The Death of Portia. Etching. 248x183(sheet trimmed within platemark). Engraved inscription:Bellange Eques in incide.
Watermark 31. *
ラ・トゥールに影響を与えた画家たち
ジャック・ベランジェ(2)
調査・研究が進むにつれて解明への光が射し込んできた「ラ・トゥールの世界」だが、闇に包まれた部分はあまりに大きい。この画家の生涯について理解を深めるには、どうしても同時代の画家たちやその日常の活動について知る必要が生まれる。彼らが日々いかなる生活を過ごしていたかを通して、ラ・トゥールの人生における選択のあり方も見えてくる。前回に続き、ロレーヌの画家ベランジェの過ごした環境に入り込んでみたい。
ベランジェは当初油彩画家としてスタートしたようだが、残念ながら真作とされる作品は残っていない。一時はベランジェの真作といわれたものも、コピーの可能性が高くなっている。真作はラ・トゥールの多くの作品同様、戦火や略奪の過程で消失してしまったと思われる。こうした作品群が残っていたら、フランスの美術史も大きく塗り変えられているだろう。
アルザス・ロレーヌは自然も大変美しい地域だが、ヨーロッパでもこれほど長年にわたり繰り返し戦火に苛まれたところも少ない。第二次大戦後ようやく平和を取り戻したが、かつて友人に案内されて小さな町や村々を回って見た折、墓碑や慰霊塔、戦場遺跡などの多さに驚かされた。
銅版画家に転換したベランジェ
ベランジェは今日では銅版画家として知られている。しかし、この画家が銅板を手がけたのは晩年のわずか5年程度であり、油彩画を制作していた年数の方がはるかに長かった。ラ・トゥールは少なくもベランジェの油彩画家としての実績は熟知していただろう。ラ・トゥールの徒弟修業先として最も可能性が高い親方画家の一人なのだから、おそらく注目していたはずである。
さて、記録によると、ナンシーの人口は1628年頃でおよそ16,000人であり、それほど大きな町ではなかった。しかし、宮廷やそれに関わるさまざまな活動で賑わっていた。ロレーヌ公領の埋蔵する鉛や岩塩鉱など鉱物資源も富の源であった。
宮廷美術の保守性
それにもかかわらず、ナンシーは基本的に宮廷がすべての活動の中心であり、教会や修道院などもきわめて多かった。一時は「修道院村」 ville conventと呼ばれていたこともあった。最近、ヴァティカン宮殿でスイス傭兵の功績を称える式典が実施されたが、この17世紀初めのナンシー宮殿には350人以上の人々とロイヤル・ガードとして護衛の役に当たるスイス傭兵42人が住んでいた。宮殿はその後、ほとんど破壊され残っていないが、現在のロレーヌ歴史美術館は当時の宮殿の一部である。
こうした状況を反映して、当時のナンシーでは、画家や彫刻家にとって、宮殿、教会や修道院の仕事はかなりあった。これらの仕事は概して規模は大きいが、依頼者側が求めた主題や好みも保守的テーマで繰り返しも多かった。斬新な試みをする余地は少なかったといえよう。
消滅を免れた文書
この時期のナンシーの美術界については、興味深い特徴がある。宮殿壁画や油彩画などはほとんど滅失してしまったが、文書記録は幸い多数継承され、今日まで残っている。パリの王宮文書館ですら1737年の火災に遭って多くの文書を失っているのだが、ロレーヌ王宮の文書館は1635-61年と1670-98年のフランス軍侵攻時の略奪・火災時を別にすると、1476-1736年については、フランスの水準からすると大変良く継承されているらしい。
特に財政関連の文書が残っているので、公爵たちがベランジェを含め画家に制作依頼した金額などが明瞭に確認されている。他方、教会や修道院が支払った額などは、不明な点が多い。
宮廷画家の生活
これらの文書が明らかにした興味ある点のひとつは、ロレーヌ公の宮殿では宮廷画家は通常二人(多いときは四人)おり、一人が死亡すると、かならず補充されていたことである。そして、一人100から200フランの歳費が支払われていた。特別の仕事が委託されると、これに上積みされた。
宮廷画家はしばしば世襲あるいはそれに近い形で継承されていたようだ。時には、才能を見込まれると、宮廷に使える前に当時の美術先進国イタリアへ修業に出されている。帰国して実績が認められると、貴族の称号が授与されたり、結婚に際して祝い金なども支払われていた。以前にこのブログで触れたシモン・ヴーエなども若い頃に才能を見込まれ、王室画家になる前から年金をもらってイタリアへ修業に行っていた。 これまで厚遇されると、プッサンのようにイタリアへ戻ってしまうこともできない。
ラ・トゥールはこれまで見てきた通り、こうした幸運には恵まれていない。しかし、宮廷画家として若い頃から将来が保障されることが、芸術家として望ましいかは疑問もある。当時の宮廷画家たちがいかなる環境にあったかは次回に記すことにしよう。
* この作品に描かれた女性ポルティアは、ジュリアス・シーザーを殺害した暗殺者のひとり、ブルータスの妻であった。彼女はブルータスが自殺したことを知り、悲しみに打ちひしがれ、自らも熱く溶かした石炭を飲み自殺したと伝えられる。忠誠な妻の象徴と見られてきた。ナンシーの公爵宮殿のブルボン・カトリーヌの室を飾るために依頼されたと伝えられる。ベランジェの最晩年の作品と推定されている。(Griffiths & Hartley124)。
Reference
Antony Griffiths and Graig Hartley. Jacques Bellange c.1575-1616: Printmaker of Lorraine. London:British Museum, 1997.
