後記に「付け足し」あり。
朝のゴミ出し時にすれ違ったご近所さんとの立ち話。
ウチの敷地と道路とのわずかなスキマにコキアが発芽し、立派に育っていました。そのコキアが見事だったわね~、という話から、お互いの年齢の話になり、わたしより10歳年上、ということがわかりました。
6歳の時に家族で台湾から引き揚げてきた、と。
4月13日に日本についた(ということは終戦の翌年、昭和21年、1946年)と。
彼女は台湾生まれ。父上は当時植民地だった台湾で教員をしていた、と。
当時6歳だったので、引き上げ時のことは覚えている。彼女の兄弟は6人とのこと(引揚後に生まれた子供もいるかも)。親子での引揚で、引揚船はとても大きくて、たくさんの人が乗っていたので、床に雑魚寝状態だった。普通なら4、5日で日本に着くのに、大嵐があって1週間かかってようやく鹿児島の港に着いた。
そこから汽車(鈍行)で静岡県の浜松までの長旅だった(途中乗り換えはなかったそうです)。長崎の街も広島の街も汽車の窓から見ました。列車に乗っている乗客(引揚者たち)が一斉に窓から、焼け野原になっている街の光景が見える側に駆け寄ってみたものです。本当にずっと遠くまで見渡せて、何にもなかった、と。広島の駅前の道(焼け野原で確認できる戦前の道)って、狭い道だった。
父は教員だったのだけれど、帰国したのが4月の半ばで学校が始まっていたので、教職募集の口はなくて、生活のためにポン菓子屋を始めました。翌年には教職の口があったけれど、給料が少ないこともあり、当時甘いものがない田舎のおやつに重宝されたのか人気だったポン菓子屋の仕事を3年ほど続けました。私は6歳で小学校に通うことになりまたが、田舎の小学校だったこともあり、台湾帰りの私は革靴で登校したのだけれど、私以外の子供たちは履物はワラゾウリでした。それで自分もワラゾウリにしたいと祖母に編んでもらいました。普通は楕円形なのに、ワラゾウリを編んだことがない祖母が編んだ私のワラゾウリは丸かった。
私はまだ生まれていませんが、昭和21年の光景が想像できます。
先日のバルト3国、ポーランド旅でも、歴史資料館などで空襲で焼け落ちた街の光景を見てきたばかりなので、日本の焼け野原の話題に、「そうよね、日本もね、、、」そして、自分の目で見てきた方が目の前で語っていらっしゃる、というには感じ入るものがありました。こんな話ができる人もあと少しでいなくなるわね~、とおっしゃっていましたが、後続の私たち、そしてもっと若い人たちに、そのころの体験を語る場があったらいいのに、そう思ったりしました。
せめて、ここに記しておきます。
付け足し
後から思ったこと。
私の友人には、自分も親も教師だったという人が何人もいる。
耳にする話では、親世代の年金額と自分たち世代の年金額では、圧倒的に親世代の受給額が多いらしい。きっと、戦後の貧しい日本の公務員の給与が少なくて、ゆくゆく定年後は恩給という保証があるから、というのとセットだったのだろう、と。
朝のゴミ出し時にすれ違ったご近所さんとの立ち話。
ウチの敷地と道路とのわずかなスキマにコキアが発芽し、立派に育っていました。そのコキアが見事だったわね~、という話から、お互いの年齢の話になり、わたしより10歳年上、ということがわかりました。
6歳の時に家族で台湾から引き揚げてきた、と。
4月13日に日本についた(ということは終戦の翌年、昭和21年、1946年)と。
彼女は台湾生まれ。父上は当時植民地だった台湾で教員をしていた、と。
当時6歳だったので、引き上げ時のことは覚えている。彼女の兄弟は6人とのこと(引揚後に生まれた子供もいるかも)。親子での引揚で、引揚船はとても大きくて、たくさんの人が乗っていたので、床に雑魚寝状態だった。普通なら4、5日で日本に着くのに、大嵐があって1週間かかってようやく鹿児島の港に着いた。
そこから汽車(鈍行)で静岡県の浜松までの長旅だった(途中乗り換えはなかったそうです)。長崎の街も広島の街も汽車の窓から見ました。列車に乗っている乗客(引揚者たち)が一斉に窓から、焼け野原になっている街の光景が見える側に駆け寄ってみたものです。本当にずっと遠くまで見渡せて、何にもなかった、と。広島の駅前の道(焼け野原で確認できる戦前の道)って、狭い道だった。
父は教員だったのだけれど、帰国したのが4月の半ばで学校が始まっていたので、教職募集の口はなくて、生活のためにポン菓子屋を始めました。翌年には教職の口があったけれど、給料が少ないこともあり、当時甘いものがない田舎のおやつに重宝されたのか人気だったポン菓子屋の仕事を3年ほど続けました。私は6歳で小学校に通うことになりまたが、田舎の小学校だったこともあり、台湾帰りの私は革靴で登校したのだけれど、私以外の子供たちは履物はワラゾウリでした。それで自分もワラゾウリにしたいと祖母に編んでもらいました。普通は楕円形なのに、ワラゾウリを編んだことがない祖母が編んだ私のワラゾウリは丸かった。
私はまだ生まれていませんが、昭和21年の光景が想像できます。
先日のバルト3国、ポーランド旅でも、歴史資料館などで空襲で焼け落ちた街の光景を見てきたばかりなので、日本の焼け野原の話題に、「そうよね、日本もね、、、」そして、自分の目で見てきた方が目の前で語っていらっしゃる、というには感じ入るものがありました。こんな話ができる人もあと少しでいなくなるわね~、とおっしゃっていましたが、後続の私たち、そしてもっと若い人たちに、そのころの体験を語る場があったらいいのに、そう思ったりしました。
せめて、ここに記しておきます。
付け足し
後から思ったこと。
私の友人には、自分も親も教師だったという人が何人もいる。
耳にする話では、親世代の年金額と自分たち世代の年金額では、圧倒的に親世代の受給額が多いらしい。きっと、戦後の貧しい日本の公務員の給与が少なくて、ゆくゆく定年後は恩給という保証があるから、というのとセットだったのだろう、と。
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