St Jerome
1521 Oil on panel, 60 x 48 cm,
Museu Nacional de Arte Antiga, Lisbon
前回記した「北方への旅」との関連で、印象深い書籍がある。昨年のことになるが、旅の徒然に読んだデューラー『ネーデルラント旅日記』(前川誠郎訳、岩波書店、2007年)*は大変興味深いものだった。
デューラー(Albrecht Dűrer, 1471-1528)が、ネーデルランドへ旅をした時代は16世紀前半で、今日から遡ること500年ほど前になるが、それだけの隔たりを感じさせない。時代は16世紀なので、レンブラント、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールやジャック・カロなどの時代よりも1世紀遡るが、同じ画家たちの北方文化圏への旅として、多くの示唆を得ることができた。なによりも、驚くほど活動的で好奇心が衰えない、この偉大な画家の日常を知ることができて、興趣が尽きない。
本書は、デューラーが1520年7月から翌年1521年7月にかけて、ニュールンベルグからネーデルラント地方に旅した日記である。日記といっても、その主たる部分は毎日の出納簿覚書のような形になっているが、これが単なる覚書の域をはるかに超えて、期せずしてこの大画家の人生を集約したような作品になっている。しかも大変緻密な翻訳の労をとられた前川誠郎氏の詳細な解説、あとがきによって、一見小著ながらきわめて読み応えがある作品に仕上がっている。あまりに面白く、その後も何度か読み返すことになった。
デューラーが、その人生の絶頂期にあった49歳から50歳にかけての時期の旅である。この偉大な画家は、この時までに生涯の作品の大半を完成しており、その名声はヨーロッパに広く行き渡っていた。それはデューラーが旅の途上、各地で受ける歓迎、歓待に象徴的に示されている。
旅には画家デューラーに妻アグネスと召使スザンナが同行した。デューラーがこの旅を企画した直接的動機は、訳者の「解説」によると、1512年2月ころから、当時の神聖ローマ帝国皇帝マクシミアヌス1世のために、画家が作成した大木版画や祈祷書の周辺装飾挿絵等の制作に対して、報酬として約束された年金100グルデンの支払いが、皇帝の急逝などもあって、継続給付の見通しがつかないため、問題解決の請願のために自ら出向くことにあった。たまたま新帝カルロス5世のアーヘンでの戴冠式を機に、自らの手で解決を図ろうとしたようだ。
ちなみに、この年金というのは現代の福祉政策概念のそれではなく、皇帝、領主などが芸術家など顕著な功績のあった者に、一種の報酬として付与する個人的な約束に基づくものである。たとえば、このブログでも取り上げているラ・トゥールも真偽は不明だが、晩年フランス王から年金を付与されていた可能性を推定させる記録がある(真偽のほどは不明)。また、同時期の宮廷画家ヴーエ(Simon Vouet, 1590-1649)なども、フランス王からイタリア修業の際に同様な給付を受けていたことが知られている。そのため、プッサンのようにイタリアにとどまらることなく、パリへ戻ったという事情もあるようだ。
デューラーが約束されていた年金は、100グルデンだった。この額が当時の貨幣価値で、どの程度のものであったかは推測が難しいが、これも前川誠郎氏の「解説」によると、当時アントヴェルペンに滞在していたポルトガルの商務官の年俸が3千グルデン、ニュールンベルグの外科医の年収が80グルデン、内科医が100グルデン、市参事会付き弁護士が160~260グルデン、他方学校教師はわずかに20グルデンであった。ポルトガル商務官の額が飛びぬけて高額だが、これはポルトガルが香辛料貿易で巨富を上げ、アントヴェルペンなどの港市の財政に多大な利益をもたらしていた。こうした商務官などは市の収入役のような役割まで果たしていたらしい。ともかく、デューラーにとって、この年金は大変大きな額であったことが分かる。
さて、デューラーは、旅の最初の段階に、ブラッセルでマルガレータ女公から年金問題への支援をとりつけて安堵したこともあって、当初2ヶ月くらいの旅の日程をなんと1年近くまで延ばして滞在するという豪勢な旅に変えてしまった。行く先々で歓待されて居心地もよかったことはいうまでもない。画家は旅の終わりに収支を総計し、この旅で大きな散財をしてしまったと嘆いているが、前川誠郎氏が記されているように、それは「少し欲が深すぎる」のであり、デューラーは実際この旅を大変楽しんだのだった。
とにかく、この時代に妻ばかりか召使まで連れて、行く先々での土産代わりや販路開拓のための版画など大量の美術品を携行しての豪勢な旅は、誰もができるものではなく、大画家デューラーだからこそなしえたものだった。この旅で、デューラーは当時の貴顕諸侯をはじめとして、同業の画家など、きわめて多数の人々と交流していた。クラナッハ(1472-1553)にもこの旅で会っている。そして、アントヴェルペンを拠点として、全ネーデルランドの画家たちとの交流が展開する。
さらに本書の白眉ともいうべきことは、1521年5月17日、マルティン・ルッターが陰謀によってアイゼナッハ近郊で逮捕されたという報せを受け、長文の哀悼文を寄せていることである。この事件は、実際には5月4日に起こり、すでにルッター自身がクラナッハに身を隠す旨をあらかじめ報せていたらしい(同書訳注194)。デューラーがルッターをいかなる存在と考えていたかが、切々たる文面で記されている。この出来事に関連してのエラスムスの老獪な態度なども伺われて、きわめて興味深い。
一見すると、一日の現金出納の覚書を中心に日々の出来事が淡々と記されているような印象だが、興味深い記述が多々出てくる。とりわけ、驚くのは当時の交通費の高さであり、馬車、船賃、通関料など、富裕でなければとても支払えない額となる。とりわけ、マイン川、ライン川などの舟行などは関所だらけの観を呈していた。当時の領邦国家の実態が彷彿とする。さらに、暴風雨で航行中に遭難しそうになったり、アントヴェルペンで凱旋門といわれる屋台の制作を手伝ったり、巨鯨を見に行ったり、画家は東奔西走である。その好奇心の強さには、レンブラントと似たところを感じる。
かくして、この旅は大画家デューラーの晩年を飾り、人生を総括するような充実した旅となった。画家はニュールンベルグへ戻り、7年後に世を去った。
Source
デューラー『ネーデルラント旅日記』(前川誠郎訳、岩波書店、2007年)
Albrecht Dűrer. Schriften und Briefe (Reclam-Bibliothek Band 26 Leipzig 1993).