ロレーヌの旅から
16-17世紀のロレーヌの魔女狩り、裁判に関心を呼び起こされ、多少なりと踏み込んでみると、さまざまなことを考えさせられる。人間の理性の有りよう、知識水準、環境条件のいずれにおいても、今の時代とは大きく異なっている。しかし、発現する形態は異なったとしても、魔女狩りは今日の世界でも十分起こりうる、あるいはどこかで起こっていることだ。
この時代に裁判に携わった裁判官や検事たちは、社会階層の上部に位置するエリート層であった。他方、魔女狩りの犠牲者となった者の多くは、どちらかといえば、社会の縁辺部にいた人たちであった。魔女狩りという出来事は、その対象からして理解するに多くの困難を伴う。その困難さは、当時において最も甚だしいが、時代を隔てて考えてみても、理解しがたい部分が多い。今日に残る魔女審問の文書は、その闇と狂気の世界を垣間見せてくれるのだが、その多くが混迷している。その実態は、魔女狩りが行われた時代の混迷と表裏をなしていた。
破綻をかろうじて防いだ仕組み
魔女狩りを生んだ時代、1570年以降、17世紀前半のロレーヌは、経済的にかなり困窮し、窮乏の淵まで追い詰められていたが、修復不可能というほどではなかった。困窮の程度は農村部で最もひどかったが、さまざまな慈善的行為などが貧しい農民の暴動などの絶望的行動をかろうじて防いでいた。とりわけ、カトリック信仰に根ざした慈善的行為は、ロレーヌの社会に深く根付いていた。長期にわたる困窮状態を存続させていたひとつの要因であった。
16世紀末までに蓄積されてきた多く問題が山積して、社会のあらゆるシステムが大きなストレスの下にきしんでいた。社会の最下層にある農民層を中心には、さまざまな破綻が発生していたが、憤りの強い感情が爆発することはかろうじて抑止されていた。
社会経済的状況の悪化と魔女裁判の増加は、時系列的に合致していたが、その関係はさほど複雑なことではなかった。悪天候による農作物の不作、家畜などに広がった悪疫などへの恐れ、怨嗟などは、しばしば個人の域にも及び、魔術、呪術などへ結びつけられた。誰がこうした災厄などを引き起こしているかは特定できないとしても、地域に隠れた敵として幻想する象徴的対象を見出した。時にコミュナルな期待を破壊した者と損傷された者のうらみは、想像を絶して深いものがあったようだ。そしてしばしば、長年の間にイメージの世界につくり出されてきた魔女という得体の知れない存在が、禍の根源と想定された。
魔女裁判が比較的多かったロレーヌが、ヨーロッパの他の地域とさほど大きく異なっていたわけではなかった。ヨーロッパ近世初期といわれる時代の特徴は、濃淡はあってもヨーロッパに広範にみられた。ロレーヌについて、適度な注意をもって見る必要もあるようだ。17世紀初め1620年代くらいまでロレーヌでは、16世紀と比較してしばらく経済状況の改善がみられたが、それが魔女狩りの急速な減少にはつながらなかった。
ロレーヌ魔女裁判の実際
魔女裁判にかけられた多くの被疑者はあまり頑強ではなかったようだが、例外的に執拗に否定する被疑者もいたようだ。ヴォージュの検事総長になったデュメニルのように、魔女審問に関わった主導的な裁判官は、被疑者の主張をなんとか言いくるめる道を考えていたようだ。問題の核心にふれることなく、巧みに別の問題を議論してはぐらかす方向が意図されていた。そして、ボーダンの言辞を引用して言っている:「魔女のようなオカルトの例では、他のよりはっきりして確かな犯罪と比較して、状況を観察する必要はない。なぜならば、この特別な犯罪の立証は非常に難しく、証拠は一般に流布している評判と疑いを立証しさえすればよい。」 (Briggs 59)。
言い換えると、「例外的犯罪」 crimen exceptumという概念では、集められたうわさのひとかたまりが、拷問、さらには処刑を行う正当化のための証明となった。そうした法律運用のごまかしは、現代の視点からは、きわめて不公正なものに思われる。当初から被疑者のすべてが悪いとする仮定に、通常依存しているからだ。デュメニルが言うような審理の上で技術的な難しさがあるからといって、魔女裁判におけるきわめて高い有罪率を認めることはできない。
ロレーヌの法制度は、魔女裁判のような明らかにある想像が生み出した犯罪行為について、論理を詰めて審理し、時に截然と死罪を宣告するほど完成していていたわけでは到底ない。言い換えると、誤審についての疑念を払拭しうるほど整然としたものではなかった。
