公園の中を通り抜け田安門へ
竹橋から入りて100M行った右、横断歩道橋。
看板の「北の丸公園」を入ると大きな武道館や、科学技術館見えてきます。
科学技術館、
日本武道館
日本武道館前の大イチョウ
枡形と東に向かって渡櫓門が構えています
門を抜けて九段坂方面へ
田安門から、三番町方面を見る。
紅さんが 桜の素晴らしい風景を撮影しUP致しました。
思い出、特に紅さんに教えられた桜絶景ポイント。
コメ欄は閉めています。
公園の中を通り抜け田安門へ
竹橋から入りて100M行った右、横断歩道橋。
看板の「北の丸公園」を入ると大きな武道館や、科学技術館見えてきます。
科学技術館、
日本武道館
日本武道館前の大イチョウ
枡形と東に向かって渡櫓門が構えています
門を抜けて九段坂方面へ
田安門から、三番町方面を見る。
紅さんが 桜の素晴らしい風景を撮影しUP致しました。
思い出、特に紅さんに教えられた桜絶景ポイント。
コメ欄は閉めています。
58年前の思い出の地をそぞろ歩く
元望郷の丘には、
危険地域として入る事は出来ませんでした。
残念無念!
日本武道館付近案内図
北の丸公園内から見た田安門
「弥生慰霊堂」の入り口
https://ameblo.jp/mako1110/entry-12272332607.html
弥生慰霊堂の登る坂道
「弥生慰霊堂」
大きな大きな銀杏の木
「弥生慰霊堂」を正面から見る
元望郷の丘(立ち入り禁止)
柳行李1つをチッキで「飯田橋駅止まり」送り出し、駅で受け取り、
ここ北の丸の地、近衛連隊兵舎跡に歩を進めた。
近衛連隊兵舎跡に学ぶ人達は、高校終えたばかりの若人、平均年齢20歳前後の美少年で、
東京は、勿論初めての地方出身者でした。
朝6時から、夜は10時の消灯、日夜訓練と、勉学に勤しんでいた。
夕方5~6時になると、ふと故郷を思い浮かべるのであろうか、ソット一人で自由時間を抜けて
望郷の丘へ足を運んだ。
ここ望郷の丘には、方角を示す小さな丸い石碑が立っていた。
東西南北の矢印に都道府県、そしてめぼしい山々が取り囲むように・・・・書かれてた。
誰が定めたか知れないが、この地を望郷の丘と呼ばれた。
濠下を眺めれば、千代田堀、清水濠と続き千代田区役所の建物が聳えていた
目線をやや高くすると、霞んだ富士山、北を眺めれば秩父連山、
上州三山が微かに夕日の空になびくように遠くに見えた。
どちらかも言葉を発することなく「あなたの故郷は・・・・」と顔を見合わせて、語るでもなく
お互いに、自分の故郷方角に頭を垂れるのでした。
目から涙がとめどなく流れてしばらくは、故郷の方を向いたままでした。
そして挨拶をするでもなく、二人は立ち去った。
こんな光景が望郷の丘の前で、誰言うとなく日々夕方になると繰り返された。
そんなこんなの生活に明け暮れ3月ヶ月もすると、見違えるような人間に成長した。
半年目の帰省の時には、親から「人間が引き締まって、逞しくなったなナァ・・・・~」
何処の息子かと言われるほどに変っていた。
心身ともに1人前の人間となり、中野学舎に移動し2ヶ月(併せて12ヶ月)の学業を終えて
第一線の都内へと巣立って行った。
およそ60年前の若き頃の思い出です。
此の地を歩くと、沸々と思い出がよみがえり、その時に浸かる。
ここ「望郷の丘」には、高台のため危険で入る事が出来ず、
遠くから眺めるだけに終わった。残念!!
近衛連隊兵舎を記すものは何一つなかった。
石碑が残るのみ、科学技術館、日本武道館、気象庁測候所(アメダス)等々の建物が
北の丸公園に建っている。
そして広大な公園の中に樹木が鬱蒼と茂り、
都民の憩いの場となっている。
近衛連隊兵舎が有ったことを示す看板。
「弥生慰霊堂」から田安門を見る
コメ欄は閉めています