詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(15)

2009-06-30 09:45:11 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇の頭のなかをかけまわる音楽。それは、無というか、一種の空白(空、白)のようなものかもしれない。無、空、白--それが、いま、ここにないものを誘い出す。そして、そのときの「白」の印象が絵画的(色彩的)な何かをも同時に誘い込むのかもしれない。
 「失楽園」のなかの「風のバラ」。その3連目。

ラムネのビンは青い おれの面前で
クレベルの本屋の主人がステキに悲しんでゐる

 この連の2行目。「スキテ」が、私が「無・空白」と呼ぼうとしているものである。「すてきに悲しむ」という表現は日常のことばの運動から逸脱している。悲しみ(悲しむ)とすてきは、ふつうの感覚では結びつかない。どちらかといえば、対極にあることばである。その結びつき自体が、私たちに、ことばの運動の見直しを迫る。
 一瞬、何のことかわからなくなる。
 「ステキ」も「悲しんで」もわかるのに、そのふたつが結びつくとき、何が起きたのか瞬間的にわからなくなる。頭のなかで、それまでの「文体」が脱臼を起こしてしまう。脱臼というのは結びついていた関節と関節が外れ、関節と関節のあいだの関係が「無」になる、関節と関節のあいだに「空白」が生じることをいう。そして、その脱臼の瞬間、いままでしっかり連動していた関節と関節が、意識できない領域へ飛躍する。
 その「文体」の錯乱のようなもの--それに対して、私は「音楽」を感じる。
 なぜ、音楽、なのか。
 たぶん、そのときの「ステキ」が意味ではなく、音としてしか信じられないからなのだと思う。そこには音だけが、音として純粋にある。
 西脇は「ステキ」とカタカナで書いている。それは、意味不明な外国語、音だけで意味を持たない外国語のように響いてくる。クレベルの本屋の「クレベル」のように。「クレベル」にも意味はあるかもしれないが、その意味を越えてただ「クレベル」で充分である。「ステキ」も同じだ。「ステキ」と書きながら、西脇は「外国語」の音の響きを聞いているのかもしれない。意味になる前の、つまり、意味の中断した「音」を聞いているのかもしれない。--この意味と音との脱臼。無関係性。それが音楽だ。

 こうした音楽が、西脇の詩には頻繁にあらわれてくる。

 西脇の音へのこだわり(?)というか、不思議な感覚は、その前の行にもある。
 「ラムネのビンは青い」という素朴なことばのあとの「面前」ということばの響きあい。意味はわかる。そして、その意味を超越して「めんぜん」という音が「ラムネのビン」と響きあう。
 「ラムネ」を西脇は、どう発音したのだろう。私は「RA・M・NE」と発音してしまう。「ム」の音から母音が消え、Mの音だけが残る。そうすると、それは表記上は「ム」だけれど音そのものは「ん」に近い。「ラムネのビン」のなかに「ん」が2回。「面前」にも「ん」が2回。それが響きあうのである。
 といっても、これは西脇が考えてそうしているのではなく、無意識にそうなってしまうのだろう。
 意味ではなく、音そのものをことばのなかに聞いてしまう。そして、その耳が「ステキ」ということばに「反乱」を迫っている、あるいは「反乱」を誘導しているようにも思える。音楽がことばを酔わせるのである。酔った勢い(?)で、ことばが、音そのものとして意味から逸脱していく。その瞬間の輝きが楽しい。

 西脇には、また次のような文体の音楽もある。最終連。

昨夜噴水のあまりにやかましきため睡眠不足を
来たせしを悲しみ合つた

 漢文風の文語文体と和語の結びつき。「ステキ」のなかには日本語とヨーロッパ言語の出会いがあるが、ここには日本語と漢語の出会いがある。そして、そういう異文化言語が出会うとき、そこでは「意味」が出会っているのではなく、「音」が出会っているのである。音と音とが出会って対話している。その音の楽しみ--音楽のなかへ、意味がすこしだけ間借りしている。
 このときの陶酔。快感。それを私は「音楽」と感じる。
 つづく4行もステキだ。

ピラミッドによりかかり我等は
世界中で最も美しき黎明の中にねむり込む
その間ラクダ使ひは銀貨の音響に興奮する
なんと柔軟にして滑らかな現実であるよ

 私は西脇のことばづかいの音響に興奮して目が覚める。



西脇順三郎絵画的旅
新倉 俊一
慶應義塾大学出版会

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ウディ・アレン監督・脚本「それでも恋するバルセロナ」(★★★★)

2009-06-30 00:31:46 | 映画

監督 ウディ・アレン 出演 スカーレット・ヨハンソン、ペネロペ・クルス、ハビエル・バルデム、パトリシア・クラークソン、レベッカ・ホール

 ウディ・アレンは女優のあつかいがとてもうまい。ウディ・アレンの映画に出演し、アカデミー賞主演・助演女優賞をとった女優は何人目だろうか。ダイアン・キートンが「アニー・ホール」で主演女優賞をとったのを筆頭に数人はいるのではないだろうか。ペネロペ・クルスは、この映画で助演女優賞を獲得している。

 映画はペネロペ・クルスが登場してからが、俄然輝きだす。
 特におもしろいのが、ハビエル・バルデムとの喧嘩。スペイン語でまくしたてる。そのたびに男は「英語で話せ。スカーレット・ヨハンソンに失礼じゃないか」という。男の方は適当にスペイン語で話している癖にである。ハビエル・バルデムは、簡単にいうと、その場しのぎで適当にことばを発している。自分の都合だけで、女と向き合っている。
 ペネロペ・クルスが登場するまで、2 人の女をその場その場で適当に口説いているだけ、というのが、この瞬間露骨に分かる。根っからのプレイボーイであることがわかる。
 これに対して女の方は3 人とも真剣なんですねえ。まともに男と向き合う。
 特に、ペネロペ・クルスが真剣。「英語で」と言われたら、スペイン語を英語に変える。だいたいスペイン語になってしまうのは、感情が高ぶって、思わず本心が出るとき。そうなるたびに、そのことばの暴走を抑えようとして、ハビエル・バルデムは「英語で」という。頭がいいというか、ずるいというか、ちょっと真似したい技術です。
 これは、ハビエル・バルデムがスペイン語でまくしたてるとき(スカーレット・ヨハンソンに聞かれたくないことをいうとき)、それに対してペネロペ・クルスが「英語で」と注意しないのと対照的。ぺネロぺがそう言わないのは、ハビエルがスペイン語を口にするとき、ぺネロぺにだけ向き合っていることがわかるからなんですねえ。自分に真剣に向き合って男が語りかけてくるから、そのことばが怒りや嘘であっても、女は正直に反応してしまう。
 このあたりの女心の的確なつかみ方、うまいですね。
 そして、ペネロペ・クルスがそれにこたえる真摯な演技。かわいいですね。怒りの表情のなかに、怒りを超えて愛情があふれる。こんなに好きなのに、という純粋さがあふれる。もともとペネロペ・クルスは美人だけれど、その美人さに純粋さが加わり、きらきら輝く。もしかしたら、ほんとうにやきもち、怒り? まあ、それもあるのかも。ペネロペ・クルスとハビエル・バルデムは恋仲らしので。――そういうことも含めて、ウディ・アレンは、役者に演技をさせるというより、役者にあわせて「役」を作っていくのかもしれない。
 ある意味では、これは「アニー・ホール」からつづくウディ・アレンのプライベートフィルムなのだ。ウディ・アレンは出演しないが、役者は「地」で出演する。もちろん、全員が「地」で出ることは難しい。そして「主役」が「地」の場合は、ストーリーそのものが「地」になる(「アニー・ホール」ですね)ので、ストーリーが限定されてしまう。脇役(助演)に「地」をからませると、ストーリーが脇からしっかり支えられ、映像に豊かさが加わる。映画作りそのものが、ウディ・アレンはとてもうまいのだと思う。

 バルセロナの街のとらえ方もとても美しい。バルセロナは一部の旧市街をのぞけば、マドリードと違ったとても人工的な街だ。アメリカでいえばニューヨーク。道路は整然と碁盤の目のようになっていて道に迷うようなことはない。そういう機械的な街で、そこから逸脱するように存在するガウディの建築物――その、いのちのほとばしりゆえの「ゆがみ・ねじくれ」の曲線と、恋愛4 角関係(?)をからませる。1 対1 の恋愛から逸脱してゆく感情と、ガウディの建物・公園がとても似合う。
 機械的なものから逸脱する力、それが美しい。恋も、逸脱するから輝く。

