詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

時代の叙事詩 

2005-05-17 11:42:51 | 詩集
 「黒田達也全詩集」(本多企画)が出た。黒田は50年の間に9 冊の詩集を出している。作風は幅広い。アバンギャルド風の「硝子の宿」(1956年)、ライトバースの「ホモ・サピエンスの嗤い」(88年)、自叙伝風の「幻影賦」(2002年)……。「ホモ・サピエンスの嗤い」が諧謔と悲しみの調和が美しい。一番充実している。その印象にかわりがないが、 9冊を通読することで新しく感じたことがある。
 黒田は自己の感性や思想を前面に押し出すのではなく、他者(自己以外の存在)を愛でつつみ、自己を消す。「おれのからだは透明であった」という行が「庭の芝生で」という作品にある。黒田は自己を透明にし、自己を他者が染めるがままにして提出する。

 おれのからだは透明であった
 陽の祭典の真夏のように
 実体のないおれは何かを叫びつづけているのだが
 その声がおれにも聞こえない
     (庭の芝生で)

 「聞こえない」は黒田の謙遜である。愛するものについて正確に把握できないという告白ほど、愛を強烈に語ることばはない。「できない」ということばをとおして読者は黒田の愛の強さを知る。

 ボクはなんにもいたさなかった
 いたすことを省略したのだ
     (省略する)

 黒田の自己表出は「省略」と言い換えてもいい。自分の思いは省略し、他者の思いをくみ上げ、代弁に徹する。こはばを発しない人々の思いに耳をすまし、その声をすくいあげる。

 大きな欠伸(あくび)をして 口を開いている刻(とき)など
 あのまぼろしはタロウの胸の中に入り込んで
 タロウと同じ息をする
       (欠伸)

 誰かと「同じ息をする」。それが代弁をするということだ。
 このとき、黒田自身ではなく黒田の生きてきた「時代」が浮かび上がる。黒田はどのような時代を誰と一緒に生きてきたかが浮き彫りになる。その瞬間、黒田の詩は黒田自身を超越し、時代の叙事詩にかわる。後半の 2冊「集落記」(97年)「幻影賦」は、黒田が出会った市井の人々を描き、特にその色彩が強い。
 黒田は黒田とともに生きた時代を、その時代を生きた人々の声を伝えたくて詩を書いているのだということをあらためて感じた。
コメント
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