早朝5時過ぎから(あるいはもっと前から?)既に三々五々客が埋まりつつあった東本線・アランヤプラテート行の車内は、発車間際になると遅れてやって来た西洋人バックパッカーでいよいよ盛況となりました。カンボジア、そしてベトナム南部へと陸路で移動する彼らは、若者ばかりというわけではなく結構なオッサン・オバサンもおり、長いバカンスを問答無用で取得できる国はうらやましいのぅ……と思うわけですが、それにしても彼らの出足は遅すぎる。どうせ鈍行列車なのだから、発車直前でも余裕余裕♪と思ったのでしょうが、軍事クーデタで潰されたタークシン家が地方貧困層からの人気取りで始めた3等鈍行運賃国民無料化政策(但し、国鉄には発券分の運賃が国庫から支給されるため、無料とはいえ事前に窓口で身分証を見せて切符をゲットしなければなりません)によって、総じて鈍行列車は空いていないという印象を受けます。というわけで、哀れな西洋人に残された席は、常時南側になる難行苦行席……(笑)。酷暑に慣れていない西洋人にとってこれは地獄! 実際、乗車直後は多少はしゃいでいた彼らも、やがて陽が昇ってくると押し黙ったような状態に……。皆様、過去のタイ鉄道関連本に、ガラ空きの鈍行に関する記述や写真が載っているとしても、上記運賃タダ政策が続いている限り、ゆめゆめ油断してはなりませんぞ!
それはさておき、まだ暗いクルンテープ駅の操車場を、右に左に留置中車両を眺めつつ抜けると、すぐにウルポン停車場(分岐点)に停車~。さらに三々五々客が乗ってくる一方、裸電球に照らされたスラム街の屋台から生暖かい湯気が上り、バンコクの日常がまた始まろうとしていました。さらに東本線に入ると、ひたすらエアポート・リンクの高架線の下を、やや申し訳なさそうに前進 (運賃も車両のグレードも天地の差ですので ^^;)。但し、短距離客であっても、「たまにしか来なくても運賃がタダな方が良い」というわけで、車内はあっという間に大盛況~。各駅で通勤通学客は入れ替わりつつ、やがてラーックラバンでエアポート・リンクと分かれて、一面の水田の中を飛ばすようになりました。
途中、フアタッケにて、ネットで確認したキハ58流用の宿営車が留置されていないものか……と目を凝らしたところ、うう……いなくなっている……(TT)。
というわけで朝8時前、チャチュンサオに到着しますと、客の半分くらいは入れ替わりましたが、依然として混んでいることには変わりなし。95%くらいの席が埋まっているような感じです。ここからはバーン・プルタルアン方面へのデラックスな線路(サタヒープ線。但しほとんど貨物用。旅客は平日に1日一往復のみ)と分かれて一旦北上、さらにクローン・シップカーウにて東北線への短絡用貨物線と分かれ、カラッカラに乾いた暑季のサバンナのような風景の中を東へ向かいます。途中、プラチンブリー及びカビンブリーといった駅では、そこそこ客が入れ替わるほか、如何にもタイの田舎街といった雰囲気ののんびりとした市街が広がっており、ホッと一息つくものの、それ以外の駅はホントに寂寥感が漂います。それでも、有人駅であれば、プミポン国王の肖像が恭しく飾られているのをはじめ、非常に美しく好感が持てるのがタイの駅というものです。
いっぽう問題は……ちっとも列車が飛ばさず、やがて1時間半近い遅れになってしまっていること (T_T)。日本政府が大々的な改良に興味津々な東本線、当面はイタリア政府の援助が入って路盤改良が進んでいるようなのですが(少なくとも沿線の施工関連看板を見るにつけ)、夜間工事が終わった後の午前中の列車は地固めを兼ねているようで、あちこちで超徐行運転……(号泣)。とにかくディーゼル煤煙と砂埃の組み合わせがヒドいだけでなく、全く遅延回復の意志もないため、「あ~あ、アランヤプラテートで街をブラブラし、国境まで往復するヒマがなくなっちまったぜ……」と苦笑するしかなかったのでした。
とまぁこんな感じで、いよいよ人口密度が減り、一駅間に15~20分かかるようになるとアランヤプラテートに到着! 1時過ぎの到着ということで、何と1時間半遅れ……。とりあえず写真をパチパチ撮っているうちに、ほとんどの客はすぐにトゥクトゥクの客となって国境方面へと消えてしまいましたとさ。
ちなみに1枚目の画像は、コーク・マコークにて上りクルンテープ行きDMUとの交換待ちの間に撮影。2枚目はアランヤプラテート到着直後に撮影しました。
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