3月の11日を境にして、この国の抱えていた課題なんて、吹っ飛んだかのような日々が続いています。
私は、距離が離れているので、申し訳ないほど、普通の生活をすごしています。
それでも、新聞やテレビを通して、被災された皆さんのエピソードを知ったりもしています。
ある日の新聞から
妻子を失った中年の男性
★「家や車は、お金を出せば買えっけど、家族はお金を出しても売ってねぇべ」
先日の朝日新聞ひと欄で、陸前高田の病院の様子を述べているお医者さんの話
4階まで津波の水が来て、病院は孤立状態になり、病院に救助の手が差し伸べられたのは3日後だった。
お医者さん看護婦さん、スタッフで、できる限り患者さんを避難、ケアに尽力なさったという。
そして、
★看護婦さんたちは、後で見つけ出されたとき、自分だということを判ってもらうために、腕に名前を書いておこうと、お互いにマジックで書きあった、と。
・・・言葉がない。
私は、距離が離れているので、申し訳ないほど、普通の生活をすごしています。
それでも、新聞やテレビを通して、被災された皆さんのエピソードを知ったりもしています。
ある日の新聞から
妻子を失った中年の男性
★「家や車は、お金を出せば買えっけど、家族はお金を出しても売ってねぇべ」
先日の朝日新聞ひと欄で、陸前高田の病院の様子を述べているお医者さんの話
4階まで津波の水が来て、病院は孤立状態になり、病院に救助の手が差し伸べられたのは3日後だった。
お医者さん看護婦さん、スタッフで、できる限り患者さんを避難、ケアに尽力なさったという。
そして、
★看護婦さんたちは、後で見つけ出されたとき、自分だということを判ってもらうために、腕に名前を書いておこうと、お互いにマジックで書きあった、と。
・・・言葉がない。
打つ手を考えているのでしょうか・・・。
1945年8月14日私たち家族は大空襲の報道に死ぬ覚悟をしました。兄二人は兵隊、姉は看護婦でした。彼らが家族の骨をすべて拾えるようにと玄関に蓆を敷き、その上に布団を敷き、B29が来た時には掛け布団を被ったのです。もう戦争は終わっていたので爆弾は海に落とされました。同じ日確か名古屋では空襲があったと思います。爆弾をどこかで投下しなければ飛行機は帰還できなかったのだそうです。
突然2歳の弟がオシッコと言ったので私と弟は外に出されました。銀色に光る飛行機の群れが頭の上を通り過ぎました。弟も覚えているそうです。あの緊張感は今でも忘れません。
「原発事故の内容は非常に深刻で今も尚放射能を外部に出し続けているのに政府は既に臨戦態勢を解き官邸では全員背広にネクタイ姿、あの人は白いスーツ姿、福島原発が安定稼動した訳でも、被災者が衣食住を得て普通の生活に戻った訳でも、行方不明者全員が発見された訳でも、瓦礫が片付き復興へ向かった訳でも、何一つ光が射した訳でもないのに何故なんでしょうか?そんな中、首相、官邸、政府関係者が幾ら自己満足のために現地視察しても被災者達に希望を与えているとはとても思えません。まあ、本人達は全く気づいていないと思いますが?菅首相の場合は被災者達の不満、憤懣の捌け口になっていると考えればそれなりのガス抜きに貢献しているとでも言えば良いのかな?」
と。
そして以下の情報も送ってくれましたが、疲れるのはお互い様、遠くから眺めているだけの私でも疲れます。
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/3207
作業着を着ていれば、現場に行くわけでもないのにわざとらしい、といい、スーツになれば、また、しかり。
ちなみに、電力不足対応で、ノーネクタイが5月からと早められ、ノーネクタイの人が多いですよ。
国会議員が現地視察に行くので、県知事さんが対応に追われて、本来の仕事ができなくて困っている、とは、耳にしました。
「現地を見てきたら…、」という話が多くなりましたが、体験するもよし、遠目でおもんぱかるのもよし、と思っている一人です。
たくさんの情報であふれていますが、掬い取って文字にするときに、その人の判断が入ってしまうから、気をつけないといけませんね。
被災地の座礁した船などに連絡先を書きつづってあるのを見ても、「そうしようとした人のココロ」を想像してしまい、グッときます。
天皇ご夫妻は毎週被災者を見舞っておられるそうですね。最近は、被災県にまで出向かれて。地元の負担が少ないように、「日帰りで」。
その様子をテレビニュースで見るのですが、75歳を超えたお二人が、何度も移動しながら膝まづいって、膝が痛いことはないかしら、と勝手に気にしています。今の私、膝のケガでまだ痛くて、立ったり屈んだりがスムーズにできないものですから。