時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ラ・トゥールを追いかけて(38)

2005年09月21日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

画家ラ・トゥールの世界:苦難の時代を迎えるロレーヌ(1)  

  リュネヴィルに移ってからのラトゥールの画家としての生活は、貴族の家柄を継承する妻の生家がある地ということもあって、きわめて充実したものであったといえる。画家の天賦の才は、時代の求めるものをしっかりと受け止め、人々の心を打つ作品へと結実していった。画家という職業生活の上でも1626年には3年間の約束で、シャルル・ロワネを徒弟として受け入れるまでになっている。しかし、その背後でロレーヌの平和で牧歌的、豊かな地というイメージを、根底から揺るがすような激動の予兆が忍びよっていた。

動乱・悪疫流行の時代へ
  1620年代後半頃から、リュネヴィルが位置するロレーヌ地域は、軍隊が平穏な町や村々を破壊・蹂躙し、悪疫が流行する困難な時期へと入っていった。ラトゥールの重要な研究家の一人であるテュイリエは、現代の中東レバノンやユーゴスラヴィアなどの状況に比すべき惨憺たる事態であったとしている (p98)。
  事実、戦火の燃え盛る戦場と化したロレーヌの凄惨な光景を迫真力をもって描いたカロの銅版画***などから、その有様をうかがうことができる。ラトゥールの作品を理解するためには、この画家が生涯の多くを過ごしたロレーヌが経験した時代の実態を正しく知ることが、どうしても不可欠である。それなしに、ラトゥールの作品の持つ内面的深さ、それと(記録文書上は)対立するかにみえる画家の私生活における、時に強欲、粗暴ともいえる行動などを正しく評価することはできない。  
  ここでは、テュイリエ*やサルモン**の研究を参考にして、その輪郭を記してみたい。

ロレーヌの不幸の始まり 
  悪疫流行の問題は別として、ロレーヌが血で血を洗うような凄惨な戦場となるにいたった原因については、当時の為政者の性格と彼らが選択した方向、宗教的背景などが深くかかわっていた。 
  ロレーヌの不幸な時代は、この地域を長らく統治してきたアンリII世が1624年7月に死去したことから始まる。この時からロレーヌの未来は次第に不安に包まれる。 
  アンリII世には王子がなく、二人の王女ニコルとクロードが正統な公位の継承者として残された。しかし、激しい後継争いが起きた。
  とりわけ、アンリII世の甥にあたるシャルル・ド・ヴォウドモンは、功名心が強い若者で、感情の振幅が大きいことに加えて、大変な策謀家でもあった。

宮廷政治の悲劇 
  アンリII世は優柔不断な人物であったようで、後継者の選択をためらっていたため、宮廷はいずれにつくかをめぐって分裂状況にあった。シャルルはしつようにアンリII世に迫り、王女ニコルとの結婚を認めさせた。
  シャルルIV世がロレーヌを統治することになると、宮廷世界には次々と悲劇が生まれる。アンリII世の没後、シャルル公が政治の前面へ出るようになり、ニコルとの結婚に反対したアンリII世の取り巻きを次々と迫害した。中には魔女との係わり合いを理由に、火刑に処せられたものもいた。 
  シャルルは政略結婚としての常だが、ニコルを愛していなかったので、女性を王位後継者とさせない法律を突如制定した。

シャルルの選択がもたらしたもの 
  1625年になると、シャルルIV世はニコル公妃の公位継承の正統性に挑戦し、それに反対する者を抹消するためもあって、新たな魔女裁判を策動し、アンリII世の司祭を死刑にしてしまう。 さらに、シャルルは政治面では神聖ローマ帝国側と結び、フランス側のルイXIII世に対抗する動きを強めた。
  フランス側につくか、ロレーヌ側につくかで、ロレーヌの宮廷人は厳しい選択を迫られた。彼らの選択結果で、運命を左右された市民の心情が不安に満ちていたことはいうまでもない。 
  さらに、シャルルIV世は1627年末からスペインのフェリペIV世から資金支援を受け、ルイXIII世の連合側であるスエーデンと対立関係に入る。かくして、フランスに対抗するロレーヌの政治的立場は明らかなものとなる。これはシャルルIV世の大きなギャンブルであった。 
  他方、フランス国王ルイXIII世は子供がなく、病弱であるといわれてきた。しかし、実際には1643年まで生き、二人の子供も生まれた。1630年から著名なリシリューを宰相として重用するようになる。