 もっとも、この映画で描かれる恋は完結しない。未完成。ちょうどガウディのサグラダファミリアのように。この終わり方も、いかにも「プライベートフィルム」的でいいな。完結すると、ストーリーになってしまうからね。
 ウディ・アレンは、この映画ではストーリーを描こうとしていない。スペイン、バルセロナをフィルムに定着させたかったのだろう。
 そして、それは成功していると思う。スペイン人気質の描き方が実に楽しい。真夜中まで開いているレストラン、さらに真夜中なのにバルセロナからオビエド(地中海側から北の大西洋に面した街)まで行ってしまうところなど、ひたすら逸脱する。スペイン人ならではの行動だろうと思う。スペイン人には時間も距離も関係ない。大切なのは「親密感」。人と人とが親密なら、それが複雑な関係でも関係ない。親密になれるなら何でもする。スカーレット・ヨハンセン、ペネロペ・クルス、ハビエル・バルデムの関係は、いわゆる三角関係だけれど、3 人の「親密感」があふれているから、それは三角関係にはならない。「理想」の関係になる。「親密感」が最高なら、それでいいじゃないか。きっと、そうなんだろうな。
 スペインはいいな。行きたいなあ。出会った人と親密になり、街をぶらぶらしたい。夜遅くまでワインを飲んで話し続けたい。そんな気持ちにさせられる。映画のストーリーはこの段階で関係なくなる。とはいいながら、きっとスペインには、ペネロペ・クルスみたいな美人がいる、そして親密な関係になれる、なんて勝手に夢見るのだけれど。

 音楽も、気楽で、とてもよかった。





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誰も書かなかった西脇順三郎(14)

2009-06-29 12:34:35 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「失楽園」は複数の詩で構成されている。その最初の「世界開闢説」の1連目。

化学教室の背後に
一個のタリポットの樹が音響を発することなく成長してゐる
白墨及び玉蜀黍の髭が振動する
夜中の様に もろもろの泉が沸騰してゐる
人は皆我が魂もあんなでないことを願ふ
人は材木の橋を通過する
ゴールデンバットをすひつつ

 漢語(熟語)がたくさん登場する。なぜ、漢語(熟語)なのだろう。リズムが関係しているのだと私は思う。漢語(熟語)の方が、音そのものとして輪郭が強いのだと思う。その輪郭の強さが、音を印象づけるのだと思う。
 「化学教室の背後に」と「化学教室の後ろに」を比較すると、前者の方が音が響きあう。「化学」と「背後」の濁音の呼びかけあいが楽しい。「後ろに」は、私には読みにくい。(実際に声に出して感じるのではなく、頭のなかでの感想だが--私は、音読をしないので。)
 一方、「化学教室の後ろに」というのは、もともと変な(?)表現であるようにも思う。「化学教室の背後に」という表現にひきずられて、思わず「後ろに」と書いてしまったが、普通はどう書くのだろう。どう言うのだろう。私なら「化学教室の裏に」と書く。言う。
 「背後に」は「後ろに」の言い換えではないのだ。
 あることばを、単に漢語(熟語)に置き換えて書いているのではなく、西脇は、音そのものに耳をすまして、そのうえでことばを選んでいるのだ。
 だから、「音響」は「音」「響き」の言い換えではないかもしれない。「成長」という単純なことばも何か違ったことばの言い換えかもしれない。そもそも、成長を、和語・やまとことば(?)に言い換えると、どうなる?
 「振動」「沸騰」は?
 意味ではなく、音が優先されてことばが動いている。

 漢語(熟語)が多用されるのに、なぜか、「人は皆我が魂もあんなでないことを願ふ」には、漢語がない。だから、とても印象に残る。ふいにことばがかわった、転調したという感じがする。
 次の行の、「材木」「通過」も傑作である。どれも日常的なことばではあるけれど、普通はそんなふうにはいわないだろう。わざと漢語にしている。「魂」などということばにふれてしまったことばを、わざと「おおげさなことば(あるいは、異質なことば)」をくぐらせることで軽くしているのだ。
 そして、軽くなったところで、さらにそれを加速させる。

ゴールデンバットをすひつつ

 私はたばこを吸わないけれど(吸ったことがないけれど)、このゴールデンバットという音の響きはとてもいい。気持ちよく感じる。「セブンスター」などでは絶対でない味がある。濁音がのばす音、つまる音を口語にひきつれてはじける。それはなぜか漢語(漢字熟語)の音に似ている。カタカナなのに、私はどこかで「漢字」を探してしまう。

