時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

創られる巨匠:ターナー(2)

2006年09月03日 | 絵のある部屋


  視点を変えると、ターナーという巨匠のイメージはかなり変わってくる。この画家については、生前からかなり積極的にそのイメージをある鋳型に入れ、定型化することがなされてきた。ターナーのイメージづくりに大変貢献した人物として、ジョン・ラスキンがいたことはよく知られている。ラスキンは自らターナーの助言者(メンター)、父親代わり、そして批評家役をもって任じていた。ラスキンはターナーを生前から一貫して賞賛し続けた。ラスキンは、ターナーが国民的大画家として名を上げ、浪漫な作風で目を楽しませ、作品が国家的財産となることを望んでいた。

  しかし、イメージづくりの過程でラスキンはターナーの別の側面をあえて無視していた。ラスキン はターナーの天才性を見抜いていたが、それがどこからくるものかは分かっていなかったと評論家のA.A.ジルは言う。

ラスキンの功罪
  前回記したように、ターナーには暗い印象を与える絵や官能的な作品が存在することは知っていたが、ラスキンはこれらをあえて無視して評価しなかった。そして、これまで浸透してきたターナーのイメージは、おおかたこのラスキンの鋳型に鋳込まれたものだった。とはいっても、ターナーという巨匠を記憶に残すために、ラスキンが果たした大きな役割も十分認めなければならない。

  しかし、ラスキンがターナーを評価したあまりにその実力がなかなか認められなかった同時代の画家もいた。ターナーはわずか27歳の時、王立美術院の正会員に推挙されたが、一歳年下のカンスタブルが正会員に選ばれたのは、26年後、画家が53歳の時であった。(ちなみに今年6月1日から8月28日までテート・ブリテンで、著名な6フィート・カンバス six-foot canvasを集めたカンスタブル特別展が開催されていた。これについても、いつか記してみたい。)

時は移ろう
  しかし、ジルが指摘するように、ターナーについてはこうして創られ世に広まったイメージとは別の側面があったようだ。ジルによると、ターナーの画風にはイギリスのもうひとつの伝統でもある、ラディカリズム、非国教主義、不調和、神秘主義的側面などが深く関わっていた。それは前回に記したターナーの労働者階級という出自にもよるのだろう。

  ターナーの作品はあまりに多く、油彩画約300点の内、半分くらいしか展示されたことがない。水彩画、スケッチなどは70点くらいしか展示されていないという。この画家は国民のために、すべての作品を残していったのだ。ターナーの死後これまでに実物を見た人が100人に充たないような作品も多いといわれる。
 
  ターナーを国民的芸術家に仕立て上げるため、ラスキンはかなり取捨選択をしたようだ。ターナーが常に身辺に携えていたスケッチブックも、ラスキンの好みで優れた作品を抽出するためにばらばらにされたという。元来、旅好きの画家が特定のテーマで描いたスケッチブックの体裁が壊れてしまった。幸い、作成年月日などが付されているので、復元され新たなターナーの発見が始まっているようだ。

  この画家は生涯を通して絶えず描き続けていたらしい。宴席でも退屈すると、すぐにスケッチをしていた。そのため、スケッチブックには、ワインの飛び散った跡、いたずら書き、ベルタワーや牛だけを描いた手帖もあるという。旅路の途上などでも、ある瞬間の情景をさっと描き、移ろう自然の有様を記録している。以前にもこのブログで記事にしたこともあるが、移ろい行く瞬間に画家の目と手が直ちに反応したのだろう。ターナーはその後のことなど眼中になく、まさにその一瞬を描きたかったのだ。

水彩を見る目 
  ターナーは油彩よりも水彩画家として著名で尊敬されていた。英国の水彩画は19世紀を通して栄えたが、その後アマチュアの引退後の楽しみになってしまった。しかし、ターナーの水彩は素晴らしいものであった。 水彩は油彩と比較して、退色が早く進む。今ではかなり色あせてしまった作品もあるらしい。とりわけ、この画家は赤色が好きであったらしい(この点もかつてブログで書いたことがある。)しかし、いずれにせよ、ターナーの水彩技法は空前絶後のものであった。

  水彩画を鑑賞するには、油彩画とは違った見方が必要であるとジルはいう。「水彩画を見る最も良い方法は、ガラスを通さず、近づいて見ることだ。絵の力、輝きと親密さがあなたの頭脳を燃え上がらせ、目をきらきらさせるだろう。」

 

References

ターナー References オリヴィエ・メスレー(藤田治彦監修、遠藤ゆかり訳)『ターナー 色と光の錬金術』創元社、2006年 (Olivier Meslay. Turner: L’incendie de la peinture. Paris: Gallimard)

"Turner The Making of a master "by A.A.Gill. The Sunday Times Magazine, June 4, 2006.

