ときどき思いめぐらす。
友人がすい臓がんのステージ4で余命1年と診断された。
彼女はがん治療に良かれと思う病院に転院し、抗ガン治療を続け、先進医療をの情報を得て、さらに病院を東奔西走した。
彼女のピアノの教え子であり、現在医師である息子は「もし、お母さんがその状態だったら、僕は残りの日々を家族と旅行したりして、有意義に過ごす方を薦めるよ」といった。
でも、治療に真剣に取り組んでいる彼女には、その選択を話題にすることはできなかった。
そして、仮にそういわれたら、自分は素直に頷けただろうか、とも思った。
やっぱり「治る」可能性にかけたいと思うのが人情だと思うから。
「うちの病院では治療法があります」とのネット情報を目にして、それをスルー出来ないのではないか、と。
彼女は、がんセンターでの診断を遮って、私立病院に転院して抗がん剤治療に励んだ。すこしでも患部が縮小して手術可能になることに期待をかけて。何クルーかの治療でも目指す効果がなかった。
東京の私立病院での施療に期待した。そこでもネットで謳われている効果は出なくて、むしろ症状的にはマイナスだった。
東京から戻って、かかりつけ病院を地元の私立病院から大学病院へ変更した。そこでも主治医はがんセンターの判断と変わらずで、「手術をできる状態ではない」との診たてだった。
なんとか手術をできるまでに患部の縮小を願う彼女は抗がん剤治療を続けた。
抗がん剤も状況によって使われる薬剤が異なってくるそうで、副作用はますますきつくなってきて、辛さは増すばかり。
それでも症状が好転する可能性があるのではないかと、雪国の国立病院での治験段階から先進医療扱いになったばかりの治療に望みを託した。
コロナで普段よりも事前入院の期間が長かったりして、ようやく望んだお医者さんの治療を受けれる、と期待も滲んだ電話がかかってきたりもした。
それから数日後。
(やってみたけれど)ダメだったの、の力ない声が耳に残っている。
腹水が貯まり始めている、と。
食事が摂れる段階のときは、少しでも「美味しい」と感じられるものを、と差し入れしたりしていたけれど、食事が摂れなくなってからは訪問はしていない。
「生活習慣病は本人の意思で改善もできるけれど、ガンはそういうわけにはいかないからね。若くしてガンになった人は悲惨だよ」と語っていた息子のことばも耳にリフレインする。
70代も80代も一緒に庭づくりをして、語り合っていたかったのに。
私より後発で、絵(パステル画)を描き始めた彼女。
一緒にスケッチする機会も持ちたかったのに。
どれも叶わない。
亡くなったらお終い。
生きているからこそできる、そんな思いが去来する頻度が増した昨今です。
誰もがいつかは死ぬ、ということは分かっています。
70代にもなっているので、もうそんなに長い年月ではないでしょう。
その残された年月を悔いのないように、それに尽きます。
ひとりごとのタイトルに免じて、ぼやきも書かせてもらいます。
まだ病気の前の彼女「私にとっての絵を描くことは、死ぬまでの暇つぶしなんだと絵画教室の仲間に行ったら、そう言い方はおかしいといわれちゃった」と。
「貴女がそんな言い方するから、暇つぶしの時間も最短になってしまったじゃない」とむくれたぃ気分です。
きっと、私が彼女の立場になったら、我が家では「積極的治療をしないで、、、」という意見もひとつは出ることは確かなんでしょうね。
但し、今の時間を私は「暇つぶし」的には捉えてはいませんから、病魔はちょっとご遠慮こうむりたい気持ちです。
彼女の友人の一人は、ガン治療に邁進した彼女をよく頑張った、尊敬する、とまで表現します。
結果として余命通りに逝ったのですけれど。
苦痛に堪えたことを評価しているのだろうか。ふーーん。
もし、旅行したりして寛いだ時間をもつ過ごし方をしていたら、と思ったりします。
そのあとで「知の巨人」と言われた立花隆さんのガンによる訃報がありました。
そして彼がガンが判ってからの経緯を扱ったドキュメンタリー番組もありました。彼はガンについても徹底的な取材もし、書籍もあったのかな。
で、その彼が突き詰めて摂った選択は、治療をしない、でした。
彼女のがん闘病に接して間もないころでしたので、興味深く見ました。
立花氏の結論は、ガンと闘うことでがんを克服するのではなく、ガンと闘わないで人生を生ききることが、ガンに翻弄されない人生になる、という趣旨のメッセージだった記憶です。再視聴したいものです。
で、思うのです。
元気な今の時間を大事に過ごすことが一番なんだと。
日曜の今日は、ジムは休みました。昨日はプログラム3つを消化したためか、幾分疲労が残っているので。苦笑