 西脇の「音」はほんとうに不思議だ。


西脇順三郎絵画的旅
新倉 俊一
慶應義塾大学出版会

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水口京子「妊(はら)んだ蛇」ほか

2009-06-29 00:01:17 | 詩(雑誌・同人誌)

水口京子「妊(はら)んだ蛇」ほか(「どぅるかまら」6、2009年06月10日発行)

 水口京子「妊(はら)んだ蛇」は、一種の民話のような幻想。ことばの動きがやわらかい。前半部分。

にぶいうねり
うろこが艶めく
妊んでおるのかい
その胎に
児をば宿しておるのかい
そうやって
沼水の辺りを這いつづけて
ああ、おまえは
吾の児を妊んでおるのだな
いつかあのユメのうちに
おまえはわたしの白い胸の谷間に絡まりついて
乳をのむ仕草をしたよなぁ
幾度も。幾度も。

 夢の中の出来事が関係している。蛇は「わたし」の分身なのだ。身内なのだ。そのせいなのだろう、「おるのかい」「おるのだな」「したよなぁ」という気楽な口調でことばが動く。その響きの影響で、書かれている内容が異様であるにもかかわらず、ゆったりとした気持ちで読んでしまう。
 ほんとうは、「わたし」が「蛇」になりたいのだ。欲望が書かれているのだ。欲望だから、やわらかく伝えたいのである。

おまえたちは不可思議な生きモノだな
強い魂に感応して妊む
女に感応して雌が妊む
妊んだ蛇よや
乳のやり方を知っておるかい
うまれたら
連れてくるといい
この白い乳房を
おまえの児に授けてやろう
      ―――――――他言無用ぞ

 女の強い魂を妊娠し、出産したい。そのためになら「蛇」になる。そして、その生まれた強い魂を育てたい。女の強い欲望。「他言無用ぞ」がいい。自分に言い聞かせているのである。民話のような「語り」の世界に昇華させて、ゆっくりと「本音」をしのばせる。



 斎藤恵子の「音連れ川」にも「民話」のようなにおいがある。「るるっるるっ石が交叉するたび川が深くなっていく」の「るるっるるっ」がとても楽しい。水の力で石がまるくなっていく。そして、その丸くなるまでの長い時間のなかに、「女」の時間が堆積してゆく。長い時間のなかで、女も、水も、石も「るるっるるっ」という音の世界で溶け合うのだ。

わたしは手を合わせることも忘れ淵を覗く
ささの葉が舞いさがる
 ササブネ
 ササブミ
 サザナミ
女の子たちは振り向いて

わたしを見た
耳たぶをタニシに換え
しろい石あかい石ふるえている

 「音」を中心に、ササブネが違うものになる。「語り」の力である。「語り」は「騙り」かもしれないが、楽しい話ならだまされるのもいい。詩は現実ではなく、ことばの可能性なのだから。




無月となのはな
斎藤 恵子
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(13)

2009-06-28 14:22:54 | 誰も書かなかった西脇順三郎

恋歌

君は杏子の唇をもつたおれの牧場である
二つの青い千鳥が
君の目の静かな水面をかき乱す
さうしておれはおれの疲労した魂をその中で洗ふ

 もし西脇が視力の詩人だったら、書き出しはこんなふうにはならないだろうと思う。もっとイメージがわかりやすいように音の流れをととのえるだろう。
 西脇の詩には必要以上に音の乱れがある。不規則な運動がある。

さうしておれはおれの疲労した魂をその中で洗う

 この行の「さうしておれはおれの」は意味だけを考えれば「おれの」で充分である。「おれの疲労した魂をその中で洗う」だけで、「おれ」が「君の目」にうっとりしていることがわかる。
 しかし、そうすると、何かが違ってくる。もし、最初の4行が、

君は杏子の唇をもつたおれの牧場である
二つの青い千鳥が
君の目の静かな水面をかき乱す
おれの疲労した魂をその中で洗ふ

 という形であったら、イメージが速く動きすぎる。強くなりすぎる。ほんとうに書きたい行がどこなのか、錯乱するイメージの中で消えてしまう。
 「さうしておれはおれの」という間延びしたことばは、「わざと」間延びさせているのである。速いリズムのなかにわざと湯くりしたリズムを混ぜる。そうすると、そのゆっくりしたリズムの内に、過ぎ去ったことばが舞い戻ってくる。そのイメージが戻ってくるのを待って、もう一度イメージをすばやく動かす。
 「疲労した魂をその中で洗ふ」
 このことばのなかにも、わざと「ゆったり」したもの、過ぎ去ったことばを呼び戻す工夫がされている。「その」。指示代名詞。「君の目の静かな水面」を指すのだが、この「その」の先行するイメージを呼び戻すという働きのために、ことばがただ疾走するのではなく、ダンスのようなリズムになる。そして「洗ふ」というゆったりしたことばが気持ちよく響く。それは「さうして」というゆっくりしたことばのリズムとも響きあう。