大勢に迎合的裁判
ロレーヌの裁判官や関係者は魔女狩りを積極的に支持したわけではないが、総じて見ると大衆の動きに対応していた。以前にも記したニコラ・レミは判事で悪魔学者であり、最終的には公国の検事総長となったが、概してこのモデルに従っていた。もし、ロレーヌが他の地域よりも多数の魔女審問と処刑を実施していたとすれば、地方的な特徴を反映したものであった。審問はローカルな地域で、一種の安全弁のようなものだった。というのも犠牲となった者は、この地方で魔術を使って人をたぶらかしていたなど、ある長い期間にわたり、相当な評判を持っていた者だからだ。
ロレーヌの裁判をザールランドやラインランドあるいはトリアーなど、近隣地域の迫害の実態と比較して、一概に否定的にみなすことは正当ではない。ヨーロッパの他の地域でもそうであったように、実際に観察できることは、裁判制度を単に自分たちの利益のために操った懐疑的な者たちの仕業というよりは、彼らの個人的な利益のために行われたとしても、むしろ神のようなあるいは人間的な正義を実行していると思い込んでいる、混乱した人たちの存在が魔女審問という状況を生み出していたことだ。
フランス的制度の浸透
魔女裁判が行われたころ、ロレーヌ公国は神聖ローマ帝国の版図の一部だった。1542年ニュールンベルグの協定によって、公国に奇妙な半ば切り離された独立したようなステイタスを付与していた。このことは、表向きは神聖ローマ帝国、そしてドイツ的に見せていた。しかし、ロレーヌの人々は多くがフランス語を話し、文化、宗教、そして政治的にもフランスの方を向いていた。法制度がフランスとドイツの混合であったことは驚くべきことではない。しかし、実際にはフランス式が日常の裁判制度を支配していた。裁判所における諸手続は、まったくフランス風であった。手続き、裁判官など関係者の構成、尋問の方式、証言者と被告の対決、その他について、すべてフランスの方式が採用されていた。16世紀にフランスから必要に応じて取り入れられてきたものだった。その結果、ロレーヌの裁判制度には、一貫性に欠けるところがあり、裁判の実態にも影響を与えていた(続く)。
16-17世紀のロレーヌの魔女狩り、裁判に関心を呼び起こされ、多少なりと踏み込んでみると、さまざまなことを考えさせられる。人間の理性の有りよう、知識水準、環境条件のいずれにおいても、今の時代とは大きく異なっている。しかし、発現する形態は異なったとしても、魔女狩りは今日の世界でも十分起こりうる、あるいはどこかで起こっていることだ。
この時代に裁判に携わった裁判官や検事たちは、社会階層の上部に位置するエリート層であった。他方、魔女狩りの犠牲者となった者の多くは、どちらかといえば、社会の縁辺部にいた人たちであった。魔女狩りという出来事は、その対象からして理解するに多くの困難を伴う。その困難さは、当時において最も甚だしいが、時代を隔てて考えてみても、理解しがたい部分が多い。今日に残る魔女審問の文書は、その闇と狂気の世界を垣間見せてくれるのだが、その多くが混迷している。その実態は、魔女狩りが行われた時代の混迷と表裏をなしていた。
破綻をかろうじて防いだ仕組み
魔女狩りを生んだ時代、1570年以降、17世紀前半のロレーヌは、経済的にかなり困窮し、窮乏の淵まで追い詰められていたが、修復不可能というほどではなかった。困窮の程度は農村部で最もひどかったが、さまざまな慈善的行為などが貧しい農民の暴動などの絶望的行動をかろうじて防いでいた。とりわけ、カトリック信仰に根ざした慈善的行為は、ロレーヌの社会に深く根付いていた。長期にわたる困窮状態を存続させていたひとつの要因であった。
16世紀末までに蓄積されてきた多く問題が山積して、社会のあらゆるシステムが大きなストレスの下にきしんでいた。社会の最下層にある農民層を中心には、さまざまな破綻が発生していたが、憤りの強い感情が爆発することはかろうじて抑止されていた。
社会経済的状況の悪化と魔女裁判の増加は、時系列的に合致していたが、その関係はさほど複雑なことではなかった。悪天候による農作物の不作、家畜などに広がった悪疫などへの恐れ、怨嗟などは、しばしば個人の域にも及び、魔術、呪術などへ結びつけられた。誰がこうした災厄などを引き起こしているかは特定できないとしても、地域に隠れた敵として幻想する象徴的対象を見出した。時にコミュナルな期待を破壊した者と損傷された者のうらみは、想像を絶して深いものがあったようだ。そしてしばしば、長年の間にイメージの世界につくり出されてきた魔女という得体の知れない存在が、禍の根源と想定された。
