時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

この少女は誰?

2008年01月03日 | レンブラントの部屋


The Nightwatch, 1642
Oil on canvas, 363 x 437 cm
Rijksmuseum, Amsterdam

  

レンブラントの大作「夜警」を主題とする映画が、新年に上映されることになり、話題を呼んでいる。レンブラントはラトゥールと同じ17世紀の大画家であり、ごひいきにしてきた最たる画家のひとりだけに、脚本の概略はすでに知ってはいる。数多いレンブラントの作品の中でとりわけ「夜警」」(より正しくは、「市民隊フランス・バニング・コック隊長と副官ヴィレム・ファン・ライテンブルフ」)だけは、オランダ国外に出展されることはないとされてきたので、アムステルダム滞在の折など機会があるとかなり注意して見ていた。オランダの国民的遺産という点は別にしても、あの大きさを前にするだけで、移動展示の可能性がいかに乏しいかも直感する。

自らを貫いた画家
    レンブラントに強く惹かれるのは、栄光の頂点から零落しようとも、人生の最後まで自分を貫いた強い精神力である。それは画家が残した数多くの自画像が直裁に語っている。若く光り輝いた時代には、自信に満ちて得意然とした姿を描き、老いて貧窮のきわみに落ち込んでも飾ることなく、そのままに描いている。いかに大きな精神的打撃が画家を打ちのめそうと、あるがままに自らを描きぬいた。

  「夜警」の映画を特に見たいとは思わないのだが、怖いもの見たさの要素がまったくないわけではない(原作を上回る映画があるとは思えないが)。これまでの「夜警」の印象が多少揺れ動くことは確かだろう。レンブラントの「夜警」を見た時に、初めはその臨場感に衝撃を受けただけだったが、次第にこれはパトロンからの依頼で描いた単なるグループ肖像画ではないと感じるようになった。何か形容しがたい不気味ともいえるメッセージが、画面から見る者に伝わってくる。

謎を秘める作品
  この作品には映画や小説の種になりそうな謎めいた、不明な部分がかなり含まれている。作品に秘められた寓意やストーリーなどは、同時代人であったならば、画家の言動、依頼者との応対などを通して流布していたうわさ話を知っていたかもしれない。しかし、その後4時代の経過によって、歴史の闇に埋もれてしまい、後世の人たちにとっては断片的資料から推測するほかはなくなってしまった。

  不思議な点のいくつかは、この巨大な作品を一見しただけで気がつく。たとえば、画面のほぼ中心部に二人の少女が描かれているが、誰なのだろうか。火縄銃手の隊員たちといかなる関係があるのか。唐突に隊列出発の場面に放り込まれたようにも見える。だが、その一人は明らかに中心人物として光の中にいる。単なる通りすがりの少女ではないのだ(油彩画面ではやや左寄りに見えるが、後に述べるように原画の左側が後年大きく切り取られたので、最初はもっと中心寄りであった)。もう一人の少女はよく見ないと分からないが、その背後で顔の一部だけが見えている。大きく描かれた少女は、画家の最初の妻サスキアがモデルとの説もあるが、そうではないだろう。そして、左下隅に描かれている、サイズの合わない大きなヘルメットを被ってまさに走り出そうとしている少年の正体も分からない。

  とりわけ、画家が作品の中心にこの少女を配した真の理由が、よく分からなかった。少なくとも、依頼者の「火縄銃手組合」の隊員たちだけを集めて描くというグループ肖像画の「常識」とはきわめて異なった、緊迫したドラマ性が画面から強く伝わってくる。この少女は、作品においてきわめて重要な役割を担った人物であることが次第に観る側に分かってくる。彼女はいったい何者なのか。


  
    この作品、「夜警」と通称されているが、実は夜間のパトロールが始まったのは、まだ市民隊がなんとか存続していた、ずっと後年の1800年頃以降のことらしい。これに加えて、「夜警」の名が生まれたのは、画面を覆っていた黄色の鉛分の多いニスの暗さが、経年変化が付け加わって、さらに暗さを増してきたことに由来するようだ。この暗い画面に光を当てられて浮かび上がった中心人物と他の人物が織りなす劇的な効果は、当時のグループ肖像画の域を脱して、レンブラント独自の絶妙な世界を創り出している。

  この作品の依頼者は「火縄銃手組合」(実際にはマスケット銃)といわれる市民の安全を守ることを目的とする民兵のような一種の自衛組織であった。1630年代、火縄銃手組合の組合長は本部が置かれることになった新たな会館クロフェニールスドゥーレン(Kloveniersdoelen) の大広間に、仲間の肖像を絵画として掲げることを企画し、当時6つあった分隊ごとに、レンブラントを含むアムステルダム屈指の画家6人に制作を依頼した。

  当時、およそ200人いた火縄銃組合員の中で120人が肖像を描かれることを望み、費用負担をした。画家に依頼した際の契約書は残っていないが、幸い当時の状況を推測するに十分なかなりの文書が残っていた。後年1659年に記された重要文書では、一人平均100グルデンを支払ったことになっている。作品で自分が描かれる位置などによって、支払い額には違いがあったようだ。別の文書には、レンブラントの「夜警」の作品に合計1600グルデンが支払われたと記されている。100グルデンは当時のレンブラントの引き受けたひとりの半身の肖像画の相場だった。