 西脇はまたことばがもっている「平易さ」を有効につかってリズムの変化を創り出すとも言える。「さうして」「その」にそういう働きがあるが、また別の種類のものもある。 4連目。

彼女等は旅役者の偉大なる悲劇であつた
彼女等は黙考沈思する雲であつた
彼女等はメトロのガラス窓で夢みるのであつた
彼女等は可愛い馬鹿者であつた
彼女等は暑い掌中に溶解する雪であつた
彼女等は支那縮緬の薔薇の樹であつた
彼女等は雨の降る夕暮であつた
彼女等は露西亜人かブラジルの人であつた

 「沈思黙考」ではなく「黙考沈思」。不思議な漢語とかけ離れた「もの」の結合によるイメージの錯乱のなかにあって、

彼女等は可愛い馬鹿者であつた

という1行。誰でもがわかることば。その息継ぎ。西脇の音楽には、息継ぎがあるから苦しくないのだ。どんなに飛躍しても、それが苦にならないのだ。




詩人たちの世紀―西脇順三郎とエズラ・パウンド (大人の本棚)
新倉 俊一
みすず書房

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坂多瑩子『お母さん ご飯が』(2)

2009-06-28 00:08:30 | 詩集
坂多瑩子『お母さん ご飯が』(2)(花神社、2009年06月25日発行)

 「茂み」という作品がある。認知症の母がいる施設を訪ねたときの詩である。とても好きだ。その全行。

誰か知らない人の記憶のなかに立っている
夢を見る
そこは
緑がかっていて
停車場があり
ごくまれにだが 汽車がやってくる
今朝
施設にいる母のところに行った
 この人誰ですか
私を指さして看護師さんが聞く
母は
 私よ
とこたえた
天使は記憶を持っていいないと
昨日 本で読んだけれど
頭のなかにはつながっている線みたいなものがあって
どこで切れば
今だけになれるのか
なぜ帽子をかぶるのと聞くと
だって こっちのほうがあれだもの
ぼそぼそという
母のまわりにあるものはぼやけている
はっきりしたカタチのものは
なにもないが
すべてはっきりしたカタチを持っている
小さなものまでが自らのカタチを誇示している
私は
茂みに石を投げた
石は草の上に落ちるはずだったが
何かにあたった
澄んだ音をたてた

 「頭のなかにはつながっている線みたいなものがあって」の「つながっている」。これが、いまの坂多の「思想」である。
 すべては「つながっている」。
 それは1行目から6行目までが「夢」を描き、それにすぐ「つながって」、今朝、ときょうのできごとが語られるのに似ている。きっと汽車(電車)に乗って、「私」は母に会いに行った。そして、「夢」のなかの「誰か知らない人」として、「母」に会う。もちろん「母」は知らない人ではないが、認知症の母は知らない人のようだ。つながっているのに、つながってくれない。つながっていないように、そこに存在している。それは、母にとっても同じである。何とつながっていて、何とつながっていないのか、区別がつかない。いや、区別はついているのだが、その区別を、現実とつながっていることばでは言い表すことができない。現実とつながっていることばでは言い表せないけれど、自分の気持ちとつながっていることばでは言い表すことができる。自分の気持ちとだけつながっていることばで語ってしまう。

だって こっちのほうがあれだもの

 「こっち」も「あれ」も、母の気持ちとしっかり「つながっている」。そして、そのことばは、現実と、あるいは、現実を共有している他人とと言い換えればいいだろうか、自分以外の気持ちとは「つながっていない」。
 こういうことを、坂多は「カタチ」ということばであらわしている。
 ひとりの気持ちとだけしっかり「つながっている」ものはあるのだ。それは他人の気持ちとはつながっていないが、しっかり存在し、ときにはそれを「誇示」している。
 そして、その他人の気持ちとはつながっていないはずのものが、つまり、坂多から言い直せば、坂多のきもちとはしっかりつながっていないはずのものが、ときには、ふっと見えるときがある。

