中川を渡るに、4つの渡し? があった。
文政の頃=1820年代
[葛飾・柴又の文化と歴史を後世に]の講話を聞いた。
興味を抱いて、帝釈天へ通じる大昔の道を調べた。
江戸から帝釈天へ向かうルートは主に、2つあったことは既に述べた。
立石帝釈道を調べていると、いくつもの枝道になり、これが中川に突き当たる。
そして途切れる。そこには現在、橋が架かっている。
そこで考えられのが”渡し”である。
かまくら郷土資料館にて、下肥舟
当時の”渡し舟”はこのようなものだったのであろうか?
下流から①奥戸の渡し(本奥戸橋=奥戸街道)、②奥戸の渡し(スポーツセンターの隣の橋)
③諏訪の渡し「青砥側の福森稲荷神社内の道標~高砂1丁目(昔諏訪町と呼んだ)」
④曲金の渡し(高砂橋)であった。
【葛飾今昔街歩き・葛飾観光課発行、 東京府南葛飾郡全図地図、
HP/帝釈道~帝釈天に産湯を浸かりに行こう(2013,10,20)、
葛飾・柴又地域、文化的景観調査報告書を参照した】
昔の渡し跡を調べ、現在の佇まいを見る
①奥戸の渡し(本奥戸橋)
本奥戸橋西詰の角に地蔵尊の石像があります。
本奥戸橋東詰めの景観
②奥戸の渡し(スポーツセンターの隣)
現在の奥戸橋、真っ直ぐ行くと葛飾区役所
葛飾区総合スポーツセンター
③諏訪の渡し(青砥~高砂1丁目・以前は諏訪町の名前・・・で)
福森稲荷神社境内の道標
高砂1丁目(旧諏訪町)八幡神社
④曲金の渡し(高砂橋)
高砂斜張橋
青戸2丁めから望む
高砂橋から新中川(s38年完成)と旧諏訪町方面を望む
かすかに高砂諏訪橋が見える
古地図(金町・高砂・鎌倉・柴又・奥戸)
佐倉道、岩槻街道,帝釈道(立石道・国分道)、
水路では、小岩用水、西井堀、東井堀は明確に分かります。
渡しのあった場所を訪ねて
現在の旧中川を見ます右岸左岸にコンクリートのカミソリ堤防が
構築されて、堤防下からは流域をも望むことができない。
当時を推察すれば、簡単に川岸まで降りることができ、そこに渡し舟が置いてあったのであろう。
付近を訪ねて、古老に聞いてみますと
「おじいさんが渡しがあったということを聞いたことがあります…と」言うくらいで
確固たる証言は得られませんでした。
無理もない、200年も前のことです。
次回は、”曲金の渡し”から高砂町を通り、帝釈天の参道に至ります。