つかの間の平穏
戦火と悪疫に苛まれたロレーヌにつかの間の平穏が戻ってきたのは、1630年代末になってからのことであった。それより少し前、1636年にラ・トゥールによって書かれた、唯一、現存する優雅な筆跡の手紙が残されている。ロレーヌを取り囲む状況は依然として過酷なものであったが、そうした生活の中で、人々はさまざまに生きる道を求めて苦難な日々を過ごしていた。
前回記したように、この1636年2月26日には、甥の一人フランソワ・ナルドワイヤンを3年7ヶ月の期間について、住み込みの徒弟として受け入れている。リュネヴィルで画家としての職業生活を継続できる基盤がなんとか確保できる見通しがついたのだろう。しかし、不幸なことにリュネヴィルでのペスト流行によって、5月26日にこのナルトワイヤンは命を失っている。 わずか3ヶ月後のことである。ラ・トゥールは世の無常を痛感したに違いない。
名士となった画家
この年はラ・トゥールの家族にとっても悲喜こもごも、多難な時であった。3月23日にはラ・トゥールに末子マリーが誕生し、洗礼を受けている。この時の洗礼代父はフランス国王の代理人である、リュネヴィルの総督サンバド・ヴィダモンであった。ラ・トゥールはフランス王に忠誠を誓っているが、彼の隣人の中には公然とロレーヌ公の側に組していた者もいた。政治にかかわるロレーヌ人の精神世界は複雑であった(この点は、別に記すことにする。)
他方、8月にはヴィック=シュル=セイユで、ラ・トゥールの弟フランソワ・ド・ラ・トゥールが死亡している(画家の兄弟姉妹7人の中で唯一死亡の記録が残っている)。
1638年には、フランス軍がリュネヴィルで大規模な戦闘、略奪を行った。この時、ラトゥール夫妻はおそらく生き残っていた子供をつれてナンシーに一時的に避難していたと思われる。
このような身辺の大激動の中でも、ラ・トゥールがリュネヴィルの名士として確固たる地位を占めていたことは、いくつかの記録の集積からうかがえる。そのひとつは、ラ・トゥール夫妻が依頼された洗礼代父母の数がきわめて多いことである。 代父母を依頼した人々は、土地の名士となったラ・トゥールの名声にあやかろうとしたのだろう。
ラ・トゥールは、1624、1625、1626、1627、1628、1630、1636年、1639年にはリュネヴィルで、さらに1639年にはナンシーで3回も代父をつとめている。
とりわけ、1939年の記録で特に注目されているのは、12月22日の洗礼記録にラトゥールが「国王付き画家」という肩書きが付されていることである。これは、ルイ13世の勅許がないと名乗れない称号であり、ラ・トゥールが国王に忠誠を誓い、この肩書きを授与されていたと思われる。
パリにも行ったラ・トゥール
戦火を避けて1630年代末にラ・トゥールがナンシーにいたことは確認できるが、同じ時期に短期ながらもパリにも行っていたと思われる証拠も発見されている。 それは次のような事実である。1639年5月17日付けで、国王によるラトゥール宛の支払いの命令書が残っている。これは、ラトゥールに対して、国王陛下の仕事にかかわるために、画家がナンシーからパリへの旅行について、1000リーヴルの支払いを命じた内容である。この額には、6週間の滞在と復路の費用も含まれている。
この当時としては莫大な金額には、今は失われてしまった作品(「ランタンのある聖セバスティアヌス」)の支払い分も含まれているのかは分からない。美術史家の探索の的となったこの作品は、「完璧な趣味のよさであったために、主は居室の壁からほかの絵をすべて外させ、その絵のみを残した」といわれている(18世紀中頃ドン・カルメによる美術史家の間でよく知られることになった有名な記述)。
ルーヴル宮にもアトリエを持っていた画家
さらに興味ある記録として、1640年8月25日付けの徒弟契約書の中に「パティス・ド・カラン、ルーヴル宮のギャルリーに居住する国王付き画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥール殿の代理人」なる人物の記載が残っている。当時、画家は47歳になっていた。彼はパリで自分が信頼できる人物(カランはナンシーで1632-33年に公営質屋の使用人として働いていた)を雇っていただけでなく、自身がルーヴル宮の部屋を使用するという特権を得ていたことを示している。
1641年には、財務卿クロード・ビュリオンの死後、1641年1月19日からパリのプラトリエール通りにあった彼の邸宅で財産目録の作成が行われたが、その中に1638-39年頃に制作されたとみられる絵画についての次の記述がある:「ペテロの否認を表した夜の情景の絵、ラ・トゥールによって描かれた。木枠と艶出しされた金の額縁つき。およそ横4ピ、縦3ピエ(100x142cm)」。ラ・トゥールのパリでの活動を裏付けるとともに、彼の作品を求める人々が増えてきたことを類推させる。
「自らの作品」についての自信
1641年2月24日、ラ・トゥールはクレティアン・ド・ノジャン(彼は1626年にラ・トゥールの娘クリスティーヌの洗礼代父をつとめた)の未亡人に対して、訴訟を起こしている。その内容は、1637-38年頃、ラ・トゥールはノジャンに「自分の制作である聖マグダラのマリアの絵」をおよそ300フランで売却したが、1638年のノジャンの死までに支払いが完済されていなかったことにかかわっている。 この事実は、興味深い内容を含んでいる。すなわち、当時の「マグダラのマリア」のイメージについての人気、ラ・トゥールの評判、そして作品の相場の高さである。
同時に、重要なことはラ・トゥール自身が、工房制作やその制作品に基づく模作、贋作と比して、この作品を「自分の作品」だと認めている事実である。そして、ラ・トゥールは世俗の世界においても、自らの能力とその結果である作品について、後世の研究者たちから強欲、執拗と思われるほどに自己主張し、その対価を要求、確保することを怠らなかった。
こうした行動を画家個人の生来の性格とする研究家もいる。しかし、これまでのラ・トゥールの人生を形作ってきた厳しい風土を考えるならば、多分にロレーヌという地域が経験した激動が影響していると見るべきであろう。強靭な身体と精神がなければ、20歳まで生きることすらできなかった時代であった。
Reference
ディミトリ・サルモン「ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:その生涯の略伝」『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』国立西洋美術館、2005年
Jacques Thuillier, Georges de La Tour, Flammarion, 1992, 1997 (expanded edition