Watermark 31. *
ラ・トゥールに影響を与えた画家たち
ジャック・ベランジェ(2)
調査・研究が進むにつれて解明への光が射し込んできた「ラ・トゥールの世界」だが、闇に包まれた部分はあまりに大きい。この画家の生涯について理解を深めるには、どうしても同時代の画家たちやその日常の活動について知る必要が生まれる。彼らが日々いかなる生活を過ごしていたかを通して、ラ・トゥールの人生における選択のあり方も見えてくる。前回に続き、ロレーヌの画家ベランジェの過ごした環境に入り込んでみたい。
ベランジェは当初油彩画家としてスタートしたようだが、残念ながら真作とされる作品は残っていない。一時はベランジェの真作といわれたものも、コピーの可能性が高くなっている。真作はラ・トゥールの多くの作品同様、戦火や略奪の過程で消失してしまったと思われる。こうした作品群が残っていたら、フランスの美術史も大きく塗り変えられているだろう。
アルザス・ロレーヌは自然も大変美しい地域だが、ヨーロッパでもこれほど長年にわたり繰り返し戦火に苛まれたところも少ない。第二次大戦後ようやく平和を取り戻したが、かつて友人に案内されて小さな町や村々を回って見た折、墓碑や慰霊塔、戦場遺跡などの多さに驚かされた。
銅版画家に転換したベランジェ
ベランジェは今日では銅版画家として知られている。しかし、この画家が銅板を手がけたのは晩年のわずか5年程度であり、油彩画を制作していた年数の方がはるかに長かった。ラ・トゥールは少なくもベランジェの油彩画家としての実績は熟知していただろう。ラ・トゥールの徒弟修業先として最も可能性が高い親方画家の一人なのだから、おそらく注目していたはずである。
さて、記録によると、ナンシーの人口は1628年頃でおよそ16,000人であり、それほど大きな町ではなかった。しかし、宮廷やそれに関わるさまざまな活動で賑わっていた。ロレーヌ公領の埋蔵する鉛や岩塩鉱など鉱物資源も富の源であった。
宮廷美術の保守性
それにもかかわらず、ナンシーは基本的に宮廷がすべての活動の中心であり、教会や修道院などもきわめて多かった。一時は「修道院村」 ville conventと呼ばれていたこともあった。最近、ヴァティカン宮殿でスイス傭兵の功績を称える式典が実施されたが、この17世紀初めのナンシー宮殿には350人以上の人々とロイヤル・ガードとして護衛の役に当たるスイス傭兵42人が住んでいた。宮殿はその後、ほとんど破壊され残っていないが、現在のロレーヌ歴史美術館は当時の宮殿の一部である。
こうした状況を反映して、当時のナンシーでは、画家や彫刻家にとって、宮殿、教会や修道院の仕事はかなりあった。これらの仕事は概して規模は大きいが、依頼者側が求めた主題や好みも保守的テーマで繰り返しも多かった。斬新な試みをする余地は少なかったといえよう。
消滅を免れた文書
この時期のナンシーの美術界については、興味深い特徴がある。宮殿壁画や油彩画などはほとんど滅失してしまったが、文書記録は幸い多数継承され、今日まで残っている。パリの王宮文書館ですら1737年の火災に遭って多くの文書を失っているのだが、ロレーヌ王宮の文書館は1635-61年と1670-98年のフランス軍侵攻時の略奪・火災時を別にすると、1476-1736年については、フランスの水準からすると大変良く継承されているらしい。
特に財政関連の文書が残っているので、公爵たちがベランジェを含め画家に制作依頼した金額などが明瞭に確認されている。他方、教会や修道院が支払った額などは、不明な点が多い。
宮廷画家の生活
これらの文書が明らかにした興味ある点のひとつは、ロレーヌ公の宮殿では宮廷画家は通常二人(多いときは四人)おり、一人が死亡すると、かならず補充されていたことである。そして、一人100から200フランの歳費が支払われていた。特別の仕事が委託されると、これに上積みされた。
宮廷画家はしばしば世襲あるいはそれに近い形で継承されていたようだ。時には、才能を見込まれると、宮廷に使える前に当時の美術先進国イタリアへ修業に出されている。帰国して実績が認められると、貴族の称号が授与されたり、結婚に際して祝い金なども支払われていた。以前にこのブログで触れたシモン・ヴーエなども若い頃に才能を見込まれ、王室画家になる前から年金をもらってイタリアへ修業に行っていた。 これまで厚遇されると、プッサンのようにイタリアへ戻ってしまうこともできない。
ラ・トゥールはこれまで見てきた通り、こうした幸運には恵まれていない。しかし、宮廷画家として若い頃から将来が保障されることが、芸術家として望ましいかは疑問もある。当時の宮廷画家たちがいかなる環境にあったかは次回に記すことにしよう。
* この作品に描かれた女性ポルティアは、ジュリアス・シーザーを殺害した暗殺者のひとり、ブルータスの妻であった。彼女はブルータスが自殺したことを知り、悲しみに打ちひしがれ、自らも熱く溶かした石炭を飲み自殺したと伝えられる。忠誠な妻の象徴と見られてきた。ナンシーの公爵宮殿のブルボン・カトリーヌの室を飾るために依頼されたと伝えられる。ベランジェの最晩年の作品と推定されている。(Griffiths & Hartley124)。
Reference
Antony Griffiths and Graig Hartley. Jacques Bellange c.1575-1616: Printmaker of Lorraine. London:British Museum, 1997.