ベルリンのテンペルホフ空港についての新聞記事を読む。1941年に完成してから今日まで、文字通り現代史の大激動を見つめてきた、世界でも希有な空港である。
このごろはベルリンへ行くにも、テーゲル空港へ降りることがほとんどで、しばらく利用したことはない。しかし、「壁」の崩壊前にも、この空港から発着したことがあり、名前を聞くとさまざまな感慨が頭をよぎる。「壁」崩壊前は日本からはアエロフロートで行くか、フランクフルトなどで乗り換えてベルリン入りしていた。テンペルホフ空港はよく使われていた。フランクフルトからは、確かパンナムが乗り入れていたと思う。
はからずもアエロフロートのイメージまでよみがえってきた。軍用機を改造したイリューシンやツボレフは機体の後尾の座席に割り当てられると、座席数が減り、結露した水が天井から落ちてきた。赤軍将校などが搭乗してくると、一般客が下ろされたりしていた。
冷戦下の時は、どこからテンペルホフに入るにしてもかなり緊張していた記憶がある。冷戦の雰囲気に加えて、この空港にはナチス時代を伝える雰囲気がいたるところに浸透していたからである。ヒトラーの時代、お抱え建築家アルベルト・シュペーアのゲルマニア構想の一環として、ナチス時代の設計思想をそのままに残していた。
以前にも記したが、冷戦の時代、空港守備隊の形容しがたい色の制服とブーツ、戦車にはどぎもを抜かれる思いをした。いかに世界で初の都市型空港であり、歴史的重みを持っているとはいえ、思わず踏みとどまるほど衝撃的であった。
この空港は、ベルリン市内に位置し、外部からみても内側に空港があるとは思われないほど、コンパクトである。今では大型機は離着陸できないが、当時は世界の最先端を誇ったのだろう。それでも、当時の空港需要の10倍が想定されていたといわれる。ヒトラーの妄想がその裏にあったとはいえ、その後の航空業界の発展がいか瞠目すべきものであるかを思わせる。
1948年、ベルリン封鎖の時は、フランクフルトなどからほとんど1分間に1機の割合で物資輸送が行われたという。ベルリンという都市が経験した数奇な歴史を改めて思い起こす。
10月11日、メディアはヒトラーの伝記作家であったヨアヒム・フェスト Joachim Fest 氏の死去を報じていた。都市騒音、機能などで存否が議論されてきたテンペルホフ空港も一応来年末には閉鎖が予定されている。急速にセピア色の世界に入って行くこの時代をなんとか記憶にとどめたい。
References
テンペルホフ空港の保存を求める協会HP
http://www.jedelsky.de/flughafen_tempelhof/
「奇想遺産テンペルホフ空港」『朝日新聞』日曜版、2006年10月10日
http://www.be.asahi.com/be_s/20060910/20060901TBUK0022A.html