ロレーヌ公国ナンシーから主要都市への道
17世紀初めのヨーロッパ
旅の記録や資料は一切残っていない。それでも、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールはイタリアへ行ったのではないかとの議論が行われてきた。17世紀初め、ヨーロッパの画家たちにとって、イタリア、とりわけローマは文化の聖地のような存在だった。誰もがローマやフローレンスの素晴らしさを語っていた。イタリアの風が広くヨーロッパを渡っていた。レンブラントのように、はっきりとイタリアへ行く必要はないと言えた画家は少なかったのだ。
ヨーロッパ各地からの人流の交差点のひとつとして、ラ・トゥールの生まれ育ったロレーヌでもイタリア礼讃者は多かったらしい。確かに、この時代、イタリアへ行ったことのない画家の方が少ないのではないかと思うほど、イタリアは吸引力を持っていた。ナンシーから送られた郵便物は1週間くらいでローマへ配達されたらしい。ローマには、ロレーヌ出身者の大きな集まりまであったといわれる。ロレーヌ、とりわけナンシーとローマの間には絶えない人の流れがあったようだ。こうした事実を列挙した上で、ラ・トゥール研究の大家テュイリエは、ラ・トゥールがローマへ行かなかったということの方がおかしいとまで述べている(Thuillier 1992, pp26-28)。
ラ・トゥールがもしかすると出会ったかもしれない、ナンシー出身の銅版画家ジャック・カロはイタリアへの憧憬があまりに強く、再三家出してまでイタリアへ出かけている。
ラ・トゥールがどこで画家修業をしたかは別として、イタリアはロレーヌの工房などでも日常の話題だったのだろう。それだけに、イタリアの文化動向については情報がかなり流布していたともいえる。 こうして、ラ・トゥールがその生涯にイタリアへ行ったかどうかは、この画家の研究史上は大きな論点とされてきたが、意外に議論となってこなかったのが北方への旅行である。
この画家の作品を見て、直感したのはバロックの時代と言われながらも、ゴシックあるいはゲルマン的な潮流との強いつながりだった。 この点を考えながら、地図を眺めてみる。ヴィックあるいはリュネヴィル、ナンシーなどのこの画家ゆかりの地からは、フローレンス、ローマなどのイタリアの地はかなり距離もあり、アルプス越えなどの難関も控えている。
それに比較すると、北方ネーデルラントは距離の点でもパリへ行くのとさほど変わらない。今ではパリ・ナンシー間はTGV(特急列車)で1時間半の旅だが、当時馬車などによっても片道3-4日程度の旅であったと思われる。フローレンス、ローマなどへは2~3週間はかかったのかもしれない。個人の旅行者は旅商人や巡礼などの仲間に加えてもらって旅をすることも多かったようだ。
17世紀前半、レンブラントの時代はネーデルラントの黄金時代でもあった。イタリアの芸術文化の最盛期は過ぎ、新たな文化が興隆する地として北方ネーデルラント、フランドル地方が注目を集めていた。ラ・トゥールの作品に長年にわたり親しんできて、南よりも北の美術世界の方がこの画家には強い影響を与えたのではないかと思うようになった。ローマやフローレンスへ行った可能性以上に、アントヴェルペン(アントワープ)などへ行った可能性の方がはるかに高いのではないか。
Reference
Jacques Thuillier. George de La Tour. Paris: Flamarion, 1992.