フランス国王の危機感
  シャルルIV世と神聖ローマ帝国との連帯は、フランス王ルイXIII世にとって、きわめて危険なものに思われた。そのため、ロレーヌ公領を自らの手中にする行動に移る。
  1630年春、フランス軍はヴィックとモイェンヴィクを占領する動きに出る。1632年1月3日には、占領したヴィックにルイXIII世自らが乗り込んできた。シャルルIV世は、フランス軍の大軍を前に抵抗をあきらめ、同年6月ヴィック協定という名の下での服従、フランスへの忠誠を迫られる。この協定でロレーヌの住民は、フランス王への忠誠を誓わされた。 
  しかし、この協定の3日前、ルイXIII世が予想していなかったことだが、王弟ガストン・ドレアンはシャルルIV世の妹であるマルグリットと結婚していた。結果として、ロレーヌ公はフランス王の義弟となるという政治的策略であった。これは、シャルルIV世にとっては、生き残るため最後の藁の一本ともいえる選択であった。ロレーヌの王女とフランス国王の家系を結ぶための政略結婚であり、ロレーヌ公をフランス王の義弟とする策略であった。しかし、結果として事態はさらに混迷の度を深めることになってしまう。

フランスの支配下へ 
  シャルルのとったこの政略結婚の道は、ロレーヌが最後にすがる藁の一本のようなものであった。しかし、事態は一段と混迷の度を深めていく。スエーデン軍がロレーヌを攻める恐れも生まれたが、実際にはフランス軍が進駐してきた。1633年8月、ルイ13世自らがナンシーへ入城した。(カロの「戦争の惨禍」はこの年に出版されている。)  
  シャルルはナンシーをあきらめ、ルイXIII世は王妃を伴い、ナンシーを占領する。34年11月にはリュネヴィルもフランス軍が占領し、すべてのリュネヴィル市民がルイVIII世に忠誠を近い、ラトゥールも市の名士とともに、忠誠宣誓書に署名している。

  シャルルIV世は政治的立場を失い、1634年1月に退位し、弟であるニコラ・フランソワーズにロレーヌ公の地位を譲った。しかし、亡命先のブザンソンなどでは依然としてロレーヌ公を名乗り、さまざまな策略を謀っていた。シャルルの側に立つロレーヌ人もかなりいた。

  シャルルIV世は表向きはフランスに忠誠を保つが、裏では反対するという二重のスタンスを保とうとした。宗教面ではロレーヌでは信者の多かったカプチン派は、プロテスタントの味方であるリシリューに反対の立場をとっていた。しばしば、反乱の動きもあったが、そのつど力で排除されていた。

複雑なロレーヌ人の心情 
  ロレーヌは大国の間に挟まれるという地理的位置もあって、複雑な感情を醸成してきた。ロレーヌの住人は、ロレーヌ公に忠誠を誓いながら、二つの悪でもどちらか程度が良い方を選ぶということで、フランスの支配を一般には受け入れていた。しかし、個々人の置かれた社会階級上の立場などもあって、内実は複雑きわまりないものであった。公爵領の中立性は、こうした悲しい選択の上に保たれていたといえる。
  ロレーヌの人々は、政治的選択ばかりでなく、日常の生活においても、いやおうなしに現実的な対応を迫られていた。ラトゥールに関する歴史的文書などから推察される画家の利己的な対応も、こうした環境に生きなければならない人間の行動としてみると、なるほどと思うことが多々ある。 
  当時のヨーロッパ政治の世界で大国の狭間に位置したロレーヌは、地政学上も決定的な紛争の舞台となるという窮地にしばしば追い込まれてきた。フランスにつかなければ、スエーデンや神聖ローマの軍隊の蹂躙するところになったのである。シャルルIV世の軍隊は、神聖ローマ帝国軍と連携していたが、スエーデン軍などは強欲・残忍で知られ、その下で苦悩する人々の反乱も多発した。 かくして、ながらく戦火を免れてきたロレーヌであったが、戦争の惨禍が次第に拡大してきた。 
  戦火を交えるたびに美しいロレーヌの市や町、村々は、略奪、殺戮を繰り返す残忍な軍隊の蹂躙する場となった。人々が大きな不安を抱き、外国の軍隊などについてのうわさなど、少しの変化にも恐れおののき、心のよりどころをを神や呪術などに求めるという風土が形成されていた。ロレーヌの真に苦難の時代はこの後であった。

References
*Jacques Thuillier, Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997 (expanded edition)

**ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』国立西洋美術館、2005年

***Jacques Callot, Attack of a Fort, Black chalk and bistre wash, British Museum, London.

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする