そりゃおかしいぜ第三章

北海道根室台地、乳牛の獣医師として、この国の食料の在り方、自然保護、日本の政治、世界政治を問う

黒い雨やっと原爆症と認めるが、75年はあまりにも長い

2020-07-31 | 官僚

先輩獣医の奥さんが広島出身であった。三次という島根に近いところであったが、学徒動員で広島市郊外の、工場に駆り出されていた。当時は原爆の事をピカと言っていたが、ピカには会わなかったが、黒い雨にはあっている。
とても明るい母さんでしたが、50歳を過ぎたころ白血病を発病した。母さんの説明は良くは解らないけれど、かなり悪性だったということである。突如として、全身に粟粒のような丸い結節が全身の皮下に表れて、痛くて眠れない。それを聞いて、ピカのせいでないかと問うたところ、原爆症には認定されないといっておられた。母さんは北海道のへき地から東京の病院へ通う日々が続いた。
入退院を繰り返し母さんは70前に亡くなった。生前、母さんは「原爆症の認定を受けても病気がよくなるわけでもないし」と言っていたことが忘れられない。
日本が繰り返す薬害の原点がここにある。ABCC(原爆傷害調査委員会)は終戦直後は、7日で放射能はなくなるといっていた。そこでそれ以降広島に援助に来た人たちは、原爆症の対象から外していた。ABCCの主張には何の根拠もなかった。
薬害も同じである。この薬品は無害である、副作用もこうであるという、一旦公的機関、ある意味での権力が許可したものは、現場で起きていることに優先される。医薬品を例にするなら、開発者もしくは販売製造業者の利益を擁護する形となる。法律が擁護する、司法判断が被害者側に立つには時間がかかる。本ブログでの取り上げた5年前のサリドマイドの記事のアクセスが絶えない。
何度も何度も見てきた、被害者の苦悩が繰り返される。一昨日原爆投下から、75年経ってようやく黒い雨に打たれた人たちの、原爆症認定が行われた。もうどれだけの人が亡くなられたことであることか。世界中どこでもある事であるが、日本はこれが最も酷い形だ現れる。黒い雨はその象徴であるが、75年はあまりにも長すぎる。

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2 コメント

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義父の事 (和久希世)
2020-08-01 15:47:48
私の(亡)夫の父は昭和36年に67歳で亡くなられたのだそうです。
夫の兄が徴用で長崎の爆心地で被曝・即死されたのですが、
義父は原爆投下の翌日長崎の爆心地を訪れて、
義兄を探して爆心地を歩き回られたのだそうです。

原爆投下の翌日ですから、
大量の放射能を身に受けられたことと思われますが、
亡くなる頃は未だ、原爆症だったのではないかとの疑いを持つこともない状態だったらしいです。

癌だったそうですが・・・・・
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和久さんへ (そりゃないよ獣医さん)
2020-08-02 10:52:38
まだ我々の世代には戦争の痕跡がありますが、次世代にはこれらが消えていくのかと思うと、淋しいより不安が先立ちます。
私の右足は短く曲がっています。多分東京空で1歳半の私は母の背中でほとんど三日間過ごしたためと思われます。私の人生最初の記憶は、2歳で尾道で見た真昼の真っ赤な太陽です。
尾道の山の中に疎開していたのですが、ピカでやられて死んでいく人たちの家の目を、鼻を抑えながら通っていた記憶は鮮明に残っています。
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