今日8月22日は、留萌沖の「三船殉難事件」の日である。昨年も書いたが、事件の風化もあるが、善良な日本人の多くが戦争が終わったと信じた8月15日から一週間後の出来事である。終戦の日の9月2日までソ連は、樺太で、千島で、満州でほぼ無差別に攻撃してきた。民間人も相当数の人が亡くなっている。
この留萌沖三船受難事件は、戦闘とは言えない純然たる民間人の樺太からの引揚者を乗せた船3艘を、国籍不明の潜水艦が執拗に攻撃した事件である。
地元の漁師たちが小さな漁船で日本兵の鉄砲を持って追い返した、情けない大国ロシアの潜水艦と思われてきた。
このことは、立憲民主党の逢坂誠二氏の質問主意書で、やっと日本政府も認めた。
2018年に【この潜水艦は長い間国籍不明とされていたが、一九九二年、拓殖大学の秦郁彦教授の調査で、ソ連国防省戦史研究所からの回答で、ソ連太平洋艦隊の潜水艦による攻撃であったことが確認された。攻撃を行った潜水艦は、ウラジオストクのソ連太平洋艦隊所属のL一二ならびにL一九であると承知している。逢坂誠二の 「留萌沖三船殉難事件」に関する質問主意書】
多くの国民は、戦争が終わって間もなく行われた、ソ連の蛮行と思っているが、戦争が終わったのは正式には9月2日の東京湾上の戦艦ミズリー号でのポツダム宣言受諾の調印式が行われた日である。
日ソ不可侵条約を無心でいたソ連とは立て前では友好関係にある国である。当然ポツダム宣言に名を連ねてはいない。日本は8月9日に宣戦布告したソ連には別に降伏文書を出さなければならないが、官僚たちは怠った。後にスイスとスウェーデンに送ったが、知らぬ存ぜぬでソ連は受けていないことになる。
因みに、ソ連の宣戦布告は、モロトフ外相が佐藤尚武大使に手渡したのであるが、佐藤は日本に打電したが、開戦は切断されていた。意図的と思われるが、そんなことはスターリンは以降に気にかけない。日本だってやっていると思っていると思っているに違いない。
日本はソ満国境を越えてきたソ連軍によって知ることになる。国体の護持を前提にポツダム宣言受諾の容を模索していた鈴木貫太郎総理は、軽く頷いただけと言われている。
日本の官僚はソ連に敗戦通告を怠ったことで、千島列島全てと樺太の南半分と歯舞色丹を失い、満州では容赦ない民間人への殺戮、暴行が行われ、多くの幼い日本人孤児を満州に残した。シベリア抑留の非人道的な行為もズルズルと行われ、日本政府なんの手も打つことがなかった。
留萌沖の三船受難事件も同じ理由で起きた。後に大鵬となる納谷幸喜少年は乗り遅れて一命を救っている。スターリンの奸計に日本政府がいいようにあしらわれた、24日間の日ソ戦争であった。
ミズーリー号での終戦調印で、最後に調印したのがソビエト連邦代表の、第35軍参謀長のクズマ・ヂェレヴィヤンコ中将である。調印式は9時から始まり、最も遅れて来たソビエトの調印は午前9時16分ぎである。モスクワとの時間差は6時間しかない。スターリンは時差を口実に終戦を9月3日にしているが、千島を南下したソビエト軍がやっと色丹島に届いたくらいで、歯舞までの時間稼ぎだったのでないか。ヂェレヴィヤンコ中将のもう一つの仕事は、広島で原子爆弾の威力を見て、スターリンに報告することであった。そのおかげで被爆したヂェレヴィヤンコ中将は、白血病で早死にしている。
しかし、目一杯めかし込んだ日本の衣装が奇妙でもある。