「水神の碑」
石井善兵衛・治水家
はじめに
1892 明治時代の治水家。武蔵葛飾郡上小岩村(東京都)の人。
(4/22再々調査の結果、石井善兵衛氏の生家たどり着く・後日解説)
農業用水にとぼしい小岩に江戸川から水をひくことを計画。
明治11年上小岩村,中小岩村など4ヵ村への用水路を完成させた。
明治25年10月12日死去。 ...
明治時代、上小岩村の石井善兵衛を中心に運動を進めた結果、明治十一年(1878)に取水口が完成し、 善兵衛樋と命名された。
大正十三年(1924)、地元の人達が、その功労者の氏名並びに石井善兵衛の功績を称えるために作ったのが水神碑である。
親水滝が滔々と流れるは、善兵衛樋の現代版であることを物語っていた。
善兵衛樋は、高く組み上げた岩と岩との間から、江戸川の水が勢いよく噴き出し、流れ落ちる仕組みになっていた。
(石井善兵衛の心意気に感動し、再々実査を試み
ある程度の概略が筆者にぼんやりと把握できました、その実録の内容を記します)
佐倉道の案内石標
善兵衛樋と水神碑
江戸時代この辺一帯は、水元小合から用水路にて導水されていましたが
水量が少なく、干天になると水不足に悩まされた。
目の前に江戸川が流れているのにと・・・・悔しがった。
明治10年代に旱魃が発生して収穫が皆無となった。
そこで石井善兵衛を中心として江戸川から掘割を作り、水を引きて付近一帯の
田畑に給水、この工事が5月に完成した。
水神の碑には善兵衛樋と、尽力された40名の名前が記されています
現在は、石垣積みの親水公園となって”善兵衛樋”を彷彿とさせ、水辺の遊び場になっています。
「善兵衛樋」は、高く組み上げた岩と岩との間から、
江戸川の水が勢いよく噴き出し、流れ落ちる仕組みになっていて、まるで滝のようです。
滝前に2人掛けのベンチが2脚あり、これに腰を掛けしばし物思いに耽った。
岩場から流れ落ちるよ水の量
江戸の昔よ干上がる田圃 (縄)
その背後、見上げるような土手の向こうには、
江戸川からの取水口と流れがそのまま残っています。
石井善兵衛は、なぜ!?どうして!?
ここ旱魃の地へ水を流すことが出来ないのか、身震いしたであろう。
*参考・補足
大正13年江戸川大改修工事
大きく変貌していて当時の原形とは大分違った土手です。
OPEN
「石井善兵衛の項」no1~no5まで続く