そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

30数回に及ぶ「日米開戦不可也ナリ」の打電を握り潰した大本営、そして日本は焦土と化した

2024-08-16 | 戦争

松岡洋右外務大臣はほぼ独断で、昭和15年(1940年)日独伊三国同盟を締結したが、これはヒトラーべったりのドイツ大使大島浩の、ドイツの連勝という偏った情報を受け入れた結果である。松岡洋右は直後モスクワに足を運び、昭和16年4月スターリンと日ソ中立条約を結んだ。この条約的結2か月後、ドイツはソ連に攻め入った。独ソ開戦であるが、これを予測報告していたのが、スウェーデン大使館であった。日独伊ソ4国同盟を主張していた松岡は外務大臣を辞任した。
的確なヨーロッパ戦局情報を日本に向け発していたのは、ストックフォルムの駐スウェーデン陸軍武官小野寺信であった。ヨーロッパでは日本スパイの親玉と称されたいた人物である。
小野寺信は30数回の「日米開戦不可ナリ」を日本に向けて発信している。日本が真珠湾攻撃をしたころには、ドイツは敗退を繰り返していた、日本政府の判断は初めから狂いを生じていたのである。その後も大島大使は、ドイツの戦勝を日本に打電し続けていた。
昭和20年2月のヤルタ会談の密約がドイツ降伏後の戦後処理が米ソ英でなされていた。ソ連はドイツ敗戦後3カ月の準備期間を経て、日本に参戦するという内容であった。
日本の大本営が、”同盟国”ソ連に和平の仲介を幾度も依頼していた。ヤルタ会談の密約を掌握していた小野寺は日本に向け、「モスクワを仲介するには最も不適当」と幾度も打電している。
小野寺は大本営を通さずに、英国王室と縁戚関係になるスウェーデン王室を経て、日本皇室との接触を試みている。小野寺の和平工作は、グスタフ国王まで届いてはいたが、これを知ったアメリカは分断した。
ソ連はヤルタ密約通りドイツ降伏後、ピッタリ三か月後に宣戦布告している。小野寺の警告を悉く無視した大本営は、終戦直後の8月16日に国体維持の工作をスウェーデン王室を通じてできないかと、小野寺に伺いをしている。日本の大本営は戦況の動向より、皇室の存続を優先していたのである。
こうした日本外交の狭量で独善的、何よりも客観的分析をすることもない、戦争の出口論を持たない皇国史観が、数多くの国民を死に追いやったといえる。
80年後の現在、戦略も戦術もなくアメリカの隷属国家となって、軍事に特化して予算をつぎ込み、同類の道を歩み始めているかに見える。軍事書拡大不可ナリ。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 今日8圧15日は日本が聖断... | トップ | 語り継がれていかない戦争、... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

戦争」カテゴリの最新記事