日々の暮らしから

「街中の案山子」「庭にいます。」から更にタイトル変更します。

知らないことを知る。

2018-11-06 06:41:35 | 私の雑感あれこれ
―(それは)自分が知らなかった(だけ)ということを知る―

 今の私の心境です。いくつになっても、知らないでいるより知れたことはいいこと、私、そういう考え方です。


バスの中の時間は、ついついネット検索してしまう。便利。

旅行の話。城の話。歴史の話。などもした。社会科の教師であった弟嫁さんは「アラッ、それは○○さん(私のこと)歴女だね~。城ガールだね」となって、そういえば、そんな言葉もあるのか、ということから、バスの中で暇に任せて検索していると、


「天下普請」という言葉に行き当たった。
そういうことだったのか~、です。

先日読了した「樅の木は残った」(1660年代)でも、仙台藩は幕府から命じられた小石川(?)の堀の普請の進行具合が出てきていました。
二条城も家康が西国の藩主らに築城を命じたと記憶している(調べたばかりなのにすぐに抜けていく)。
築城初期はまさしく豊臣方の反乱を抑え、かつ取り潰したい、外様の藩主たちの国力を削ぎたい、という思惑があったことでしょう。3代将軍家光のころに完成。家光は徳川の威を示すために30万の隊列で江戸から京に上ったとあった。

そして名古屋城も天下普請とのこと。1610年から西国の大名らに築城を命じたと。
1610年はまだ、大阪冬の陣、夏の陣(1615年)の前で、大阪城の豊臣方に神経を使っていた時代。
大阪城を取り囲むようにして、たくさんの城郭が整備、拡張、築城されていき、名古屋城もそんな役割を担っていた一つだった、と解説を読んだりすると、いかに知らなかったのか、という自分を知る。

その400年後にあたる年(清州越し※があった年)に、その城下を私は友人と名古屋城の城下ができてから400年だね、なんていいながら散策したものです。戦々恐々としていた400年前に比べると、すっかり平和で豊かな時代です。
※清州城から名古屋城への城下の町ぐるみの引越し

宝暦の木曽川の治水工事も、天下普請ということになる(杉本苑子著「孤愁の岸」は、幕府から命じられた薩摩藩は、いかに難事業を乗り切ったかが描かれている)。

私のザルのような記憶力(苦笑)であっても、歴史に触れることは心を揺さぶる。
そのときその時が、最善と考えて選択された結果が、今につながっているのだから。

今月下旬の京都行がますます楽しみになってきた。ぜひ是非二条城にも行ってみたいものなのだけれど、さて、洛南の2寺を見終わって時間があるかどうか、です。










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