地味鉄庵

鉄道趣味の果てしなく深い森の中にひっそりと (?) 佇む庵のようなブログです。

岩手乗物縦断 (2) 盛岡色701系@一ノ関

2019-12-08 12:58:00 | JR発足後の車両


 仙台市営地下鉄の泉中央駅から歩くこと2泊3日、春まだ遅い一ノ関の駅に着きますと、駅舎と直接つながる1番線は仙台・小牛田方面から来た仙台色編成の折返専用ホームとなっており、跨線橋を渡った2番線が盛岡色編成用ホーム、3番線が大船渡線用ホームとなっています。貨物列車はどうするのかと言えば、3番線と新幹線の間の複数の線路を通ることになっており、私が駅撮りしている間にはちょうど陸前山王(仙台北港)行のタキ1000が通過して行くのをポカーンと眺めるばかりでした。
 そして思い起こせば、仙台の455系が総崩れとなった後、しばし3番線と新幹線の間で廃車待ちをしていた光景も懐かしい……。



 そんな一ノ関駅在来線ホームにて、最も存在感を放っている(?)のは、盛岡色の701系4連でしょうか。昼間の閑散時には2連が当たり前ですが、朝夕は概ね4両編成となり、発車間際には座席が埋まって立ち客もいるほか、土日ともなれば、盛岡方面から電車が着く度に、平泉観光を終えて首都圏方面に帰る観光客が、重い荷物を持ってドドドッと下車して新幹線方面へとなだれ込んで行きます。
 最近発売された昭和39年10月改正時刻表の復刻版を眺めていると、一ノ関駅を出入りする列車は特急・急行・準急のみならず、上野〜青森直通鈍行も複数運行され、そんな居並ぶ長距離列車に対応するための非常に長いホームが今日も残っていますが、一ノ関駅の場合は今や4連がMaxであることから、ホームの余った部分の手前には柵が設けられて立入禁止となっていることこそ悲しけれ。しかし、部活帰りの高校生や、平泉帰りの観光客でひとしきり賑わう一ノ関駅の光景を眺めるにつけ、時間帯によっては短距離大量輸送も必要なご時世に対応した701系も、これはこれでよく考えられた存在なのかも知れないと思ったのでした。
 というわけで、東北本線の終点・盛岡まで、そして一部列車についてはIGRの滝沢・沼宮内まで続く、盛岡色701系とともに歩く旅 (?) が始まりました。もっとも、本数の少なさに加え、線路と街道が若干離れている区間がほとんどであるゆえ、撮り鉄する機会は僅かなのですが (^^;)。

2009年のパクアン急行 (下) 東西線5000

2019-12-06 19:46:00 | インドネシアの鉄道


 パクアン急行様の人生の廃車回送→新たな門出を祝う特別列車の運行から間もなく1週間となり、パクアン急行様ご本人からも早速メールを頂くなどして (ありがとうございます!)少しずつ詳細な様子が明らかになっているのですが、とにかく大枚はたいて特別列車を貸し切っているのだからやりたい放題やらせろ!とばかりに、厳重な撮影禁止のはずのタンジュンプリオク駅で写真撮り放題、なんちゃってPKDと本物PKDの記念写真 (爆笑)、そして行きも帰りも車内は鉄ヲタの修学旅行状態……と、ただただ羨ましい!俺も参加したかった!の一言に尽きます。そんな中、昔の港市国家のスルタンがそのまま現世に現れたかのようなパクアン急行様の晴れ姿も何とも言えず、さらにはジャティバランの製糖工場訪問というスペシャル・エクスカーションもあり、最高に濃厚な2日間であったようです。
 その模様の一端として、YouTubeにおける西船junctionどっと混む様のアカウント(2427junction)にアップされた前面動画を楽しむことが出来ます。タンジュンプリオクを発車してからブカシを通過するまでの約45分間が、ポイントを渡りまくりの手に汗握る区間となっています。いやはや、複々線化や橋上駅舎化が進んでおり、つくづく浦島になってしまいましたわい。



 というわけで、10年前のジャカルタ初訪問時の画像の中から、「パクアン急行」を掲示していた編成の画像を発掘するシリーズ……2回目で打ち止めです (爆)。散々外付けHDを漁って見つかったのは、東急8608Fと東西線5000系59Fのみでした (滝汗)。
 個人的には、ジャカルタを訪問するようになったのは基本的に東急8000系列とJR103系狙いであり、これに加えて都営6000系も三田線時代に乗る機会がそれなりにあって懐かしく、のち常磐千代田線203系も狙い目の中に加わりましたが、メトロは乗っても静か過ぎて盛り上がりに欠け、東西線はそもそも神奈川県民にとって滅多に乗る機会もないことから、東西線5000系と東葉高速1000系は全く追っかけの対象ではなかったことは否めません。メトロ5000系の、如何にも昭和30年代的なノリの切妻ステンレスボディだけは結構好きですけど……。
 そんなメトロ5000系、KCIのジャボタベック事業部→KCJにとっては、ほとんど故障もせず最高に使いやすい車両だったようで、ある撮影地を訪れると、頼みもしないのに必ずやって来たものでした (笑)。この緑+黄帯はなかなか似合っており、「乗っても面白くねーな」とは思いつつも、撮ればボロさと格好良さのバランスが絶妙でしたので、来れば必ず撮る対象ではありましたが……とりわけこの59Fにつきましては、神奈臨の千鳥町で見送った編成ですので、メトロ5000系の中では思い入れのある編成でもありました。
 今やメトロ5000系+東葉1000系は、全6編成のうち5編成が離脱してしまい、5000系67Fが最後の活躍中とのことですが、大きな事故を起こさないまま205系に押される形で静かに引退しつつあるのは、如何にメトロ5000系が完成度の高い車両であったかの証しとも言えましょう。