友人がすい臓がんのステージ4で余命1年と診断された。
彼女はがん治療に良かれと思う病院に転院し、抗ガン治療を続け、先進医療をの情報を得て、さらに病院を東奔西走した。
彼女のピアノの教え子であり、現在医師である息子は「もし、お母さんがその状態だったら、僕は残りの日々を家族と旅行したりして、有意義に過ごす方を薦めるよ」といった。
でも、治療に真剣に取り組んでいる彼女には、その選択を話題にすることはできなかった。
そして、仮にそういわれたら、自分は素直に頷けただろうか、とも思った。
やっぱり「治る」可能性にかけたいと思うのが人情だと思うから。
「うちの病院では治療法があります」とのネット情報を目にして、それをスルー出来ないのではないか、と。
彼女は、がんセンターでの診断を遮って、私立病院に転院して抗がん剤治療に励んだ。すこしでも患部が縮小して手術可能になることに期待をかけて。何クルーかの治療でも目指す効果がなかった。
東京の私立病院での施療に期待した。そこでもネットで謳われている効果は出なくて、むしろ症状的にはマイナスだった。
東京から戻って、かかりつけ病院を地元の私立病院から大学病院へ変更した。そこでも主治医はがんセンターの判断と変わらずで、「手術をできる状態ではない」との診たてだった。
なんとか手術をできるまでに患部の縮小を願う彼女は抗がん剤治療を続けた。
抗がん剤も状況によって使われる薬剤が異なってくるそうで、副作用はますますきつくなってきて、辛さは増すばかり。
それでも症状が好転する可能性があるのではないかと、雪国の国立病院での治験段階から先進医療扱いになったばかりの治療に望みを託した。
コロナで普段よりも事前入院の期間が長かったりして、ようやく望んだお医者さんの治療を受けれる、と期待も滲んだ電話がかかってきたりもした。
それから数日後。
(やってみたけれど)ダメだったの、の力ない声が耳に残っている。
腹水が貯まり始めている、と。
食事が摂れる段階のときは、少しでも「美味しい」と感じられるものを、と差し入れしたりしていたけれど、食事が摂れなくなってからは訪問はしていない。
「生活習慣病は本人の意思で改善もできるけれど、ガンはそういうわけにはいかないからね。若くしてガンになった人は悲惨だよ」と語っていた息子のことばも耳にリフレインする。
70代も80代も一緒に庭づくりをして、語り合っていたかったのに。
私より後発で、絵(パステル画)を描き始めた彼女。
一緒にスケッチする機会も持ちたかったのに。
どれも叶わない。
亡くなったらお終い。
生きているからこそできる、そんな思いが去来する頻度が増した昨今です。
誰もがいつかは死ぬ、ということは分かっています。
70代にもなっているので、もうそんなに長い年月ではないでしょう。
その残された年月を悔いのないように、それに尽きます。
ひとりごとのタイトルに免じて、ぼやきも書かせてもらいます。
まだ病気の前の彼女「私にとっての絵を描くことは、死ぬまでの暇つぶしなんだと絵画教室の仲間に行ったら、そう言い方はおかしいといわれちゃった」と。
「貴女がそんな言い方するから、暇つぶしの時間も最短になってしまったじゃない」とむくれたぃ気分です。
きっと、私が彼女の立場になったら、我が家では「積極的治療をしないで、、、」という意見もひとつは出ることは確かなんでしょうね。
但し、今の時間を私は「暇つぶし」的には捉えてはいませんから、病魔はちょっとご遠慮こうむりたい気持ちです。
彼女の友人の一人は、ガン治療に邁進した彼女をよく頑張った、尊敬する、とまで表現します。
結果として余命通りに逝ったのですけれど。
苦痛に堪えたことを評価しているのだろうか。ふーーん。
もし、旅行したりして寛いだ時間をもつ過ごし方をしていたら、と思ったりします。
そのあとで「知の巨人」と言われた立花隆さんのガンによる訃報がありました。
そして彼がガンが判ってからの経緯を扱ったドキュメンタリー番組もありました。彼はガンについても徹底的な取材もし、書籍もあったのかな。
で、その彼が突き詰めて摂った選択は、治療をしない、でした。
彼女のがん闘病に接して間もないころでしたので、興味深く見ました。
立花氏の結論は、ガンと闘うことでがんを克服するのではなく、ガンと闘わないで人生を生ききることが、ガンに翻弄されない人生になる、という趣旨のメッセージだった記憶です。再視聴したいものです。
で、思うのです。
元気な今の時間を大事に過ごすことが一番なんだと。
日曜の今日は、ジムは休みました。昨日はプログラム3つを消化したためか、幾分疲労が残っているので。苦笑