日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

「空海の風景」(司馬遼太郎著)を読んでいる。

2011-02-19 09:44:27 | 
文庫本で上下2冊の長編を、ゆっくりと読んでいる。

 以下、備忘録も兼ねて記す。

1200年も前の話なので、空海の時代の資料を読み解いての物語だろうけれど、「…に違いない」「…ということもあっただろう」という書き方が頻繁に出てくる。膨大な資料を調べる司馬さんにしてもそうなるのだから、1200年前は遠い。
そんな司馬さんによって書かれた歴史探訪を、数多くのファンの末席に連なって、垣間見させてもらっている、そんな気分を楽しんでいます。

空海は讃岐の身分が高くはないけれど比較的豊かな家に生まれ、勉強に勉強を重ねて、大学に入っている。この時代大学は官僚を養成するためのものであり、都に一つだけ。各地方の学校は国学といった。
身分社会だから、地方出身で貴族階級でない空海には、不利な条件下の受験であり、飛び切りであったからこそ、門戸は開かれたのでしょう。  
おお、当時も受験勉強があったとは!中央の官職に就くためには、なんとしても大学に入らないと、という親や縁者の優秀な子供に寄せる思いは、今に通じる?
で、入った大学を早々に退学して、私度僧として旅にでる。大学で教えられていたのは「儒教」であり、仏教に関心を寄せ始めていた空海にとって、大学で学ぶ意義を見出せなくなる。そのころの18歳で、儒教、道教、仏教をテーマとした「三教指帰」という戯曲を書いている、その天才ぶりを司馬さんはたたえています。退学後、放浪と経典の勉強を続け、30歳で第16回遣唐使船に乗る。
第16回の遣唐使船は、4艘で出帆するが、中国に着いたのは、空海が乗った第1船と、最澄が乗った第2船。第3船は難破して、乗組員は孤島に打ち上げられたが、第4船は行方知らず、という。各船には120名程が乗船し、船中での食べ物は、1日糒(ほしいい)1升。火を使わず、水でふやかして硬い飯粒を食べ続けて34日の航海を乗り切った、とある。
日本の造船技術は西洋より遥か遅れており、また、航海術も発達しておらず、陰陽師や占い師を乗せて、中国目指して船出した、と。

想定より南方の岸辺に打ち上げられた、空海の乗った船の乗組員は、その土地の役人から上陸許可を得るために、これまた2ヶ月ほど砂地で待機させられる。そのとき、下っ端空海の文章能力がかわれ、信用ならない蛮族とは違うことの証明に役立つ。

こんな艱難辛苦して行った遣唐使。その岸辺から都長安行きとなるのは、そのうちの23人!後の人たちは、船の修理や、帰路のための準備、という。

そして、この16回遣唐使船は、留学生として船に乗り込んだ空海らは、当地に残りますが、殆どは正月を越して2月には帰国するのです。
そういうことだったのか!という、歴史のたびに案内されている気分です。

当時の長安の街の人口は100万人という国際都市。その1%は外国人だったと。空海などの留学生たちはペルシャなどの風俗の人たちも目にしていたのだろう、と。

長安に渡った30歳の空海、溢れる天分を備えた密教を学びたい一心の空海が、学んで持ち帰って、日本にどう普及していくのか、はまだこれからだけれど、司馬さんの筆致で歴史の旅路を行く気分にさせてもらっている。

以上、途中。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする