鉄道に着目したくなる今ひとつの理由は、果たしてこの鉄道がタイとミャンマー両国の関係にとって如何なる意味を持ちうるのかということ。今日でこそ、この両国はASEANの重要な構成国として大きな存在感を持つだけでなく平和的に協調しているように見えます。クルンテープ駅の頭端部にもたまたま、ASEAN友好を象徴するディスプレイが特設されており、ミャンマー国旗を振る人形が愛嬌を振りまいています (1枚目の画像)。しかし、長い歴史を繙けば、実は両国は犬猿の仲である時期の方が長いという……。かつてタイ=シャムの大地に燦爛と栄えた仏都スコータイ&アユッタヤーは、いずれもビルマからの大軍によって滅茶苦茶に破壊されてしまったという因縁があります (もっとも、タイは殊勝なことに、そのような遺跡も恒久平和を願う象徴としており、何処かのウ○○ラのように恨みの炎に油を注ぐようなことはしません)。そう、18~19世紀頃までは圧倒的にビルマの諸王朝の方が強かったのです。しかし運命はいたづらなりけり。ビルマ史上最強を誇ったはずのコンバウン朝は、近代化と独立に失敗して英印の一部分とされてしまった一方 (1937からビルマ統治法の施行によりインドから切り離され英領ビルマに)、今日も続くシャム=タイのラタナコーシン朝は稀に見る名君が続き、英仏両国のあいだで何とか独立を保ち、早くから近代化に着手……。恐らくタイの人々は、今日のミャンマーと自国を比較して内心溜飲を下げ、ミャンマーの人々はヤンゴンやマンダレーとバンコクを比較してプライドがかき乱されているのではないでしょうか (客観的にみて、バンコクはバリバリの国際的大都会ですが、それと比べればヤンゴンはひなびた地方の都会という雰囲気です)。
というわけで、そんなミャンマーは挽回を図るためにもC国一辺倒を止め、上からの民主化・自由化を推進し、欧米日と関係を大いに改善しているところですが、やはりミャンマー経済として致命的なのは、周辺国との往来に必要なインフラがまだまだ脆弱なことでしょうか。数カ所あるタイとの主要な国境に至る道路も、山また山のクネクネ道のようですし、何と言ってもミャンマー政府と少数民族との和平が十分には達成されておらず、ゲリラ活動の危険もあります。そこで最近突破口として浮上したのが、戦後線路が取り払われて久しい泰緬鉄道のサイヨーク・ノイ(定期列車の終点ナムトクの少々先)~タンビュザヤ間の再建設! これがもし完成し、線路設備的にもそれなりに悪くないものであれば、現在建設・再建中といわれるベトナム・ホーチミン市~プノンペン~タイ・アランヤプラテートの鉄道と合わせて、大陸部東南アジアを縦貫する鉄道として大きな効用を発揮しうるでしょう。
しかし問題は……タイからみて西のインド洋への出口を考えるとき、泰緬鉄道を全線復活させるよりも、カンチャナブリーから西に向かってすぐに突き当たる山脈=国境を越えたところにあるダウェーに至る鉄道を新設するか、あるいはそもそも道路を拡充する方が早く、物流需要にも見合うのではないかということ。日本各企業も、ミャンマーにおけるインド洋への出口・投資拠点として、バンコクから至近なダウェーの方が有望ではないかとみているようですし。というわけで、泰緬鉄道はそれほど線形面で不利なのか?下手をするとまた計画変更で復活しない可能性もあるのではないか?という気もしますし、逆に正式に全線復活して物流の動脈として活用されるとしても由緒あるデンジャラス区間(とくにタムクラセー桟道橋)は旧線として放置される運命にあるかも知れません。
というわけで、まさに今こそ泰緬鉄道に触れ、様々な意味においてその来し方行く末を占ってみる好機!と判断しまして、早朝から夜に至るまでひたすら鈍行列車に揺られながら一往復の初乗車を果たした次第です。
ただ、とにかく思うに……年間でも最もクソ暑い暑季にこんなことをするべきではなかった! (^^;) 朝からフィーバーしていたら、午後は余りの暑さで車内にてグッタリしてしまいました……。「タイであれば売ってるだろ」と思った神の水・ポカリスエットが、少なくとも私が入ったセブンイレブンでは売っていなかったし……(前回のミャンマー訪問ではポカリ欠如に苦しみ、今回はヤンゴン滞在日分の粉を持参して効果的な電解質補給に成功したのですが、タイでの活動分を持参しなかったため、大いに難儀&反省)。
ちなみに、クルンテープ駅の頭端部には、ミャンマー人形と並んでインドネシア人形も置いてありましたが (2枚目)、タイとミャンマーが鉄路で再びつながる可能性はあるとしても、インドネシア国鉄とマレー半島&海底トンネルでつながる可能性はないでしょうなぁ……(軌間違うし)。他にラオス人形もありましたが、カンボジア人形が置いていないのは、国境線上のプレアビヘア寺院をめぐる問題をはじめ、タイの対カンボジア感情の悪さの結果なのでしょうか?
とまぁこんな感じで、単なる鉄ヲタな関心にとどまらない乱筆をゴニョゴニョ記して大変恐縮ですが、まずは泰緬鉄道初乗車に関連して脳内に渦巻いた雑念の備忘録ということで……。クルンテープ駅からの泰緬鉄道直通列車は週末早朝のDC観光列車しかありませんので、次回はチャオプラヤー川の向こうにある毎日運転鈍行列車の始発駅・トンブリー(バンコク・ノーイ)駅の様子です。
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