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創られる巨匠:ターナー(1)

2006年09月03日 | 絵のある部屋
  夏の間に読もうと思って積んでおいた書籍や資料の山はなかなか小さくならない。それどころか、部屋中にアメーバのように繁殖し始めた。もともと暇ができたら読もうと思っていたものだから、読むこと自体は楽しみなのだが、取り崩す以上に増えてくる。消化能力?も落ちてきたらしい。いつものように、山の前に陣取って整理にとりかかるが、少しもはかどらない。

  上の方に置かれていたThe Sunday Times Magazine のターナー特集*が目について、座り込んで読んでしまった。「巨匠が創られるまで」と題した同誌の批評家ジルA. A. Gillによる巻頭論文である。(この号には「女系が昇る国」Land of the Rising Daughterと題した日本の皇室をめぐる興味あるレポートも掲載されている。)

型にはまったイメージ
  イギリス近代絵画史における最大の巨匠ともいえるターナーについては、これまで画壇を含めてかなりはっきりしたイメージが浸透していた。夏目漱石の「坊ちゃん」にまで登場するのだから、日本人の間でも良く知られている。「ターナーの絵のようだ」とはそこに、あるイメージが作られて存在していることが前提になっている。日本語の文献もかなりの数に上る。しかし、この研究し尽くされたと思う大画家にも、まだまだ多くの謎の部分が残されているようだ。

  ターナーは、生前は芸術家としてこれ以上ないほどの名声をほしいままにし、作品は遺言によってイギリス国民に残された。ターナーほど自分の死後、作品がいかにあるべきかを考えていた画家はないといわれる。彼は遺言書に作品を保存するためのギャラリーを作るように記し、1851年に死去した時、140,000ポンド(今日の額で1100万ポンド)というそれに十分な資産も残した。しかし、例のごとく相続人たちが遺言書に異議を唱え、判決の結果、ロンドンのナショナル・ギャラリーに作品展示のためのギャラリーが恒久的に設置された。そこには約300点の油彩画と2万点近いデッサン、スケッチが収められた。

  しかし、ターナーの作品は実際には3万点近くあったのだ。このターナー紹介論文を書いたジルは、テートのギャラリーは狭すぎて、「ソーシャル・サービスのドロップイン・センターに美しい陸上競技選手が列をなしているようだ」と、辛辣な批評をしている。

  ターナーは油彩画ばかりでなく、多数の水彩画も制作していたことで知られている。水彩画は生涯を通して描いている。むしろ水彩画を通して、この画家の真髄は知りうるといえるのかもしれない。ジルは、水彩、デッサン、スケッチなど、あまり実物に接した人のいない作品群を見ると、ターナーの別の世界が見えてくるという。

労働者階級としての血のつながり
  事実としてはよく知られていることだが、ターナーは1775年コベントガーデンの理髪師の息子として生まれた。階級社会のイギリスの分類では、イーストエンドの労働者階級に属することになる。家庭は決して平穏で安定していたわけではない。父親の店自体は繁盛していたが、母親は鬱病で入退院を繰り返していた。しかし、父親は息子の才能に気づき、画業で身を立てることを勧めた。そして、理髪店をやめて、息子の工房を設け仕事を探した。Turner & Son.工房?である。母親とは惨憺たる関係であったが、この父と息子の関係は大変良かったらしく、父親は息子の生活に付き添い、金銭管理からアトリエの整理まで面倒をみていた。

  職業は代わったが、労働者階級としての出自は、息子ターナーにとって重要な意味を持っていた。美術は彼の新たな職業となったが、労働者階級としてはぐくまれた意思のあり方、志や誇りを持っていた。画家として大成し社交界でも一大名士となるが、ターナーは騎士道気質は持っていなかったし、上流社会とは本質的な所で距離があったようだ。

  画家としての生涯で、作風も大きく変わったことはよく知られている。とりわけ、1829年の父親の死に大きな影響を受けた。実物を見たことはないが、ゴヤのようなイメージの作品もあるという(Death on a Pale Horse)。

  ターナーは世の中で知られている作品とはかなり異なる暗い絵や官能的な作品も制作していた。さらに、この画家は正式な結婚はせず、生涯独身とされてきたが、遺言書には二人の娘がいることが記されていた。われわれが知るターナーは、どれだけこの画家の真のイメージに近いのだろうか。長くなりすぎたので、次回のお楽しみに。

References
オリヴィエ・メスレー(藤田治彦監修、遠藤ゆかり訳)『ターナー 色と光の錬金術』創元社、
2006年 (Olivier Meslay. Turner: L’incendie de la peinture. Paris: Gallimard, 2004.)
最近、日本語版が刊行されたが、同じシリーズの『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』と同様に、ハンディで良くまとまっている。しかし、基本的スタンスはこれまでのターナーのイメージを踏襲している。
*
A.A.Gill.  "The Making of A Master." The Sunday Times Magazines, June 4, 2006
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