岩手乗物縦断 (1) 岩手県交通一関営業所

2019-12-04 00:00:00 | 濃いぃ路線バス&車両


 奥州街道徒歩鉄旅・宮城県編は、一ノ関駅での701系仙台色撮影を以てシメとなり、岩手県編へと引き継がれるという腹づもりだったのですが、一ノ関駅に着く手前に岩手県交通の一関営業所があり、道路から丸見えで撮り放題でしたので、一ノ関駅に着く前になし崩し的に岩手県編がスタートしておりました (笑)。
 南北に結構長い岩手県では、総じて盛岡市北郊の滝沢〜松園ニュータウン界隈(ごく僅かに好摩行きもあり)、及び三陸海岸に面した「道の駅やまだ」を北限として、南側が岩手県交通の天下となっており、圧倒的大都会(?)である盛岡で頻繁運転(?)を実施しているほか、各主要都市を拠点として様々な路線を張り巡らせています。



 そんな岩手県交通のバスは、高速・長距離線用の場合国際興業色が長年スタンダードですが、一般の路線バスは水色が印象的で如何にも昭和の路線バス!という感じの独自の塗装を纏い、しかも今から10年ほど前まではボロバスの宝庫という感がありました。しかし、親会社の国際興業で大量に余った二段窓キュービックなど、中古車を積極的に導入してきた結果、今ではほとんどのバスが国際興業色となっており、岩手県交通の旧塗装で走っているのは、旧塗装時代の末期に入れたと思われるごく少数のエルガミオのみ、という印象です。
 というわけで、すっかり岩手県交通のスタンダードになった国際興業色ですが、彩度の低い旧塗装と彩度が高い新塗装に分かれ、低い彩度のままで走る車両は自ずと、導入から長い時間が経ったボロ!を意味しています。今や、岩手県交通のバスを眺める際の最大の楽しみは、低い彩度のボロに当たることであろうと思いますし (^^;)、実際に急速に老朽廃車が推し進められているように見受けられますので、ある意味で今が世代交代の旬であると言えそうです。
 一ノ関駅に着く手前で通りかかった一関営業所はまさに、低い彩度のボロバスを満喫するパラダイスでした♪ 二段窓キュービックがそこかしこに留置され、とりわけ2台並んでいる光景が余りにも素晴らし過ぎる……(*^^*)。予約済みの新幹線の時間には十分余裕があったことから、ひとしきり激写しまくり、江戸の日本橋から歩きつないでついに岩手県に到達した感動に浸ったのでした (笑)。

2009年のパクアン急行 (上) 東急8608F

2019-12-02 20:35:00 | インドネシアの鉄道


 去る11月30日の日本の鉄道趣味界は、相鉄JR直通一色に染まった感がありますが、遥か南のインドネシアでは、格別にマニアックな列車が運行されました。いつもお世話になっておりますパクアン急行様が、貸切需要に対応するべく日本製DCを大改造して最近登場したインドネシア鉄道の豪華車両「Kereta Istimewa」をチャーターし、鉄道車両の墓場チカウムに自らを廃車回送しつつ (笑) 最終的にC●駅を目指すという企画です。
 私もこの企画には、かなり早い段階からお招き頂いていたのですが、現在怪社で拝命している役職の都合で泣く泣く不参加表明せざるを得ず (嗚呼ブラック企業……)。その後相鉄が11月30日を以て開業する旨を発表したことで、結局日本国内で早朝から奮闘したのですが、パクアン急行様にとって最高に特別なこの列車に同乗し、直接お祝いを申し上げたかったのもまた偽らざる思いです。
 そこでこの場ながら、パクアン急行様の人生の大転機を心よりお祝い申し上げますとともに、ご家族を大事にされつつ、今後ますます、日本とインドネシアの鉄道事情を結ぶ立役者としてご活躍されることを心より祈念しております!



