The Nightwatch, 1642
Oil on canvas, 363 x 437 cm
Rijksmuseum, Amsterdam
Detail
映画「レンブラントの夜警」の監督ピーター・グリナウェイ氏のインタビューが、「日本経済新聞」2007年1月7日夕刊に掲載されていた。短い記事なので一般読者には分かりにくいが、「この絵(「夜警)には陰謀が塗り込められている」と、監督は大胆な仮説に基づく今回の新作を表現する。
確かに「夜警」(通称)は、レンブラントとその作品を多少なりとも知っている人にとっては、画家が作品に籠めた真意を推測するについて、理解しがたい謎めいた部分があることを感じさせる。しかし、この作品が圧倒的に素晴らしい傑作であり、オランダの国家的遺産ともいうべき存在であることに異論を唱える人は少ない。
レンブラントはなにを考えていたか
監督はこの作品には51の謎が含まれていると言う。それが何であるかは別として、この画家の制作意図を推定することは興味深い。1645年当時、「火縄銃手組合」から依頼され、クロフェニールスドゥーレンの大広間に、「夜警」を含む6枚の絵画が掲げられた状況が、今日ではコンピューター・グラフィックスなどで再現されている*。
それによると、レンブラント以外の画家の手になる5枚の作品は、当時流行のグループ肖像画のお定まりの構図が採用されていた。他方、レンブラントの「夜警」の構図は際立って特異であり、図抜けて迫力があった。「夜警」と比較すると、他の5枚はトランプのカードのように平板だとさえ言われてきた。
他の作品では依頼者の肖像だけが描かれているのに対して、レンブラント作品では、謎の少女を初めとして、「火縄銃手組合」の構成メンバー以外の人物が描かれている。しかも、組合員と思われる人物でも顔面部分のみ、あるいは人物が同定できない程度の鮮明度でしか描かれていない。これは依頼者との関連においても、不思議な感じを呼び起こす。描かれる人物にこれほどのウエイトの差がつけられるとすれば、当然その扱いの軽重に不満も生まれよう。他のグループ肖像画では、これほどの差異はつけられていない。この点は「トゥルプ博士の解剖学講義」、「織物商組合幹部」など、レンブラントの他の作品についてもいえることである。 「夜警」だけが際立ってドラマティックである。
当初の作品依頼者は
この作品をレンブラントに依頼するについて、1640年当時、最初に交渉に当たったのは、火縄銃手組合の側はキャプテン、ピールス・ハッセルブルフ Captain Piers Hasselburghと副官イエーン・エフレモント Lieutenant Jean Egremontであり、間に入ったブローカーは、レンブラントの画商を務めたこともあったヘンドリック・アイレンブルフ Hendrick Uylenburghであった。しかし、アイレンブルフは実際のレンブラントとの交渉はお気に入りの姪サスキアに依頼していたようだ。サスキアは当時の女性としては珍しいといわれる読み書き、算術などの能力に長けており、制作ばかりで家政や工房の経営などが不得手なレンブラントを助けてきた。
隊長ハッセルブルフと副官エフレモントは、1638年、フランスの王母マリー・ド・メディチのアムステルダム訪問に公式につき添った。彼女はフランス王室と対決の関係にあり、富裕なオランダに支援を求めていた。これは火縄銃手(当時はマスケット銃へ移行)組合にとっても重要で名誉ある仕事だった。彼らは王室から多額の資金を受け、さらに信頼という得がたいものを獲得した。それによって組合のメンバーはアムステルダム市の政治できわめて早い昇進の道をたどることができた。
「フランス派」対「イギリス派」の反目?
ハッセルブルフとエフレモントは、追放されたフランス・ユグノーの子孫だった。父親と祖父はオランダに避難の場を求めた。しかし、当然ながらフランスへの愛着もあった。他方、誠実に彼らに名誉と安全を保証したオランダへの忠誠心も強かった。こうした経緯もあって、彼らは火縄銃手組合のメンバーの間では「フランス組」として知られていたようだ。
実は、当時アムステルダムには、もうひとつの国家的訪問があった。イングランドのチャールスI世の娘、王女メアリー・スチュワートでだった。彼女は婚姻の関係でフローレンス・メディチ家につながっていた。メアリーはアムステルダムのオレンジ公ウイレム2世に輿入れすることになっていた。イングランドで王は議会と対決していた。王は来るべき市民戦争への資金を必要としていた。その目的で、娘をアムステルダムへ送り、資金調達を図ろうとした。英国王の王冠の宝石類の質入れが考えられていた。
この取引には、レンブラントの「夜警」で、最重要人物として描かれているバニング・コック Frans Banning Cocq の一族が関係していた。バニング・コックは1642年当時、アムステルダムのマスケット民兵組織6隊のひとつの隊長だった。香料や薬の貿易で財をなした富裕な商人の息子だった。バニング・コックとその取り巻きはマスケット隊の中では「イギリス派」の代表だった。
映画は、レンブラントの「夜警」は、マスケット隊組織における「フランス派」と「イギリス派」の血みどろな抗争の顛末を凝縮して描いたものとして、展開するようだ。レンブラントは誠実なハッセルブルフと快活なエフレモントと親しかったらしい。作品の画家への依頼時は、二人が当事者だった。しかし、この二人の運命はその後、驚くべき経緯へとつながる。彼ら二人は「夜警」ではどこに?
レンブラントのその後
レンブラントの「夜警」の完成後、バニング・コックはアムステルダムの市政において市長を務めるという順調な栄達への道を確保した(なぜ、ハッセルブルフではなく、バニング・コックが隊長になっているのか。)他方、レンブラントの画家生活は反転、窮迫化する一方だった。有能で画家の足りない部分を補い助けた愛妻サスキアもこの年に世を去った。なにがそこで起きたのか。
さらに、グリナウエイ監督は、レンブラントは17世紀当時、一般家庭に蝋燭が普及し始めた頃であり、自然光に新しい可能性を見出し、絵画において映画的な実験をいち早く行ったと述べている。いわば、現代の映画化を油彩画作品で実現したものだと評価している。確かに、この一枚の作品の中に登場人物をめぐる複雑な関係が光の明暗の中に、濃密に描きこまれている。こうした効果を、すべてカラバッジョの影響とする風潮も一部には感じられるが、イタリア行きを断固として断ったレンブラントは心に期したものがあったに違いない。
レンブラントのこの作品を見た同時代の人々は、それぞれにストーリーを思い浮かべつつ、画面に見入ったものと思われる。いずれにせよ、今回の映画化が、レンブラントという偉大な画家の人生、制作態度などについて、新しい切り口を導入するきっかけになることは予想される。しかしながら、グリナウエイ監督も自認するように、かなり大胆な仮説に基づいた映画化であり、今後のレンブラント像の修正にどの程度結びつくのか、興味ある点である。
* Gary Schwartz. The Rembrandt Book. New York: Abrams, 2006.p.175.