だって こっちのうほがあれだもの

といわれて、

あ、そうだね そっちのほうがあれだものね

 と反応する瞬間がある。
 それは坂多と母がどこかでつながっていて(血でつながっていて、と言ってしまうと簡単すぎて、きっと違うと思う)、その「つながり」が、読者にはわからない「こっち(そっち)」「あれ」を「はっきりしたカタチ」で見えてしまうのである。
 それは、茂みに投げた小石が何かにぶつかりカチリと「澄んだ音」を立てるのに似ている--坂多は、そう書いている。それが何かわかるのではないけれど、そこにカタチがあるものがあると、はっきりわかる。その「証拠」が「澄んだ音」として、坂多に「つながって」くる。
 それは「見えないつながり」である。見えないけれど、気持ちにはしっかりと実感できる「つながり」である。

 それは別ないいかたで言えば、「夢」と「現実」の関係なのかもしれない。
 冒頭に坂多は昨夜(今朝方?)みた「夢」を書いていたが、その「誰か知らない人」というのは、ほんとうにまったく知らないわけではない。知っているけれども、いま、ことばとして「名前」を持たないような人なのだ。坂多の気持ちの奥で、見えない糸で「つながっている」人なのだ。だからこそ、その知らない人の記憶のなかに立つことができるのだ。何の「つながり」もない人の記憶のなかになど立てない。そのときの「夢」の停車場も汽車も、坂多の何かとしっかり「つながっている」。
 そして、その「夢」の「緑」と最後の部分の「茂み」「草」にも「つながっている」。
 母と会話しながら、坂多は昨夜の夢を思い出している。あの夢は、いまの、この現実とどこかで「つながっている」とはっきり実感している。
 だからこそ、6行目と7行目のあいだに、「あき」がない。連のくぎりを明確にする1行あきがない。
 まるで、「今朝」以降の描写もすべて「夢」あるかのように読むことができる。
 たしかに「夢」かもしれない。ここに書かれていることがらは、坂多の「夢」ではなく、坂多の母が見ている「夢」であり、それを坂多が「代筆」しているだけなのかもしれない。
 そういうことが可能なのは、坂多と母がしっかり「つながっている」からである。「つながっている」という気持ちで「つながっている」からである。「つながっている」という気持ちで「つながる」とき、すべてのものは透明になる。もし、それが「ぼやけて」みえるならば、それは「透明すぎて」ものが見えないための錯覚なのである。見るかわりに、耳が「澄んだ音」をしっかり聞いているのだから。

 坂多と母がしっかり「つながっている」ように、視力と聴力もしっかり「つながっている」。「夢」と「現実」が「つながっている」ように、視力と聴力も「つながっている」。
 そんなことを考えた。


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誰も書かなかった西脇順三郎(12)

2009-06-27 15:00:54 | 誰も書かなかった西脇順三郎

紙芝居 Shylockiade

Prologus

はしばみの実に映る我が眼のささやきは
地獄の泉に吹く夕陽の影と知るか。
女は横臥はり草の中に燃えて涙は
遠き国へ滴り行くか。

 この書き出しはおもしろい。動詞(動詞派生の名詞を含む)のつかいかたが独特である。学校教科書にはないつかいかたをしている。
 「眼のささやき」。眼は、ささやかない。見るものである。
 「吹く夕陽の影」。「影」には「月影」「星影」など、「光」の意味もあるけれど、西脇は「光」の意味ではなく、文字通り「影」の意味でつかっているのだと思う。その「影」は吹くものではない。吹くのは風だ。
 普通とは違ったつかいかたをしている動詞。違ったつかいかたをすることで(そういうつかいかたに出会うことで)、文体意識はすこし乱れる。ひとつひとつの「ことば」はわかるけれど、イメージのひとつひとつが関節をずらされたように、脱臼したように、ガクガクする。
 文体が脱臼する。このとき、何を感じるか。ひとによって違うだろうけれど、私は「音楽」を感じる。新鮮なリズムを感じる。
 西脇の詩には、音が和声(ハーモニー)となってひろがる音楽と、リズムとなって揺さぶる音楽がある。学校の国語の文体が脱臼したときに感じるのは、リズムとしての音楽である。
 そして、文体が一度脱臼したあとの、

女は横臥はり草の中に燃えて涙は
遠き国へ滴り行くか。

 この「燃えて」の主語は何なのだろう。「女」だろうか。私には「涙」と感じられる。
 主語に対する述語の動詞が脱臼したものなら、それにつづく文体は脱臼の影響を受けて、構造そのものも脱臼する。
 この2行は、学校国語の文体なら、

