日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

「風の果て」藤沢周平著を読んでいる。

2007-12-16 09:38:56 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
「風の果て」先々週までNHKでやっていたドラマの原作です。
藤沢作品は蝉しぐれ雨あがれたそがれ清兵衛など、映像では見ていても、活字で時代物はちょっとといったタイプだったこともあり活字本は初めて(少し前に読んだ、辻原登「夢からの手紙」は面白かった)。
今でいえば中学生にあたる年頃に、片貝道場で知りあった仲間5人の物語。
年の頃14、15の少年は、いつの時代も共通している。
そう思う。
でも、ひとは自分の生きている時代の枠に大きく制約されているのだとも、思う。
いそぐことなく江戸時代の財政難の藩体制の仕組みが語られていく。
武士であっても上士、下士に身分はきちんと別れおり、家督を継ぐのは長男だけ。家督には定まった禄高があり、分散するわけにはいかない、という筋。
次男、三男は、身分相応の婿養子の口があって初めて将来の目途がつく、という。
婿養子の口が見つからないと、ゆくゆくは「厄介叔父」という立場になって、片身小さく暮らすことになるらしい。
上村隼太は下士の次男。家督を継いだ兄に子どもが生まれると、隼太は「厄介叔父」の扱いで、食事も下女と台所で、という慣わし、これがその時代のルールだという。
そこで、厄介叔父の次男、三男は、女中と床を同じくすることはOK。ただし、「子どもが産まれても、すべて間引く」、これがしきたり、という。
生産高が低い時代に考え出した「知恵」だと、思いやるしかないのだけれど、たかだか今から150年か200年前の暮らしの基準(ルール)を目の前に書き記されると、のけぞってしまいたくなるような厳しさをおもう。
私達の先輩(先祖)はその時代を生きのびてきたのだと、そう思うと感慨深い。

次男、三男にとってどんな婿の口がかかるかが一生を決める、のだけれど、下士に上士の口があるはずもなし…、
部屋住みとも言われる、成長期の下級武士の次男三男の思い、財政難の藩の権力争い、藤沢さんが沢山の資料調査の上に書き上げられたであろう作品は、5人の若者をさもありなん、という姿で描いているものだから、読み手もごく自然で、同じ時代をさも承知しているかのように、ひとの動きに頷いてしまう。

時代の仕組みがことなり、生きていく生活のルールの制約も異なるのに、
彼らも、自分のそれぞれの夢をみている。
夢を実現させようと、邁進する隼太。婿の口がなく、厄介叔父で暮らす市之丞。

2人の会話-
「俗な夢を見るものだと思うかもしれんが、郡代は舅の夢だった。それに、そこまでいけば藩政の一角に食い込むことが出来る」
「藩政だと?」
「権力に近づいて、そこで腐るのがおぬしののぞみか」

事業経営者は歴史物でも、英雄伝を好むらしい。藤沢作品は旗を打ちたて、たなびかせる人物ではなく、戸惑う人、狭間に位置する人、彼らの心の襞を、といっても、藤沢周平氏の心の襞でもあるわけだけれど、そこを通り過ぎない。
彼の作品が映画やテレビドラマ化される、多くの人が出会うことが出来る。
幸いなことだと思う。
コメント
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