日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

海外テレビドラマ『情熱のシーラ』を観ている。

2015-07-01 11:39:19 | 映画・テレビドラマ・音楽
毎日曜日の23時から、NHKの総合テレビで放映中。

『情熱のシーラ』

4回目が終わったところ。
1930年代のスペイン(現在の舞台は属領のモロッコだけれど)、興味深い。

前番組だった「貴族の館、ダウントンアビー」にしても、リアルで観ていると話題にした人には出会わなかったし、、、、残念だった。

これは、どうだろうか~。
モロッコが生活の場になっているスペイン人と下働きをするモロッコ人。宗主国の人間と属領となった現地人との関係の一旦も垣間見られる。

スペイン内戦の時代のモロッコだから、名画「カサブランカ」と同時代と思われる。

「清濁併せのむのもやむなし」の生きるのに必死のシーラのこれからにハラハラです。
コメント (2)
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■再追記あり 「奇跡の日本史『花づな列島』の恵みを言祝ぐ」を読んでいる。増田悦佐著

2015-07-01 09:52:13 | 
先日読んだ「世界は深淵をのぞきこみ、日本は屹立する」の著者が書いたもの。
博識に驚く。
「世界は深淵をのぞきこみ、日本は屹立する」は、欧米人の思考回路と国家戦略、その結果としての現実の財政事情が書かれている本だったけれど、今回の本は、有史以来、中世ののヨーロッパの都市の成り立ちというか、支配の構造から始まって、ヨーロッパ人の支配されることない歴史を持っている「花づな列島」日本人の暮らし方、人間関係のありようが、相変わらずの博識でつづられています。
以前読んだ、松原久子氏の書きぶりと似ているかもしれません。

文中で紹介されている本に渡辺京二著「逝きし世の面影」という本が紹介されていたので(勿論ほかにも引用、紹介本は幾冊もあるんですが)、読了後はこれを読もうと、メモをしておきました。

こんなことがあるんですね。
そのメモを見た家人が、「その本はウチにあるはずだよ」と。
!!!
アマゾンで注文するより早く私の目の前に出現しました。
あっちを読んだり(キンドルの電子版で)、紙の本でこっちを読んだり、どの本も、しっかりとした下調べに基づいて書かれており、こんな書物に出会えたことに感激です。

文字を読めるってありがたい。

ワタシという人間一人、どう成長したって、世間はなんとも変わりませんが、出会うことで、出会わなかったときより自分が深まる(大袈裟かな。苦笑)ようで、嬉しい思いです。

いつも一番キーを叩く指の指先を、昨日のバラ移植作業で傷つけ、そこにバンドエイドしているもので、入力作業の勝手が違うのです。


■追記

本を読むことの楽しさは、ときおり「目からウロコが落ちる」という形容そのままに、今まで見えていなかったものが一挙に見えてくると感じさせることにある。
 ↑ 文中引用。

全く同感。だから、やめられない。苦笑


我ながら遅読。まだ、この本を抱えている。
タイトルには日本史と入っているが、ヨーロッパ史も時にはイスラム世界や中国にも飛ぶ。
城壁で守られていた中世ヨーロッパの都市の実態や宗教戦争がらみの世界にも大いにスペースが充てられている。

時代はさかのぼるが、
ギリシャは民主主義発祥の地とされている。ヨーロッパの都市ではギリシャの賢人たちの銅像があちこちで見かける。民主国家我が国の母祖との思いがあるのかもしれない(※1)。
民主主義が生まれた社会、例えばアテネでは、日常の労働はすべて奴隷の役目であり、
市民が肉体労働をする必要がなかった。自分の子供が市民資格を得るには市民身分の女が生んだ子供でなくてはならない。そこで妻は娶るけれど、愛情の対象は美少年や娼婦であり、外出するときは、妻が無断で外出しないように出口に閂(かんぬき)を書けるほどであった。まさしく女はわが子(市民)を産む役割だったんです。

(※1)ユーロ脱退か残留か喫緊の決断が迫られているギリシャです。
西欧にとって一応民主主義国家であり、イスラム圏やロシアとの境界に位置していて、気に入らない点多々ありながらも、反対勢力側にはなってほしくない、という事情があるようです。
ギリシャもそんなユーロ圏本流の国々の思惑を逆手にとって、美味しい思いをさせてもらう立場であることは折り込み済み、というわけです。
う~ん、政治は力技!ですね。


話は戻って、カソリックの(プロテスタントも)残虐な歴史が逐一書かれていて、一般市民が担当したという異端審問官、魔女裁判、ぼ~っ。
蛮族の襲撃に遭って命を落とすか、命をつなぐ分の食糧だけを残して、あとは領主に取り上げられてしまう暮らしを選択するか。
なんともはや、です。

