ロレーヌ苦難の時代とラトゥール
Jacques Callot (1592-1635), Autoportrait, dit « Le petit portrait », gravure, Nancy, Musée des Beaux-Arts, L.184. ジャック・カロ自画像
想像を絶するロレーヌの戦火と惨状
1631-34年に、フランスと神聖ローマ帝国との戦いが始まり、戦火はロレーヌにも波及してきた。1632年には、フランス王ルイ13世がヴィック・シュル・セイユを通過することがあり、ロレーヌ公シャルル4世にヴェルダン条約を課した。そして、フランス王への忠誠を求めた。ロレーヌ公、貴族などは、忠誠誓約書に署名を求められた。画家ラ・トゥールも署名に加わっている。
戦火が絶えなくなったロレーヌの町々では、住民の数より駐留する兵隊の数の方がが多いという状況も珍しくなかった。こうした兵隊には、欲求不満の捌け口の意味もあって絶えず略奪する城や町が与えられた。
すさまじい略奪
ひとつの例としてテュイリエが挙げているレモンヴィリエRemonvillierの場合は典型的ともいえる。当時、この町にはおよそ500から600人の農民が住んでいた。ワイマール公Duke of Weimarは、この町を略奪の対象として自らの軍隊に与えた。兵隊たちは、暴虐のかぎりを尽くし、男と年かさの女を全部殺し、若い女を暴行の対象とした。そして、最後にはまだ城内に子供がいるこの町に火をつけてしまった。
また、ロレーヌの商業的中心のひとつであったサン・ニコラ・デュポール Saint-Nicholas-du-Portについてみると、1635年11月4日、ハンガリーとポーランド軍が略奪を行った。翌日はフランス軍が襲い、ワイマール軍がその後をまた襲撃するという惨憺たる有様だった。略奪の果てに、なにも奪うものがないことを知ったワイマール軍は、この町を有名にしていたバシリカ教会を11月11日に破壊、焼き尽くしてしまった。
略奪に脅える住民
ロレーヌの住民は外国の軍隊の侵略に絶えずおびえていた。そればかりではない。戦費を調達するために、支配者たちは過酷な租税を課した。教会といえども略奪の対象から免れなかった。特にプロテスタントのスエーデン軍には、ロレーヌの住民はただ恐怖するばかりだった。略奪のかぎりを尽くした軍は、退去するに際してしばしば町に火をつけた。住民は殺されるか、行方のない放浪の巷に放り出された。
戦場と化したリュネヴィル
ロレーヌにおける戦火は次第に激しさを見せ、1638年9月10日には、フランス軍がリュネヴィルで略奪を行った。ラトゥールとその家族は、総督サンバド・ヴィダモンから警告を受けて、町から離れていたものと思われる。しかし、彼の工房や教会、修道院などに残されていた作品は、ほとんど破壊されたことは想像に難くない。 画家の力量からすれば、数百点はあったかもしれない作品が、今日ではわずかに40点程度しか真作と確認されていないのは、ロレーヌの惨禍がもたらした結果であることはほぼ間違いない。
ナンシーの陥落
とりわけ、ロレーヌの中心であるナンシーがフランス軍によって陥落したことは、当時のヨーロッパ全域に大きな衝撃を与えた。堅い防備で知られたナンシーが簡単に攻略されるとは考えられなかった。歴史的経緯からも、フランスはロレーヌを敵国とは考えていなかったが、ロレーヌ公の行動、周辺国の軍隊などとの関係から、強い対応に出ることもあった。そして、ことあるごとにフランス王への忠誠を求めた。
後年、画家カロは、ナンシー陥落の記録とルイXIII世の偉業を記すための作品の制作を求められたが、郷土における殺戮の実態を自らの手で描くことを堅く拒んだ(カロは、ロレーヌの他の地域については、惨状を描いた銅版画を多数残している*)。
疫病の流行
ロレーヌの悲劇は、戦火ばかりでなかった。軍隊の進入とともに悪疫がもたらされた。1630年、メッツ、モイェンベック、ヴィックなどは「ハンガリー病」と呼ばれる疫病(おそらくチフスの一種)に襲われた。当時の不衛生な状況が生みだしたと考えらえる。
ラトゥールの住んでいたリュネヴィルは、当初、悪疫からは免れていたが、ロレーヌ公と家族は1630年に城下から逃れて他に居住の場を移していた。1631年の夏はとりわけ悪疫の伝染がひどく、6月から10月末まで流行した。そのため、リュネヴィルの町は外部から完全に遮断された。1636年4月にも悪疫が再度流行した。感染した住民のうち、およそ160人は助かったが、80人近くが死亡したと伝えられている。
4月頃からリュネヴィルにはペストが流行し、5月26日には受け入れたばかりの徒弟ナルドワイヤンの命が奪われている。 荒廃したロレーヌこうした時期には飢饉ともいうべき深刻な食糧不足も発生した。働く農民も減少した。自分や家族で食べるものを調達する以外に道はなかった。ロレーヌでは人肉まで食した記録が残っている。
リュネヴィルに平和は戻るか
フランス軍の略奪によって、リュネヴィルの町は荒廃しきった。しかし、戦火が遠ざかると、どこからか住民は町に戻ってきた。避難していたところは不明だが、ラトゥール一家もどこからか戻ってきていた。1636年には甥の一人フランソワ・ナルドワイヤンを3年7ヶ月の期間について、徒弟として受け入れている。戦乱の場にもやや平静な状態が戻ってきたのだろう。
戦火が絶えなかったこの時期には、ロレーヌは経済的にも不振をきわめており、ラトゥールなどリュネヴィルの資産家たちは余っていた所有地の活用などを図って、対応していたらしい。
悲惨なのはこうした手段を持たない住民たちであった。彼らは文字通り恐怖と悲嘆が覆う暗闇の中にかろうじて生きていた。貧窮と苦難のきわみを経験したロレーヌにつかの間の平穏が戻ってくるには、まだ時間が必要だった。
Reference
ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』国立西洋美術館、2005年
Jacques Thuillier, Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997, expanded edition
*Jacques Callot. The Misery and Suffering of War (known as Les Grandes Miseres de la Guerre), 1633, Etching, Cabinet des estanpes, Bibliotheque nationale, Paris.Thuillier 101.