昨年、論座に「戦争は希望」という小論文が掲載され話題になった。戦争は希望と捕える、行き場がなく寄り掛るところもない、若者たちの心情をこのフレーズに見ることができる。
社会的位置や職業に目的を見出せない若者たちは、目的が鮮明で、やることがはっきりしている戦争なら、身の置き場があると思ったに違いない。戦争は見事に、手段は問わず目的を鮮明ににしてくれる。それは、戦場での一方的な思いこみでしかないが、今彼らの目の前に差し出されると「希望」に満ちた内容となるのである。
戦争の有無や可否を問いかけているのではない。閉塞した現状に対峙するあり方として、戦争を捉えているのである。
「戦争が希望」、このフレーズを聞いた途端に、思い出したことが2つある。一つは、ニュース23で、若者が司会者の筑紫哲也に「人を殺して何が悪いのですか」と発言したことである 。司会者は、何も答えることができなかった。言葉に詰まっていた。
もうひとつが、マネーゲームでお金儲けをしていた村上何某であるが記者会見で「お金儲けって悪いことですか?」と、記者連中を見まわして発言したことである。その時は、誰も反論するものがいなかった。
後ほど時間が経つにつれて、筑紫哲也は反省をしながら、この少年に即答できなかった自らを悔いる発言を繰り返していた。もうすでに、10代の半ばにもなれば、人殺しの犯罪性、罪悪感は身についているはずである。私たちはそうした前提で、話を進めてきているのである。何かが現代に足りないのである。
お金儲けは、それは手段の中かその過程で生じるものとすることに、日本的美学があったはずである。「おかげさまで」とか「世話になっています」とすることで、結果的に儲けるのが前提としてあったはずである。金儲けが目的としては存在しなかった。そういう連中はあこぎな代官や商人として、勧善懲悪の対象になっている。
お金儲けが、手段ではなく目的だけになっている典型が、株などの投機である。村上何某は、社会的活動はなにも問うことがなく、投機だけで勝ち組になっている。投機の対象の会社が、何をしていようが関係ないのである。
戦争に希望を見出そうとする額に汗する若者たちは、質的に異なるものの矢張り社会的活動は問うことなく、仕事を欲しがっているのである。マネーゲームで巨万の富を蓄える連中と、同じ土壌で全く正反対の位置に置かされる。その結果、彼らの希望は戦争となるのである。