知ってはいても、、、だった、宗教改革のことや、フランス革命についても、これまで、遠望していたのが、ちょっと近間まで寄ってみた、という思いです。


そんな、非情な活字の中に浸っているものですから、
夕飯の準備にスーパーに出かけて、食べ物で溢れかえっているのを見ると、「なんと、よい世の中にいるんだ~」と、ひとり思ったりします。
…変でしょ、ワタシ。
…声にしてないから、だれも気付かないけどね。苦笑

よくも、こんな豊かな社会にこぎつけたものです。
テレビでは、話題に事欠けば、「美味しいもののお店紹介」だったり、「ダイエット」でいかに低カロリーにさえるかの話題が並んでいます。

何百年、何千年という経年的見方をする癖がつくと、つい、10年後100年後からみたら、今の時代はどう論評されるのかしら、と思ったりもします。

以前、ジョン・ダワー著「敗北を抱きしめて」の著書の挿絵に、民主主義と書かれたドラム缶を救援物資として空輸されている図柄が記憶に残っています。
そうか、と頷いた口でした。
でも、今は、イヤ、違うぞ、という思いに傾いています。

私達の国「花づな列島」って、強権発動とは別物のあり方を続けて今に至っているのだ、と思い始めています。
徳川政府の政策とヨーロッパの王族の強権発動との差異も、う~ん(※2)、です。

(※2)上記、青文字 苦笑

■再度の追記
7月1日早朝に読了。

引用をもう一つ

 それにつけても、虐殺と掠奪が日常茶飯事だったことを立証する、周囲を堅固な城壁で囲まれたヨーロッパ中世都市の遺物を見て、「なぜ日本にはあんなきれいな都市がないのか」と不満を言う日本の知識人の鈍感さにもつくづく感心する。とはいうものの、日本の大衆がこんなに賢明でいられるのも、知識人があまりにも愚鈍で頼りにならないからことなのだ。そういう意味では、ほかには何ひとつ命まで懸けて守りたいものはないが、日本の知識人の愚鈍さだけは、命懸けで守る必要があるかもしれない。以上、引用。

著者は、組織に所属していない博識な文筆家。文章は洋の東西に飛び、時代を自由に行き来します。切り口は極めて鋭利で闊達。

余談ですが、以前、知識人の一人と雑談していて、引用文のようなことを言われたことがある。ヨーロッパの街は統一されていて綺麗なのに、日本ときたら、てんでバラバラだから~、と。
その時、
「『じゃぁ、〇さん、あなたが家を建てるに、和風のこの形式しか認めない』って、規制されるのはOKなのね」
と返したら、彼女は
「そうね~、今の言は撤回するわ。和風に決められたら困るもの」と。
苦笑

私達はその時代時代で、それぞれが精一杯の選択をしているのだと思います。それを遠目で見ると、結果としてその地方の風景になるのではないでしょうか。


引用文後半の、

日本の知識人の愚鈍さだけは、命懸けで守る必要があるかもしれない

には、私は複雑、です。

昨今の原発問題や集団的自衛権関連法案など、担当者が愚鈍でいいのだろうか、と思うから。

イヤ~、
原発再稼働も市民の反撃にあうだろうし
仮に法案が通っても、違憲裁判がこぞって提起されるだろうし、

賢い大衆が自浄作用として働くからいい、ということなのでしょうか。

ふ~ん。


100年後ぐらいに、歴史として今の時代を俯瞰する目で見ると

明治維新~第2次大戦終了あたり(いや、欧米礼賛傾向の残っている現在ごろまで)までの、為政者の国のかじ取りが、西洋かぶれだった時代、ということになるのではないかしら。

私達の国って、どんな国だったの?
の私の旅は次の本(「逝きし世の面影」)へと続きます。

★よく、雑談で「私たち、学校の日本史では、昭和の時代が端折られてしまって教えられていないよね」という人がいます。周りはあいづち。
ふふふ、天邪鬼の私は、それでは教えられたことは、理解しているのかしら、と思ったりしますけど、勿論口にはだしません。
そして、なんだか、近代、現代が端折られているだけでなく、江戸時代も教えられていない、というか、明治時代以降の体制に都合のいい教え方で伝えられているのでは、という思いになってきました。
私が江戸ワールドに浸るのは磯田道史氏や藤沢周平氏の書物の中でですけれど。
教科書が教えている以外を学んではいけないわけではないのですから、そのセリフでストップしていては残念です。というわけで、「逝きし世の面影」楽しみです。












 

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