女優の樹木希林さんが亡くなった。私と同じ年である。東京生まれだそうだから何等かの形で、戦争か少なくとも戦後混乱時期を記憶はしているであろう。戦争の実体験はともかくとして、街角に立つ傷痍軍人や浮浪児の記憶などの戦争の遺物に、幼心に重いものを感じていたはずである。
俳優としても、肩の力を抜い演技で存在感を見せていた。彼女も、大橋巨泉や永六輔の1世代後ではあるが、戦争の足音を警告していた。
落語家の笑福亭鶴瓶との対談では、樹木さん「戦争は人間の世界で止めることができるはずなのに、そりゃ止めなきゃいけないですよね」
鶴瓶さん「当たり前ですやん。そんなこと・・・なんのための戦争なんですか? なんのための・・・意味わからんな、ほんまに」「国の言うことを、この歳になって信用したらあかんと思う、60過ぎてね、全部が国の言うことこれ、大丈夫かいなって思うようになるって・・・」
樹木さん「いま、法律を変えようとしているあの法律もそうでしょうけど、それも含めて、いまの政府がああいう方向に行ってしまうっていうね、これ、止めないと絶対いけないでしょうね」
鶴瓶さん「これ、へんな方向に行ってますよ。そら変えなあかん法律はいっぱいあってもね、戦争放棄っていうのはもうこれ謳い文句で、絶対そうなんですが9条はいろたらあかんと思うんですよね」
田中角栄の言葉、「戦争を知っている我々がいる間は大丈夫だが、知らない世代になった時が危ない」があるが、初の戦後生まれの首相に安倍晋三が就いたとたんに、戦前回帰の道へと走っている。
憲法九条は軍国主義国家日本という瓶の蓋であるという、「瓶の蓋理論」は周辺諸国を納得させるものであった。戦争は国家は自衛を理由に、国民には愛国心を焚き付けられ始まるのである。例えばイージスショア配備の配備などはその典型である。近隣諸国を警戒させるだけである。辺野古新基地の建設も同じである。
7月末、樹木希林さんはウクライナの映画祭の帰りに、そのまま辺野古基地建設阻止の側に加わった。映画祭からの衣装そのままであったそうである。東海テレビのドキュメンタリー番組『戦後70年 樹木希林ドキュメンタリーの旅』のためであったが、建設阻止の側に立ったものであった。彼女の肩の力を抜いた反戦活動である。
樹木希林さんの冥福を祈りたい。
俳優としても、肩の力を抜い演技で存在感を見せていた。彼女も、大橋巨泉や永六輔の1世代後ではあるが、戦争の足音を警告していた。
落語家の笑福亭鶴瓶との対談では、樹木さん「戦争は人間の世界で止めることができるはずなのに、そりゃ止めなきゃいけないですよね」
鶴瓶さん「当たり前ですやん。そんなこと・・・なんのための戦争なんですか? なんのための・・・意味わからんな、ほんまに」「国の言うことを、この歳になって信用したらあかんと思う、60過ぎてね、全部が国の言うことこれ、大丈夫かいなって思うようになるって・・・」
樹木さん「いま、法律を変えようとしているあの法律もそうでしょうけど、それも含めて、いまの政府がああいう方向に行ってしまうっていうね、これ、止めないと絶対いけないでしょうね」
鶴瓶さん「これ、へんな方向に行ってますよ。そら変えなあかん法律はいっぱいあってもね、戦争放棄っていうのはもうこれ謳い文句で、絶対そうなんですが9条はいろたらあかんと思うんですよね」
田中角栄の言葉、「戦争を知っている我々がいる間は大丈夫だが、知らない世代になった時が危ない」があるが、初の戦後生まれの首相に安倍晋三が就いたとたんに、戦前回帰の道へと走っている。
憲法九条は軍国主義国家日本という瓶の蓋であるという、「瓶の蓋理論」は周辺諸国を納得させるものであった。戦争は国家は自衛を理由に、国民には愛国心を焚き付けられ始まるのである。例えばイージスショア配備の配備などはその典型である。近隣諸国を警戒させるだけである。辺野古新基地の建設も同じである。
7月末、樹木希林さんはウクライナの映画祭の帰りに、そのまま辺野古基地建設阻止の側に加わった。映画祭からの衣装そのままであったそうである。東海テレビのドキュメンタリー番組『戦後70年 樹木希林ドキュメンタリーの旅』のためであったが、建設阻止の側に立ったものであった。彼女の肩の力を抜いた反戦活動である。
樹木希林さんの冥福を祈りたい。
私はもう駄目だと背筋がざわめき、退職した。もう駄目だと思ったのは、私でなく、私を通じて過ちを繰り返さないように働きかけてきた、背後にいる何者かだと思った。
君が代の学校への押し付けが通ってしまうことが、一部権力者の暴走の始まりであること、好き勝手やっても何も言えない国民になった合図となっていることを教職員たちがちっとも気づいていないことに、私は失望した。
何とか君が代斉唱を阻止しようとしたが、職員会議で同僚は、君が代を歌ったからといって日本が戦争をする国になる訳じゃないと言った。若い道外出身の教職員たちは君が代に好感すらもっている。
後日、校長が君が代についてもう議論はしないと宣言した。このときだ、私の背中がザワザワっとしたのは。初めての経験だった。
私は戦後の生まれだ。その私が抱くことのできる危機感を、なぜ他の人達が抱けないのか?不思議で仕方ない。