日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

本日読書会 課題図書「剣岳・点の記」新田次郎著

2007-12-07 09:52:33 | 本・映画・テレビドラマ・絵・音楽
課題図書の採択、無作為の感がないでもない(笑い)。
今回は「剣岳・点の記」。
昭和52年出版の初版本で読んでいる。
新田次郎が、小説を書くにあたって64歳で剣岳登頂を含めて、現地取材をなさっている。
測量官柴崎芳太郎チームが明治40年(?)の剣岳に初登頂にいたるまでを記してある。
小説ではあるけれど、記録文学ってこんなものなのかと思うほど、物語としての遊びを排し、山頂を目指しての詳細を記すことに丁寧。
地図の作成が軍務として軍人の仕事だったものが、ようやく文官も加わるようになったという時代。
この頃に、いわゆる獲物を求めたり、服務のためではなく「ただ山に登る」事を目的とした、「山岳会」がようやく産声を上げ始めた時代でもあったことが書かれています。
柴崎芳太郎と彼の周りに配された長次郎をはじめとしてた山登りの達人達、山岳会の小島烏水の取り上げ方が、そぎ落とされた表現で語られるているところに、作者の品格を感じました。その息子藤原正彦氏のベストセラー「国家の品格」は読んでいないけれど、この本に「品格」を思うのだから不思議です。

さて、丁寧に記されている記述、各所の地名を読みながら、
(…山に関心がない人には、退屈かな、とも思ったけれど)
実は、私にとっては、幾分故郷の匂いを感じながらの読書でした。
富山県は18歳まで暮らしたところです。
高校1年の夏休みに、実は剣岳登山を経験しました。
この本が書かれる前、新田次郎が剣岳に取材登山する前の、昭和40年の夏です。

私が登ったときも、天候がよくはありませんでした。
その地域では進学校ということもあり、女生徒が少ない学校でした。
で、夏休みの企画として、女生徒をメーンとした(といっても男子もOKです)「剣岳登山」がありました。
引率は、化学の木田先生、体育の花岡先生、ほかもいらしたかもしれませんが、覚えているのはその二人です。
女子生徒に山行きの誘い声をかけたのは、故郷の山に、男子生徒はこれからも登る機会があるかもしれないけれど、女性にとってはそれが少ないだろうから、…そんな配慮からだと、耳にしていました。
今、古いアルバムを引っ張り出して見ました。
剣沢小屋(?)の前で、記念写真風に揃って写っている頭数は40名を超えています。
すごーい大所帯だったことがわかります。
その全員が雨具姿。今のような装備ではありません。アノラックやポンチョ姿です。
覚えています。靴は運動用のズック靴でした。そりゃ、何人かは登山靴の人もいたでしょう。
でも私はズック靴。そしてそれは特別のことではなく、周りの仲間も同様でした。
この件では、困った記憶があります。
雨に降られて(行程の半分は雨だったような記憶)、靴下もビチョビチョ。翌日の出発時まで、古新聞をズックに詰めて、ストーブの熱にもあぶり、湿り気をとろうと必死でした。
それでも靴は乾きません。
履き替えの靴下はあっても濡れた靴では、すぐ湿って冷たくなります。
誰が思いついたのか・・・、多分こんなこと考えるのは私(笑い)。
靴下の上からビニール袋を履いて足首を輪ゴムで止めました。
いずれは湿ってくるだろうけれど、濡れ鼠になった昨日よりも、少しでも快適さを保ちたかったのです。
加えて覚えているのは、ガスがかかっていて、周りは見えないのに、目の前に直立しているかの岸壁を鎖につかまって、登っていったこと。
カニノヨコバイで、これは、一足ひとあし、岩の節目に足をかけながら横に進んでいくのですが、背の低い人が、次の足場に「足が届かなーい」と困り声を上げたとき、花岡先生が、さっと岩場のその場に駆けつけ、彼女の足の置き場を、一歩いっぽ、指示したこと。
こんなに怖い場所でも、熟練者には余裕で加勢できるんだと、感心した覚えがあります。花岡先生がピッケルを足下にして、スキーのように雪渓を滑って見せたことも覚えています。夏の雪渓は、去年の雪がそのまま凍って残っている箇所です。雨も降っています。氷は雨に濡れて、表面ツルツルで、今にも足を奪われてしまいそうで、怖い思いで、渡りきったものです。
こんな具合で、女性が多い、そのチームは剣岳を目指したのですが、途中で2回ほど、待機組みが出たように覚えています。
で、待機組みに入らずに、頂上までたどり着いたものは10名ほど。
眺望はまったくなく、新田次郎氏の取材時にもあった、小さな祠があったことを覚えています。
2泊3日の山行き。
暗くて狭い、お風呂に入ったこと、硫黄の匂いが強かったことも記憶にあります。
思えば、生徒は16歳、引率の先生は30代、40代だったでしょう。

16歳の私が50代後半になっても、あの2泊3日の山行きを思い返すことができます。
当時は、その経験がこんな風に思い返すことになるとは、考えもしない少女です。
今思うと、山行きを呼びかけ、力を貸してくださった、先生方に感謝です。
先生達は70代、80代、すでに鬼籍かもしれません。
こんな風に、ささやかな一つ一つの局面で、ゆずり葉のごとく、次の世代に力を貸して、育てていくのだと、つくづく思います。
さて、私は、だれかに力を貸したことはあっただろうか。
そんなことは、たずねても答えが帰ってくるものではありません。
ただ、これまでに受けた力添えに感謝し、今日からも誰かの力になれたら、と、欲張りだから、そんな風にまだ思っています(笑い)。









コメント (3)
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