  描かれる隊員たちは、あらかじめ自分がどの位置に置かれるのか大体知っていたらしい。この作品のX線像には大きな修正の跡はなく、レンブラントはほとんど完全な素描を準備し、依頼者には概略は説明していたと推測されている。制作は1638年から42年末にかけて行われた。

マリー・ド・メディシスが見ていた
  この作品を生み出すことになったと思われる重要な出来事もあった。1638年9月1日、フランス王の元摂政で亡命中であったマリー・ド・メディシスがアムステルダムを訪れ、盛大な歓待を受けた。当時の市民隊は市の城門警備と秩序の維持を任務としてきたが、17世紀にはその役割はほとんど名目化していたともいわれる。それにもかかわらず、このマリーの訪問時の警備はきわめて名誉あるものとされていた。この時、城門内部などの警備は作品に描かれている第2地区隊が当たり、マリーと市民の前で行進をして見せた。作品は、あたかも隊長バニング・コックが副官ファン・ライデンブルフに出動の指揮命令を下した瞬間を描いたようだ。

  これらの出来事を背景に、「夜警」は1642年に作品が完成した。レンブラント36歳の時であった。この画家の生涯を通してみると、この時が人生、画業のいずれにおいても絶頂の時であった。この年、最愛の妻サスキアは世を去り、画家の生活も急速に反転、下降の軌道へ向かった。単なる偶然とは考えにくい部分もある。

  いったい、なにがあったのだろうか。「夜警」についても、客観的な証明資料はないが、絶賛を得たというわけではなかった。ひとつには当時のグループ肖像画のイメージからは、きわめて逸脱していて、直ぐには受け入れがたかったのだろう。推理を生むに格好なさまざまな材料が存在することもあって、映画化するには格好なテーマであることは確かである。    

時代を先んじていた画家
  当時のグループ肖像画と比較して、レンブラントの個性が強く発揮されたがために意図が十分理解されず、描かれた側の満足度が高くなかったとの説もある。レンブラントは一人一人の肖像よりも、全体の構図や劇的効果を大事にしたこともあって、明暗の点で描かれた一部の隊員を同定するのが困難な結果にもつながった。少女のスポットライトを当てられたような鮮明な容貌と比較して、ほとんど判別しがたい人物もいる。しかし、それらの隊員の不満などを直接示すような証拠は残っていない。少なくとも、バニング・コック隊長はある程度満足しており、この作品の模写の制作を別の画家に依頼し、さらにその水彩画を自分の記念帳に貼り付けていた。確かに、隊長は場面の中央で光を浴びて衣装なども、それらしい「品格」?で描かれてはいる(この世の中、「品格」ほどあやしいものもないのだが)。

  それにしても、バニング・コック隊長や隊員などは、完成した作品を見て、中央に描かれた少女について、画家になにか言わなかったのだろうか。多くの隊員は、この少女より格段に存在感を落として描かれているのだ。映画化されるひとつの謎もここにある。画家は時代を飛び越えていた。

  「夜警」が最初に掲示された火縄銃手組合の本部が置かれた、新会館クロフェニールスドゥーレン(Kloveniersdoelen) の大広間は、当時、アムステルダム第一の名高く人気の場所であった。さまざまな機会に、多くの名士たちがここに集まった。この作品に込められた寓意を彼らがいかに話題としたか。大変興味深いところだ。

切り取られた作品
  さらに、作品が完成、展示された後にも、作品自体、さまざまな衝撃を受けてきた。この巨大な油彩画は1715年頃にアムステルダム市庁舎に、そして1885年に現在の国立美術館Rijksmuseumの前身である新設の王立美術館に移転された。この移転に際して、建築家ピエール・カイパースは、「夜警」をオランダの歴史をとどめるに最重要な場所に置くことを想定していた。しかし、原画が大きすぎて収まらないために、周囲を切り取るという、今では考えられないような荒っぽいことが行われている。とりわけ、原画の左側が大きく切り取られたために、2人の大人と一人の子供(?)の像が完全に削除されてしまった。

  さらに、驚愕する事件も起きた。1975年9月14日の日曜日、この作品)が暴漢のナイフによって大きく損傷するという事件である。損傷は大変大きく、特に中央のフランス・バニング・コック隊長の下半身と副官ヴィレム・ファン・ライテンブルフの右側部分の損傷は大きく、カンバスの裏側まで達するほどの深い傷になっていた。原画の寓意とこの犯罪的行為との間には、なにかつながりがあったのだろうか。この点も分かっていない。修復は国家的事業となり、翌日から直ちに大規模な修復事業へとつながった。その作業の過程はヴィデオに収められて、公開されている(この事業については興味ある部分もあり、後日取り上げることがあるかもしれない。)

 現在は傷ついた部分の修復も終わり、いわば仮住まいの状態である。そのため、作品と観客との距離が最初に設定されていた状況より短い形で展示されているが、2009年に完成する新国立美術館では、元通り高い位置へ戻されると予定されている。

    新年早々、長々となにを言いたいのか。一枚の絵に籠められたあまりに多くの真実と虚構。

  

References:
マリエット・ヴェステルマン著(高橋達史訳)『レンブラント』岩波書店、
2005年。pp351

Rembrant's Universe:His Art, His Life, His World by Gary Schwartz. New York: Abrams, Hardcover, Sep 2006.

http://www.wga.hu/html/r/rembran/painting/group/night_wa.html

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