追加しています。
ワルシャワのホテルで1泊。
これまで特に写してこなかったのですが、朝食バイキングはこんな感じです。果物は食べましたが、一貫して焼き菓子類は食べませんでした。

朝9時出発
これまではガイドさんの説明を添乗員さんの翻訳で聞いていたのですが、ワルシャワでは日本人ガイドさんでした。
流れるように(まさしく立て板に水の如く)解説してくださるので、聴く立場の私たちの気持ちも幾段がアップしたようです。
ナチスドイツの侵攻によるポーランドの建物はことごとくが壊されたけれど、ドイツ軍に占領された建物は自分たちが使うために爆撃せずに(受けずに)残っています、等の説明を受けながらワルシャワ歴史地区観光へ向かう。大戦後はソ連の影響下にあったので、そのころに作られた建物は地味で効率第一ですぐわかるという。

ショパンの像がある公園。

ショパンの心臓が奉られている聖十字協会。
ワルシャワの街並み。歩道にはショパンベンチが配置されています。ベンチについているボタンを押すとショパンの曲が流れます。
ベンチは夜来の雨粒で濡れていたので座れませんでした💦 これらのベンチは修理は頻繁に行われているらしいのですが、またすぐ故障するそうです。扱いが粗雑なのか、性能がイマイチなのか ? です。

ワルシャワといえば、もう一人の有名人、マリーキュリー夫人の生家もこの歴史地区のはずれにありました。現在は資料館となっているのですが、開館は12時からで、旅行の日程では入館をあきらめざるを得ません。建物前まで行ってきました。彼女の母親が寄宿舎だったこの建物の管理人をしていたので、キュリーはココで生まれ育ったそうです。大学もその後の研究生活もフランスなので、資料館としてはパリにもあります。ガイドさんの話では、最近はキュリー夫人と言っても、日本人添乗員から「目の見えない人ですか?」と聞かれたりして、世代ギャップを実感します、と。(ヘレンケラーと混同。時代ですね~)

時間は11時過ぎ。自由時間は1時間足らずあるもののキュリー夫人生家見学はあきらめ、ひとり参加の人と連れ立って、ワルシャワ旧市街広場の復元された建物内(第2次大戦関連の資料館になっている)を見学。4棟の建物の内部がつながっていて資料館になっています。

日本人ガイドさんからワルシャワの街案内で聞いた、『あっ、そういうこと!ね』を書き留めておかなくては。
私たち(私は)は、「ショパンもキュリー夫人もポーランド人で、、、」と思っていました。でも、ショパンの時代もキュリー夫人がこの街で暮らした時代も他国の占領下にあって、ポーランドという国は存在していなかった、ということ。そもそもショパンは若くして亡くなっているし。そうすると、あの「革命」という曲を作曲したときの思いは、、、と心を馳せたりしました。
隣接国が自分の住んでいる地域を統治しているという境遇は経験したものでないとわからないのでしょうね。幼いころに読んだマリーキュリーさんはソルボンヌに進学したけれど非常に貧しくて寒さをしのぐにも一苦労したとあったものです。
今は5年(4年?)に一度、ちょうど今の季節にワルシャワでショパンコンクールが開催され、世界中から音楽ファンが集まって街は熱気に包まれる、ということです。ショパンは後世に故郷の街に大きな役割を果たしています。
昼食はレストランで。またまた画像は1枚だけ💦 メニュー紹介の時は(好き嫌いがあるので 💦)メインディッシュに耳を澄ます癖があります。苦笑

昼食後にクラクフへ向かう。
クラクフは日本でいえば京都にあたる古都ということです。
クラクフの街は11~16世紀の終わりまでポーランドの首都でした。街のシンボルは竜で何かと竜がデザインされていたりしました。
18世紀にオーストリア領となり、いったんはクラクフ国として独立するが19世紀に再度オーストリア領となる。(オーストリア領とは、あのハプスブルク家ですね)
この街出身の著名人としては、クラクフ大学で学んだコペルニクス(1473年~1543年)がいます。
たまたま最近アニメ「チ。-地球の運動についてー」(フィクション)を観ました。コペルニクスより少し前の時代なのでしょう。15世紀の地動説が世に出ようとしている頃がテーマです。教会が社会の規範を教えている社会で、教会の意に背くことをにおわせるだけでも命を失ってしまう、なんという、、、、(拷問、生きたままの火あぶりの刑など)というシーンがたくさん出てきます。
市街広場をいくつも見てきたけれど、その場所は市場も開かれていたけれど、公開処刑も、、、と聞いていたので、あの場所が、、、と思い起こされたりして、言論の自由、民主社会の尊さをしみじみ思う、に尽きます。
クラクフには2連泊 肌着の洗濯が必須です。
食事画像2枚。

■ 旅日記がなかなか進みません。ギリシャや南イタリア、シチリア旅と違って、語られる時代が新しいこともあり、日本があの時代だったころのこの国では、、、といった想像ができるので、興味がより深くなるのかもしれません。
復習も楽し(有意義という言葉のほうが適切かな)です。
ワルシャワのホテルで1泊。
これまで特に写してこなかったのですが、朝食バイキングはこんな感じです。果物は食べましたが、一貫して焼き菓子類は食べませんでした。