女は草の中に横臥はり
涙は燃えて遠き国へ滴り行くか

になるのかもしれない。草の中に倒れて泣いている女。その熱い(燃える)涙は地獄の炎を越えて、さらに遠くまで流れていく--というイメージになるかもしれない。けれども、それではちょっとセンチメンタルすぎる。だから、文体を脱臼させて、ことばの運動をセンチメンタルから解放する。
 西脇の文体には、そういう魅力があると思う。

 西脇が学校国語の文体を越えるものをめざしていたことは、次の部分にあらわされていると思う。

我が言語はドーリアンの語でもないアルタイの言
である、そのまたスタイルは文語体と口語体と
を混じたトリカブトの毒草の如きものである。
学校の作文よ、にげよけれども女はこの毒草を
猪の如く好むことは永遠の習慣である。

 「文語体と口語体と/を混じたトリカブトの毒草の如きもの」。取り扱いを誤れば、死んでしまう。しかし、そこに毒があるから、ことばは詩になるのだ。

 ここに書かれている「口語体」ということば。これは、西脇の詩の特徴を宣言している。脱臼した文体の、不思議なことばを西脇は書くが、この脱臼は、ほんらい「口語」の特質のひとつである。口語の中では、意識は、飛躍したり、超越したりする。一種の無軌道を動く。文語は、そういう乱れをととのえ、わかりやすくしたものといえる。
 西脇の詩は、文語(文章)として読むと、飛躍が多くて意味・論理がとりにくい。けれど、それを口語と理解して読めば、ことばの運動がわかりやすくなる。「文章」として練り上げることよりも、意識の自在な運動、そのリズムそのものを西脇は生きている。


西脇順三郎コレクション〈第2巻〉詩集2
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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坂多瑩子『お母さん ご飯が』

2009-06-27 02:20:21 | 詩集
坂多瑩子『お母さん ご飯が』(花神社、2009年06月25日発行)

 坂多瑩子『お母さん ご飯が』は介護の日々をことばにしている。どきりとすることばがでてくる。「いらない」の前半。

あちこちから
いろんなものがはみだして
机の上から下から
コンパスとかチョコレートとか
母さんがあたしに文句を言っているみたいに
くしゃくしゃ
はみだしてきて
そんなとき
ものすごくあかるく咲いている花 見つけた
それで
もうすぐ母さんは死ぬ
と思った
母さんは
おかゆだけれど今朝もちゃんとご飯を食べて
トイレに行ったしテレビだって見てる
花は
たった一輪 それでも
母さんは死ぬんだって
あたしに思わせた

 「母さんは死ぬ」。そのことばが、まるで、コンパスやチョコレートのように、坂多の「肉体」からはみだしている。どこにそんなことばがあったのか。隠れていたのか。ほんとうはコンパスのように、机の引き出しの中にきちんとしまっておいたはずのことばなのに、それが、気がついてみるとふっと、はみだしている。
 こうしたことばを、正直に書くのはとても難しいと思う。
 不謹慎だから、というのではない。ことばというのは不思議な力をもっている。ことばにしてしまうと、現実がことばに合わせて動いてしまうということがある。「死ぬ」と言ってしまったから、死ぬのである。そして、あああのとき「死ぬ」なんてことばをいわなければよかったと後悔したりする。
 その一方、ことばのそういう不思議な力を逆に動かしたいという思いが誰のこころにもある。
 ことばにすれば、それが現実になる。そういしことは、たしかにあるけれど、一方で、ことばにしてしまえば、現実の方が、ことばなんかにひきずられないぞ、と反抗して、ことばどおりに動かないということもある。ことばどおりに現実が動くとしたら、そのことばを発した人は「超能力」をもっている。私はそういう能力をもっていない。だから、ことばにすればするほど、現実は遠くなる。--こういう場合の方が多い。ことばを裏切るのが現実なのだ。だから、「夢」はいっこうにかなわない……。そういう経験(?)というものにすがるようにして、あえてことばにする。
 「母さんは死ぬ」。言えば言うほど、それは「現実」ではなくなる。いつまでも母さんは生き続ける。だからこそ、「母さんは死ぬ」と2回書いてしまう。そこには、祈りがある。ことばが、現実によって裏切られてくれますように、という祈りがある。
 だから、この詩は美しい。「母さんは死ぬ」と書きながら、不思議な美しさをたたえている。

