時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

隊長の化粧直し

2008年01月25日 | レンブラントの部屋

 
  レンブラントの「夜警」(「市民隊フランス・バニング・コック隊長と副官ヴィレム・ファン・ライテンブルフ」)は、描かれた時からさまざまなことを経験してきた。この絵画が完成、依頼者たちに公開された時は、(状況から判断するにすぎないが)彼らの多くは画家の描き方に満足しなかったようだ。当時のオランダでは、グループ肖像画は今日の記念写真のような役割を果たしていただけに、かなりの費用を払ったにもかかわらず望んだようには描かれなかった人物は不満だったろう。少なくも依頼者の一人バニング・コック隊長とレンブラントの関係は、しっくりいってはいなかったようだ*

  レンブラントは、一種の歴史画(あるいは劇場画ともいうべきか)を試みたようで、当時の依頼者たちが抱いていた肖像画のイメージとは明らかに乖離があった。作品の評価は毀誉褒貶さまざまだったが、その後300年を超える年月の経過とともに、「夜警」の評価は次第に高まり、オランダの国民的遺産の地位にまで引き上げられてきた(結果として、歴史画に近いものとなったといえる)。

  それが脅かされるような事件も起きた。物理的に傷つけられたことがあった。1975年には刃物で、1985年には強い酸を画面にかけられて損傷した。とりわけ、1975年の事件は深刻なものだった。

切り裂かれた「夜警」
  この年の9月14日、日曜日のこと、「夜警」は一人の若者によって鋭利な刃物で傷つけられた。そうした行為に及んだ動機は明らかにされていない。とりわけ、主役たるバニング・コック隊長および副官ライテンブルフが描かれた中心部は、ダメージが大きかった。

  「夜警」が損傷したことは、政府、美術館など関係者にとどまらず、オランダ国民にとっても大きな衝撃であった。オランダ政府は事態を重視し、損傷された翌日から修復の事業にとりかかった。修理委員会が設置されるとともに、カナダから専門家が呼ばれ、大規模な修復作業が開始された。この作業の一部始終は映像を含む記録として残され、主要な部分は公開もされている**。さらに、修復作業はかなりの部分、ガラスを隔ててはいたが、美術館を訪れた観客も目のあたりにすることができるよう配慮された。こうした対応は、国民の美術、文化遺産への関心を高める教育的効果も意図したようだ。修復作業は1976年6月19日まで、ほぼ8ヶ月を要した。

  鋭利な刃物で切られた画面の損傷は、関係者の予想を超えて重大なものだった。傷の一部は以前の補修の際に付けられた下地のライニングを切り裂き、裏側まで達していた。画面に強い光を当てると、裏側に光が漏れているのがはっきり分かった。顔料の一部はそのままでは、剥がれ落ちる危険性があった。

  修復技術の点でも、大変興味あることが多かった。そのひとつ、作品表面の脱落防止、修復中の保全のために、大量の和紙が被覆のために使用されたことである。作品の表裏の修復中に、滲み出た水分なども和紙は吸収する性質があるためだった(レンブラントが和紙に大変関心を抱き、版画作品などに使用していたことは知られているが、まさか修復に使われるとは思わなかったろう。)

「修復」の理念と発見
  大変大きな作品であるだけに、額縁、木枠が取り外されて水平に床に置かれ、作業が行われた。作品の上を、修復にあたる技術者が自由に動くことができるように、作品上を平行移動する装置まで導入された。しかし、修復に使われた基本的な道具は、筆、ナイフ、鏝、アイロンなど、ほとんどがレンブラントの時代とさほど変わらない素朴なものであった。修復素材も、当時のものにできるかぎり近接したものが使われた。たとえば、17世紀当時のオランダのリネンなども使われた。

  工程で最も大変に見えたのは、リライニングという作業だった。蝋と樹脂を溶かした摂氏65-67度の液体を支持体の裏面に塗布し、蒸気アイロンでなじませる仕事である。あの大きな作品の裏側全体に手作業でアイロンがけをする、見るからに暑そうな作業だった。

  修復の最後に近い工程では、長年にわたる経年変化で汚れ、黒ずんだ画面を洗浄する作業が行われた。古くなった表面の汚れとニスを取り去り、新たなニスをかける作業である。見ていると、驚くほどの鮮やかさを取り戻して行くことが分かる。剥落した部分などについては、充填、リタッチなどの作業が施された。バニング・コック隊長の顔も当時の色艶を取り戻した。この修復作業で新たに発見されたこともあった。

  改めて化粧直しをした隊長の顔を眺めてみる。どう見ても、知性が感じられる顔ではない。時の経過で汚れていた方が良かった? 美術史家のケネス・クラークが、うわさの出所は明らかにしていないが、「彼はアムステルダムで一番愚かな男と言われていた、そしてそのように見える」 "he is said to have been the stupidest man in amsterdam and he looks it." と大変手厳しい評価を記している。やはり、画家とバニング・コックの間にはなにかあったと読むのが正しいのかもしれない。


どちらが実物に近い?
* バニング・コックは「夜警」完成後、別の画家に水彩で小さな写しを作らせ、自分の個人ノートに貼り付け、アムステルダムの自宅を訪れる重要人物に見せていたといわれる。しかし、そこには「夜警」がレンブラントによって制作されたとは記されていなかった。自分が依頼者であり、最重要な位置に描かれていることを自慢したかったのだろうが、レンブラントには好意を抱いていなかったのだろう。後に、肖像画家として地位を確立していたファン・デル・ヘルストに、改めて下に掲載する肖像画を依頼している。こちらは、確かに見た目は「夜警」よりは立派に描かれている。

Bartholomeus van der Helst
Officers of the St-Sebastian militia at Amsterdam
1653
Oil on canvas, 49 cm x 68 cm
Louvre, Paris

画面、左から3人目、脚を組んでいるのが、バニング・コック

「夜警」が完成してまもなく、バニング・コックはアムステルダムの市長となった。1655年死去するまで3回の人気を勤めた。「夜警」がレンブラントによるなんらかの告発の意味を持っていたとしても、バニング・コックの公的キャリアには影響を与えなかった。アムステルダムの支配階級の自衛の仕組みは強固だった。




Reference
**

The Rembrandt Collection. Kultur. West long branch, NJ., 2005.
(de restauratie van "DE NACHTWACHT" in het Tijksmuseum te Amsterdam, 1975-76).
Kenneth Clark, An Introduction to Rembrandt (New York:Harper and Row, 1978), p.79. 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする