最後の瞽女(盲目の旅芸人)
映画のご紹介です。
「最後のごぜ」が残したもの
映画監督・瀧澤正治
NHKラジオ深夜便 「明日への言葉から」
1、瞽女、小林はる
新潟県三条市生れ。105才まで生きた方です。
生まれて3ヶ月で白内障から、視力が無くなった視覚障害者となる。
小林はるさんの瞽女歌は、実際にあった方から聞くと背筋がぞくっとくるくらい
胸に突き刺さるような歌声であったという。人に対しては丁寧で優しく
思いやりがあり、非常に慈しみの強い方であったと言います。
ハルさんの家は庄屋で、
何不自由なく暮らしていましたが、母親が、一人で
生きていくための日常の生活から、礼儀作法を厳しくしつけた。ご飯の食べ方、躾け、着物の着方、
畳み方、荷造くりなど厳しく教えた。それは盲目でも独り
立ち出来るように、我が子に対する強い愛情からでした。
5歳の時、親と別れて親方の処に修行に出る。自分の娘のように可愛がって旅に出るがそこは所詮他人、
厳しい修行であった。学校に行ってないものが何も分かる訳がなく、
下からの積み上げであった。「いい人と歩けば祭り、悪い人と歩けば修行」
「難儀することが修行、苦は楽の種」といって教えられた。
2,アッツ~、布団があった・・・。
真新しい手触りの、私だけの布団。
敷布も枕も、そして寝巻きも用意されていて、私は本当にほっとした。一瞬だった。
雨が降る日も、風が吹く日も、このあたたかい布団で眠れる。
その夜、私はその真新しい布団に包まれて、朝までグッスリと眠った。
(七十三歳で引退して、初めて老人ホーム施設に入ったとき)
昭和53年頃、瞽女の伝承者として、無形文化財に指定される。
三味線を片手に村々を巡り、民謡やはやり唄、義太夫などを聞かせた旅芸人、
「最後の瞽女(ごぜ)小林はる」と呼ばれていた。
3、瀧澤正治監督から
滝澤監督
ハルさんのお母さんがハルさんに教える「人を恨んでは駄目、人を区別しては駄目、うらやまし
がったら駄目」と親かとも1つ1つ教え込んでいった。
目の見えない我が子を諭すように教えを守り続けた。けなげに生きる瞽女としての
はるさんに厳しい教えが待っていた。
母親のしつけと、小林ハルさんの人間性を真正面に出したかった。
ハルさんの手
4、 私が、瞽女(ゴゼ)に、何故心を惹かれたか
私(縄文人)は、幼少期2回ほど瞽女を見聞きし三味の音を聞いた。
芸が終わると農家ですから御礼にお米を渡した。
そして実家は道路脇のの取っ付きの位置していたため、何かと行商人が立ち寄り、
背中に背負った荷物は重く、我が家預けてまた翌日引き取りに来た。
瞽女さんも荷物を置いて、翌朝我が家から仕事が始まった。
openです
随分ぐーたらをしていまして m(_ _)m
流石に今日の記事は私のお尻を叩いてくれました。
105歳ですか・・・顔や手の皺に苦労が偲ばれます。
心に突き刺さる歌声です。
私は、早期退職後1年だけ請われて盲学校に出ました。
図書館で、東洋医学の専門書の登録の仕事と、体育の授業もやりました。
全盲の先生方や、生徒との交流は、それまでの価値観が180度変わってしまうような衝撃的な1年でした。
目の不自由な方は音や味にに敏感です。
図書室でCoffeeをいれて待っていると、次々と空き時間の先生が来られていろんな話を聞きました。
目が見える私達よりもずっと世間も広く何でも見通しでした。
健常者と全盲の2人で担任をされていましたが、健常者の先生の車で、全盲の先生の道案内で家庭訪問の話を聞いて嘘のように思っていましたが・・・
水頭症で全盲の生徒の道案内(手を引かれて)郵便局へ行った時などにはその話を実感しました。
良い経験をさせていただきました。
お早うございます。
≫良い経験をさせていただきました。
で結んでおられた。こんなうれしいことはありません。
その後音沙汰がなく、斜面の崩れに「頑張っておられる…」そう思っていました。
zousouからコメしようとしましたが、未だ開通に居たていません。
「ごぜ}に、イの一番に、駆け付けてサンキョウ…です。
NHKラジオ深夜便・布団の中で聴いていると1対1で対話しているような感覚、ウン~良し、この記事をレポートしてみよう、思いが詰まった。
幼少期、ゴゼさんとの対面していたことも大きかったです。
≫全盲の先生方や、生徒との交流は、それまでの価値観が180度変わってしまうような衝撃的な1年でした。
この辺を読み進み、盲目・闇を思った時、
ピアノ 盲目 辻井伸之氏のことも頭に浮かび、価値観が全く変わる、わかる様な気がしました。
私自身も年寄で感覚がズレていますが、新たなものを見たような気が致し、心に強烈な釘を一本撃ち込まれたような気がしました。
今こうして書き進んでいますがゴゼは、昭和中ごろ今想うと福祉という言葉が盛んに聞かれるようになったころ、国で福祉事業として面倒を見る時代が変わりました。
障碍者を社会のドン底に・・・・・時代が変わったのでした。
、
旅回り芸「三河万歳」・・・幼い日の朧な記憶があります。
・越後瞽女 三味の音幽か 吹雪の夜
瞽女のことは小説の中でしか知りませんでした。
ですからその方たちと遇ったことはありませんでした。
ハルさんの生い立ちをこちらで知り、随分ご苦労されたことだろうと推測するよりほかにありませんでした。
そんな生い立ちを重ねられたのに、「人に対しては丁寧で優しく思いやりがあり、非常に慈しみの強い」人であったということは驚愕に値します。
そういうことでしたら、その映画を8年前の美少女コンテストの優勝者が演ずるというのも違和感なく得心できるように思います。
ゴゼの歌を聞いたこと、見たことが有ります。
と言うことは、釈迦にとどまっている時間が縄文人が若干長い!!
ハイその後は福祉が発達・発展して。
・ ゴゼさんは勘で覚えて三味の音 (縄)
、
≫、「人に対しては丁寧で優しく思いやりがあり、非常に慈しみの強い」人であったということは驚愕に値します。
芽が見えないと言うことは何時も感情が研ぎ澄まされて・・・・。
≫8年前の美少女コンテストの優勝者が演ずるという
そうでしたか、全く知らぬ存ぜぬ初耳です。
有難うございました。
、
>盲目という過酷な障害を背負わされながら、 母の教えを一途に守り、その運命を恨まず、
人の幸せを妬まず、真面目に生きた人間物語。
もし目の前の出来事であれば、多分、聞くも涙、の連続だと思います。
ゴゼと言う旅芸人は昭和の中ごろまでであろうか!?
それ以後は、国の福祉政策、障碍者を国のお金でなんとかしようという機運で今は全く見慣れなくなりました。
人の心を劈くような、ゴゼさんの奏でる三味線と自身から語るように歌うゴゼ歌は独特の感情が入っているのでしょう。
、
小説で読んだことがあります。
縄文人さんのお母様は優しかったんですね。
私の子供の頃 行書人方が よく休んでお弁当を食べていきました。
お弁当はご本人持参
お茶屋さんや 越中富山の薬屋さん 炬燵で温まるだけですが・・・
映画が一般公開なら 観て見たいです。
≫お弁当はご本人持参
お茶屋さんや 越中富山の薬屋さん 炬燵で温まるだけですが・
いいですねっぇ~・・・。、越中富山の薬売り。
人と人とのふれあい
紙風船を貰って喜んだものです。
実母散、ケロリン、神薬etc