魔女裁判が比較的多かったロレーヌが、ヨーロッパの他の地域とさほど大きく異なっていたわけではなかった。ヨーロッパ近世初期といわれる時代の特徴は、濃淡はあってもヨーロッパに広範にみられた。ロレーヌについて、適度な注意をもって見る必要もあるようだ。17世紀初め1620年代くらいまでロレーヌでは、16世紀と比較してしばらく経済状況の改善がみられたが、それが魔女狩りの急速な減少にはつながらなかった。
ロレーヌ魔女裁判の実際
魔女裁判にかけられた多くの被疑者はあまり頑強ではなかったようだが、例外的に執拗に否定する被疑者もいたようだ。ヴォージュの検事総長になったデュメニルのように、魔女審問に関わった主導的な裁判官は、被疑者の主張をなんとか言いくるめる道を考えていたようだ。問題の核心にふれることなく、巧みに別の問題を議論してはぐらかす方向が意図されていた。そして、ボーダンの言辞を引用して言っている:「魔女のようなオカルトの例では、他のよりはっきりして確かな犯罪と比較して、状況を観察する必要はない。なぜならば、この特別な犯罪の立証は非常に難しく、証拠は一般に流布している評判と疑いを立証しさえすればよい。」 (Briggs 59)。
言い換えると、「例外的犯罪」 crimen exceptumという概念では、集められたうわさのひとかたまりが、拷問、さらには処刑を行う正当化のための証明となった。そうした法律運用のごまかしは、現代の視点からは、きわめて不公正なものに思われる。当初から被疑者のすべてが悪いとする仮定に、通常依存しているからだ。デュメニルが言うような審理の上で技術的な難しさがあるからといって、魔女裁判におけるきわめて高い有罪率を認めることはできない。
ロレーヌの法制度は、魔女裁判のような明らかにある想像が生み出した犯罪行為について、論理を詰めて審理し、時に截然と死罪を宣告するほど完成していていたわけでは到底ない。言い換えると、誤審についての疑念を払拭しうるほど整然としたものではなかった。
大勢に迎合的裁判
ロレーヌの裁判官や関係者は魔女狩りを積極的に支持したわけではないが、総じて見ると大衆の動きに対応していた。以前にも記したニコラ・レミは判事で悪魔学者であり、最終的には公国の検事総長となったが、概してこのモデルに従っていた。もし、ロレーヌが他の地域よりも多数の魔女審問と処刑を実施していたとすれば、地方的な特徴を反映したものであった。審問はローカルな地域で、一種の安全弁のようなものだった。というのも犠牲となった者は、この地方で魔術を使って人をたぶらかしていたなど、ある長い期間にわたり、相当な評判を持っていた者だからだ。
ロレーヌの裁判をザールランドやラインランドあるいはトリアーなど、近隣地域の迫害の実態と比較して、一概に否定的にみなすことは正当ではない。ヨーロッパの他の地域でもそうであったように、実際に観察できることは、裁判制度を単に自分たちの利益のために操った懐疑的な者たちの仕業というよりは、彼らの個人的な利益のために行われたとしても、むしろ神のようなあるいは人間的な正義を実行していると思い込んでいる、混乱した人たちの存在が魔女審問という状況を生み出していたことだ。
フランス的制度の浸透
魔女裁判が行われたころ、ロレーヌ公国は神聖ローマ帝国の版図の一部だった。1542年ニュールンベルグの協定によって、公国に奇妙な半ば切り離された独立したようなステイタスを付与していた。このことは、表向きは神聖ローマ帝国、そしてドイツ的に見せていた。しかし、ロレーヌの人々は多くがフランス語を話し、文化、宗教、そして政治的にもフランスの方を向いていた。法制度がフランスとドイツの混合であったことは驚くべきことではない。しかし、実際にはフランス式が日常の裁判制度を支配していた。裁判所における諸手続は、まったくフランス風であった。手続き、裁判官など関係者の構成、尋問の方式、証言者と被告の対決、その他について、すべてフランスの方式が採用されていた。16世紀にフランスから必要に応じて取り入れられてきたものだった。その結果、ロレーヌの裁判制度には、一貫性に欠けるところがあり、裁判の実態にも影響を与えていた(続く)。