日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

小想、その2。

2009-01-26 12:51:15 | 私の雑感あれこれ
私たち夫婦と息子は、その朝宿泊のホテルを出て、車で故郷の街を走っていました。
ちょっと、寄り道して私たちの母校(高校)の前を通っていこうか。
と、向かっていた時、携帯が鳴る。

何時までに来られるか、と。

葬儀までには1時間半ある。
今、車の中です。あと15分でそちらに着きます。
と、咄嗟に応える。

二度とないことだから、息子と母校に寄り道をしたいし(勿論素通りするだけ)、お葬式に迷惑もかけられない。

この二つの気持ちに揺れている私に、

息子が言う。
「人と時間の約束をするときは、その時間が早いことがいいのではなくて、その時間が必ず守られる時間であることが大事なんたよ」と。

了解。もっとも。
社会人としてきちんとやっているのだな、と察せられてうれしい。

でもさ、
飛行機を乗り継いでやってきて、しかも翌日の仕事のため、息子はその葬儀も中座する予定。もう二度とこんな機会はないのです。
お父さんとお母さんが同級生として出会ったのは、この地のこの高校だったのだよ、っというその場所に連れて行ってみたい気持ち、
分らないかなーーー。笑
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小想。

2009-01-26 10:23:23 | 私の雑感あれこれ
私たち夫婦はいつも郷里から離れていた。よって、子供たちにとってのおばあちゃんちは、夏冬の休みに行くところ、そんな接し方でやってきた。
先日の夫の母の通夜と葬儀の合い間に、娘二人は車で30分の私の実家に泊めてもらった。
一人は7年ぶり、もう一人も4年ぶりか。
「おばあちゃんが○○ちゃんたちの顔を見ると喜ぶから」
通夜に参列していた兄夫婦がそう言って、娘たちを連れていってくれた。
もう、寝ていると思うけれど、翌朝30分でも顔を合わせられたらいいものね。
私がそういうと、
「いやー、おばあちゃんは、○○ちゃんたちが来るというと、起きてくるから…」と。…実際に電話連絡すると、すぐ起きて待っていたらしい。
で、翌朝、娘たちはまた兄夫婦と一緒に葬儀に戻ってきた。

夜遅く着いたのだけれど、
おばあちゃんところで食べた、食事、おいしかったー。
自然薯の山芋ご飯。
手摘みの山菜も畑で採れた野菜のお浸しも、どれもこれもみーんな、味が違うの。
ワタシね、東京では銀座などの高級料理屋さんへも行ったこともあるけれど、でも、こっちの味の方がおいしい、そう思った。

ポロリと出てきた言葉。
よい機会をあたえてもらったな、と思う。
いくら、口で説いても、本で伝えようとしても、体験には勝てない。
彼女たちはまた東京でこれまでの暮らしに戻るけれど、田舎で自分たちのために、ご飯を炊いて、自然薯をすりおろして食べさせてくれる肉親がいることは忘れはしまい。
ありがたい。

葬儀にきてよかった。こんな機会でないと会うことがない遠縁の人でも、○○さんの子供、○○さんの従兄、と説明して挨拶し合う、こういう世界があるのもいいことだね。
そういう言い方もした。
親戚付き合いから遠い暮らし方をしてきた我が家の子供たちだけれど、
お父さんの子供、お母さんの子供という、そのつながりで、すぽっと丸ごと受け入れ歓迎してくれる、その空気を味わったこと、がよかった。
私は葬儀のテンヤワンヤで、実家に顔だしもしてはいないのだけれど、肉親というだけで、甘えられる、ありがたいなー、と思った。



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