 この謎列車の運行をめぐっては、既に西船junctionどっと混む様やインドネシア人鉄の方々のツイッターなどで現地速報がアップされており、近いうちにパクアン急行様のブログでも当日のまとめがアップされるかと存じますので、私もワクワクテカテカしながらレポートを待つことにしまして、とりあえず外付けHDの中で死蔵されていた2009年の初訪問時の過去画像を掘り起こしてみました。
 私が初訪問し、偶然ながらパクアン急行様も初訪問した2009年のジャカルタの電車事情は、カオスの一言に尽きるものがありました。都営・JR・メトロ東葉・東急から中古冷房車を急速に導入し、従来の非冷房エコノミと比べて数倍も高い運賃を取って急行電車・エコノミAC電車サービスを提供しつつあったものの、時期的にはちょうどインドネシアがアジア経済危機の混乱からようやく脱して急成長を始めた頃で、まだまだ車両の保守にかける金も人員も不足し、しかも編成ごとに運用が固定されがちで、したがって終日運用に固定されてしまった編成は荒廃の一途をたどって車体ドロドロ・窓割れまくり・冷房不調……という悪循環! それでも、急行電車やエコノミAC電車を利用出来るに越したことはなく、金のない客は屋根上乗車でも何でもありな非冷房エコノミで命がけの通勤をしていたのでした……。
 そんな2009年のジャカルタの電車シーンで、圧倒的に輝いて見えたのが、ジャカルタ・コタとボゴールを結ぶパクアン急行です。停車駅はジャカルタ・コタ、ジュアンダ、ガンビル、ゴンダンディアといった都心部を除けば、あとは終点のボゴールのみ!! もっとも、朝夕はチタヤムやボジョングデなど一部のベッドタウン駅に停まる列車もありましたが、とにかくゴンダンディア〜ボゴール間は、マンガライでの信号待ちや徐行を除けば基本的に飛ばしまくりで、ジャカルタ・コタ〜ボゴール間が1時間しかかからないという夢のような列車だったのです! そんなパクアン急行に103系や東急8000・8500系が入れば、もう本当に大歓喜・大感動の嵐で、とりわけデポックから南の山登り区間におけるパクアン急行のアツすぎる走りは伝説級だと信じて疑いません。
 パクアン急行様におかれましては是非、そんなパクアン急行の走りっぷりを初心として忘れず、読む者を唸らせる御論考を量産されることを夙に期待するものですが、そこで当時のパクアン急行の画像を発掘しようとしたところで……さて困った。ほとんどの列車は単に正面窓に「BOGOR」を表示するのみで、表示も何もない列車も少なくない中、ちゃんと「PAKUAN」を掲げた列車は実は少ないという……(苦笑)。目を皿のようにしてHDを漁ったところ、東急8608Fのジャカルタ・コタ側に掲げられているのを発見しましたので、未公開画像をレタッチしてみました。この黄緑+黄色帯は、8500に本当に似合っており、ただただ懐かしいの一言に尽きます……。


相鉄JR直通開始の朝 (2) E233系特急

2019-12-01 11:09:00 | JR発足後の車両


 昨日から始まった相鉄・JR直通運転のうち、相鉄側から発車する埼京線E233系の記念すべき一本目は、海老名6時28分発の大宮行き。既に相鉄側に送り込まれていたE233系がかしわ台から出庫して、海老名からいざ走り出した時間には、ちょうど日の出の頃を迎えて丹沢が最高に美しいモルゲンロートに染まり始め、埼京線E233系の相鉄直通を個人的に祝うには最高のお膳立てが揃いました。そしてカーブの奥から緑帯の編成が迫り、無我夢中で激写……! この記念すべき一本目の列車に、正面のLEDが切れにくい新造編成を充当して下さるという神対応もあって (運用担当者の方が意図されたかどうかは全く分かりませんが)、紅い丹沢をバックに、JR通勤電車史上初の「特急」(※) が駆け抜けて行くという、究極のシーンを撮ることが出来ました……!



 その約13分後に現れた二本目のE233系は、正面のLEDと一眼レフとの相性が誠に悪いタイプの編成で、表示は縦方向に切れ切れ (苦笑)。まぁ良いです。一本目が最高に上手く撮れましたので……。
 何はともあれ、このような線路配置と背景の風景の組み合わせは、埼京線にも川越線にもありません。疑いもなく、紛れもなく、相鉄の相模大塚駅そのものです。かつては厚木基地に出入りする米タンがED10に牽かれながらのんびりと入換を行い、私が小坊〜中坊だった頃には数え切れないほどチャリを飛ばして飽くことなく眺め続けた相模大塚。そして幾度となく相鉄ヲタを唸らせる撮影会が開催されてきた相模大塚……。そんな相模大塚の構内を、JRから直通してきた電車が颯爽と駆け抜けて行く時代となったのです。願わくば、このような光景を103系か205系で眺めてみたかったものですし、競演する相鉄の電車も先日引退した7000系よりも前の世代の車両であって欲しかったものですが、余り贅沢は言いますまい。
 というわけで、相鉄線内でのJR編成初撮りに大満足した後は (しかし気温は1度台で寒かった!)、これまた記念すべき海老名発川越行きで全区間乗り通すべく、海老名に向かったのでした。

(※) 国鉄時代には、阪和電鉄→南海山手線を戦時買収した阪和線で、戦後の一時期、旧型国電使用の料金不要特急が運転されていましたが、高度成長期以来の国鉄・JR通勤型車両の「特急」表示は疑いもなく、相鉄線内での特急扱いが初めてです。