58年前の思い出の地をそぞろ歩く
元望郷の丘には、
危険地域として入る事は出来ませんでした。
残念無念!


日本武道館付近案内図

北の丸公園内から見た田安門

「弥生慰霊堂」の入り口
https://ameblo.jp/mako1110/entry-12272332607.html 

弥生慰霊堂の登る坂道

「弥生慰霊堂」

大きな大きな銀杏の木


「弥生慰霊堂」を正面から見る

元望郷の丘(立ち入り禁止)
柳行李1つをチッキで「飯田橋駅止まり」送り出し、駅で受け取り、
ここ北の丸の地、近衛連隊兵舎跡に歩を進めた。

近衛連隊兵舎跡に学ぶ人達は、高校終えたばかりの若人、平均年齢20歳前後の美少年で、
東京は、勿論初めての地方出身者でした。
朝6時から、夜は10時の消灯、日夜訓練と、勉学に勤しんでいた。
夕方5~6時になると、ふと故郷を思い浮かべるのであろうか、ソット一人で自由時間を抜けて
望郷の丘へ足を運んだ。

ここ望郷の丘には、方角を示す小さな丸い石碑が立っていた。
東西南北の矢印に都道府県、そしてめぼしい山々が取り囲むように・・・・書かれてた。
誰が定めたか知れないが、この地を望郷の丘と呼ばれた。
濠下を眺めれば、千代田堀、清水濠と続き千代田区役所の建物が聳えていた
目線をやや高くすると、霞んだ富士山、北を眺めれば秩父連山、
上州三山が微かに夕日の空になびくように遠くに見えた。

どちらかも言葉を発することなく「あなたの故郷は・・・・」と顔を見合わせて、語るでもなく
お互いに、自分の故郷方角に頭を垂れるのでした。

目から涙がとめどなく流れてしばらくは、故郷の方を向いたままでした。
そして挨拶をするでもなく、二人は立ち去った。
こんな光景が望郷の丘の前で、誰言うとなく日々夕方になると繰り返された。

そんなこんなの生活に明け暮れ3月ヶ月もすると、見違えるような人間に成長した。
半年目の帰省の時には、親から「人間が引き締まって、逞しくなったなナァ・・・・~」
何処の息子かと言われるほどに変っていた。

心身ともに1人前の人間となり、中野学舎に移動し2ヶ月(併せて12ヶ月)の学業を終えて
第一線の都内へと巣立って行った。

およそ60年前の若き頃の思い出です。
此の地を歩くと、沸々と思い出がよみがえり、その時に浸かる。

武道館方向から見た丘 日本武道館
ここ「望郷の丘」には、高台のため危険で入る事が出来ず、
遠くから眺めるだけに終わった。残念!!
近衛連隊兵舎を記すものは何一つなかった。
石碑が残るのみ、科学技術館、日本武道館、気象庁測候所(アメダス)等々の建物が
北の丸公園に建っている。
そして広大な公園の中に樹木が鬱蒼と茂り、
都民の憩いの場となっている。

近衛連隊兵舎が有ったことを示す看板。

「弥生慰霊堂」から田安門を見る
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