朝9時出発
これまではガイドさんの説明を添乗員さんの翻訳で聞いていたのですが、ワルシャワでは日本人ガイドさんでした。
流れるように(まさしく立て板に水の如く)解説してくださるので、聴く立場の私たちの気持ちも幾段がアップしたようです。
ナチスドイツの侵攻によるポーランドの建物はことごとくが壊されたけれど、ドイツ軍に占領された建物は自分たちが使うために爆撃せずに(受けずに)残っています、等の説明を受けながらワルシャワ歴史地区観光へ向かう。大戦後はソ連の影響下にあったので、そのころに作られた建物は地味で効率第一ですぐわかるという。

ショパンの像がある公園。



ショパンの心臓が奉られている聖十字協会。



ワルシャワの街並み。歩道にはショパンベンチが配置されています。ベンチについているボタンを押すとショパンの曲が流れます。
ベンチは夜来の雨粒で濡れていたので座れませんでした💦 これらのベンチは修理は頻繁に行われているらしいのですが、またすぐ故障するそうです。扱いが粗雑なのか、性能がイマイチなのか ? です。

ワルシャワといえば、もう一人の有名人、マリーキュリー夫人の生家もこの歴史地区のはずれにありました。現在は資料館となっているのですが、開館は12時からで、旅行の日程では入館をあきらめざるを得ません。建物前まで行ってきました。彼女の母親が寄宿舎だったこの建物の管理人をしていたので、キュリーはココで生まれ育ったそうです。大学もその後の研究生活もフランスなので、資料館としてはパリにもあります。ガイドさんの話では、最近はキュリー夫人と言っても、日本人添乗員から「目の見えない人ですか?」と聞かれたりして、世代ギャップを実感します、と。(ヘレンケラーと混同。時代ですね~)

時間は11時過ぎ。自由時間は1時間足らずあるもののキュリー夫人生家見学はあきらめ、ひとり参加の人と連れ立って、ワルシャワ旧市街広場の復元された建物内(第2次大戦関連の資料館になっている)を見学。4棟の建物の内部がつながっていて資料館になっています。





日本人ガイドさんからワルシャワの街案内で聞いた、『あっ、そういうこと!ね』を書き留めておかなくては。
私たち(私は)は、「ショパンもキュリー夫人もポーランド人で、、、」と思っていました。でも、ショパンの時代もキュリー夫人がこの街で暮らした時代も他国の占領下にあって、ポーランドという国は存在していなかった、ということ。そもそもショパンは若くして亡くなっているし。そうすると、あの「革命」という曲を作曲したときの思いは、、、と心を馳せたりしました。
隣接国が自分の住んでいる地域を統治しているという境遇は経験したものでないとわからないのでしょうね。幼いころに読んだマリーキュリーさんはソルボンヌに進学したけれど非常に貧しくて寒さをしのぐにも一苦労したとあったものです。
今は5年(4年?)に一度、ちょうど今の季節にワルシャワでショパンコンクールが開催され、世界中から音楽ファンが集まって街は熱気に包まれる、ということです。ショパンは後世に故郷の街に大きな役割を果たしています。
昼食はレストランで。またまた画像は1枚だけ💦 メニュー紹介の時は(好き嫌いがあるので 💦)メインディッシュに耳を澄ます癖があります。苦笑

昼食後にクラクフへ向かう。
クラクフは日本でいえば京都にあたる古都ということです。
クラクフの街は11~16世紀の終わりまでポーランドの首都でした。街のシンボルは竜で何かと竜がデザインされていたりしました。
18世紀にオーストリア領となり、いったんはクラクフ国として独立するが19世紀に再度オーストリア領となる。(オーストリア領とは、あのハプスブルク家ですね)






この街出身の著名人としては、クラクフ大学で学んだコペルニクス(1473年~1543年)がいます。
たまたま最近アニメ「チ。-地球の運動についてー」(フィクション)を観ました。コペルニクスより少し前の時代なのでしょう。15世紀の地動説が世に出ようとしている頃がテーマです。教会が社会の規範を教えている社会で、教会の意に背くことをにおわせるだけでも命を失ってしまう、なんという、、、、(拷問、生きたままの火あぶりの刑など)というシーンがたくさん出てきます。
市街広場をいくつも見てきたけれど、その場所は市場も開かれていたけれど、公開処刑も、、、と聞いていたので、あの場所が、、、と思い起こされたりして、言論の自由、民主社会の尊さをしみじみ思う、に尽きます。
クラクフには2連泊 肌着の洗濯が必須です。
食事画像2枚。


■ 旅日記がなかなか進みません。ギリシャや南イタリア、シチリア旅と違って、語られる時代が新しいこともあり、日本があの時代だったころのこの国では、、、といった想像ができるので、興味がより深くなるのかもしれません。
復習も楽し(有意義という言葉のほうが適切かな)です。