秩父困民党事件(明治17年)は何故起きたか
農民の生活とその背景
事件や事故が発生すると、必ず起きた動機、要因を検証します。
これ等が解明されればその事件や事故の全体像が浮かび上がってきます。
この事件は、地元秩父はおろか、日本をも揺るがすような大きな事件でした。
そこには地域的特殊要因が、あるいは時代を取り巻く何かの社会背景が有ったであろう、そのものを解き明かそうとしました。
下記の書物などを参考にしながら紐解いてみました。
※ 筆者が幼少のころ母親や祖母から聞いた断片的な話。
①椋神社を出た困民軍は、わが家の川向うの道路を筵旗や竹槍を持って勇ましく駆け抜けていった。
②久長に通じる清泉寺坂で警察官が殉職されたこと、➂金剛院の墓地にひっそりある暴徒の墓、
④当時学校ではあの子は暴徒の家(困民軍)の子供などと断片的な話
など囲炉裏端で聴きました。
参考図書 ・歴史紀行・秩父事件 中沢市郎
・劇画・秩父事件 森哲郎
・秩父困民軍人との戦い 戸井昌造
・秩父事件を歩く戸井昌造
・ヒキノbloger
1、秩父の民衆ともう一つの日本
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困民党が武装ほう起した椋神社
当時此処に吉田小学校が有りました。
この秩父事件は
ちっぽけな山村に起きた
日本を揺るがす大きな事件であった。
極貧にあってなお生きる権利を訴え自由を叫び死を掛けて戦った。
秩父下吉田村・椋神社に、風布村、日野沢村などから山村で謀議した通り困民軍は幟、
筵旗や竹槍などを持って集結した。その数3千余名。
そんな名もない農民たちの悲劇の事件である。
2、藩閥専制支配による天皇国家
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明治17年ときの政府は藩閥専制支配による天皇国家をめざし
一方では、民主主義運動の出発となった。
『自由民権運動』が板垣退助引き入る自由党によって活発に展開されていた。
「板垣死すとも自由は死せず」
秩父盆地にも自由民権の風
明治17年大井憲太郎が秩父に遊説に来た。大井は関東自由党の領袖であり自由党の指導者であった。その資料はないが、大井はきっと農民にとって自由民権とは何かを語りかけたに違いない。圧制政治からの自由である。
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大井憲太郎
3、松方デフレ下の流離無産の農民
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--そして
日本の全土は政府のデフレ政策と増税
深刻な経済不況の時代にあった。
農民の困窮度は、とてもとても酷どかった。
松方デフレで農民たちは「流離無産の民」として鍬を質に入れ、田んぼや畑を借金のために取り上げられ、
ひたすら納税に苦しみ、その果ては身代限り処分を受けるだけとなるのでした。
土地は有力者のものになっていく。地主制度の幕開けであった。
松方デフレ下の小作率は40%へと上昇に、多くの農民が土地を失い無一文になって行った。
※ 流離無産とは
働いても働いても生活は苦しい。租税や高利貸に巻き上げられ
生糸の相場が急落。農民は生活に困窮し村を離れざるを得なくなる。
4、秩父地方は傾斜地の桑畑・養蚕地帯
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生糸の国際相場が急落
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秩父地方の桑畑
農地を高利貸に取り上げられたり、
税金の滞納で競売されるなど強制執行を受けた農家は
全国で36万7千戸に達するという惨状を呈していた。
秩父は養蚕地帯でしたが生糸の国際相場の急落で、致命的打撃を受け、
金の工面で高利貸へ向かうのでした。
5、働けど暮らし楽にならざる
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馬 車
困窮にあえぎ高利貸の横暴に打ちひしがれた農民たちには、
もはや生きるすべが微塵もなかった――
折もおり生糸の国際相場の急激な暴落は
養蚕地帯の秩父農民は入るお金の道をふさがれた。
6、秩父盆地は山に囲まれて
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現在の秩父市、明治は大宮郷と言った
秩父――――
埼玉県西部の関東山岳地帯の
中央をなす盆地の一体である。
面積百平方キロメートル
盆地を縫って赤平川・荒川が関東平野に流れ
盆地の中央を荒川に沿って大宮郷(秩父市)がある。
秩父盆地は地質が悪く、農耕に適さず
古来養蚕絹織物が盛んでした。
昔の女性は、人生に栄華あることを知らなかった。ぼろ麻の着物を身に付け
他人の為に絹を織った。化粧もせず、顔色は飢えて薄白く、唯々働くのみで一生苦労をし通しでした。養蚕が忙しい時は、頭の毛に櫛をも入れず「働けど働けど我が暮らし楽にならざるなり・・」「田舎繁盛記」明治8年刊と記してある。
7、農民を絞り上げる高利貸
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当時の農民にとって
金融機関と言えば、高利貸より他に無かった。
加えて、秩父の高利貸はとりわけ悪質であった。
高利貸の仕組みは、
十円の借金に対して、あらかじめ20%の2円を差し引き期限の3ヶ月が来ると、利息だけを返しに行く。
すると居留守を使って受け取らず、その金を使うように企み借用書を書き替え
そのたびごとに20%の天引きをした。
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