 けれど、ほんとうは、どちらがほんとう思いなのか、坂多にはわからないと思う。わかるのは、現実に母が死んだときだけだ。(こんなこと、つまり、お母さんの死について、他人の私が書いてしまうのは、なんだか申し訳ないことなのだけれどけれど……。)そのことは、坂多にはわかっていると思う。いまは、どちらなのか、わからない。わからないから、書かずにはいられないのだと思う。
 書くことで、何かを「はみださせたい」。はみだすものを見て、いまという瞬間に立ち止まりたいのだと思う。いま、を書くことで、しっかり時間を見つめたいのだと思う。死というのは、自分の死の場合、絶対に体験できないことというか、体験した瞬間に何がどうなったかわからないものに違いないが、それが他人の場合もまた同じである。「死んだ」ということはわかるが、死んでどうなったかは、わからない。生きているときのことしかわからない。
 そして、生きていくということは、何かを「はみださせつづける」ことなのだ。
 そして、その「はみだしたもの」は、だんだん、うまく整理がつかなくなる。もとの「引き出し」に戻ってくれなくなる。

母さんはときどきまだ文句を言う
言葉にすると
ひとつかふたつ
前みたいに
いろんなものがくしゃくしゃ交じりあわない
とってもシンプル
どこかでひょいと
ご飯もトイレもテレビもいらない
もういらないって
いらないよ
いらない
いらない
いらない

 「いらない」。それは、悲しい願いだ。「引き出し」(ということばを坂多がつかっているわけではないのだが、「机」から、私は「引き出し」を連想してしまう)に何もしまい込まなければ、はみだすものもない。もう、はみださせたくない。だから「いらない」。
 この「いらない」の繰り返しが、なんとも切ない。

 この詩で、もう一点。「もうすぐ母さんは死ぬ」の前に、とてもすばらしい行がある。「母さんは死ぬ」ということばについたとき、ほんとうは、この行から書きはじめるべきだったのかもしれない。

ものすごくあかるく咲いている花 見つけた

 これは、普通の日本語で書けば「ものすごくあかるく咲いている花を見つけた」になる。けれども坂多は「を」を省略している。助詞「を」をきちんと補って(?)ことばを動かす余裕がなかった。
 花をみつけた。あかるく咲いている花を見つけた。それと同時に「もうすぐ母さんは死ぬ」ということばがやってきたのだ。はみだしたのだ。
 正確な(?)日本語なら「を」が必要である。けれども、意識の動きは、日本語として正確であるかどうか(学校国語どおりであるかどうか)など気にしない。そういうことを追い越して動いてしまう。そして、この意識を追い越して動くことばの、その動きそのものが、「はみだす」ということにつながっている。「はみだす」というのは、正しくあろうとする意識を追い越す何か、その追い越しという運動の中にある。
 ことばは、私たちを追い越すことがあるのだ。
 それは現実を追い越すことがあるということかもしれない。ことばが先にあって、それを現実が追いかける。「母さんが死ぬ」といえば、現実がそのことばを追いかけ実現してしまう。そういうことがありうる。
 だからこそ、ことばが現実を追い越してしまわないように、追い越してしまったなら、そこで踏みとどまって、現実が急いで追いかけてきて、さらにことばを追い越してしまわないようにしなければならない……。

 この詩では、ことばと現実が、そんな具合に互いを牽制しながら動いている。

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スティーヴン・ダルドリー監督「愛を読むひと」(★★★)

2009-06-26 11:19:11 | 映画
監督 スティーヴン・ダルドリー 出演 ケイト・ウィンスレット、レイフ・ファインズ、デヴィッド・クロス、レナ・オリン、ブルーノ・ガンツ

 映画の、というかストーリーの重要なテーマは文字が読めないこと。文字が読めないという問題が重いために、他のテーマが見えにくくなる。文字が読めないだけではなく、他にも「できない」ことがある。「できない」ことが積み重なって、不幸が重くなるのだ。知る、知らない、できる、できないが重なり合って、不幸が重くなる。
 女はが文字が読めない。そして、それを打ち明けることが「できない」。青年は女が文字が読めないことを知った。けれど、それを裁判で訴えることが「できない」。女が重罪になるのを防ぐことが「できない」。重罪から救う方法を知っているのに、それを実行「できない」。
 女は文字が読めないと告白することができない。恥ずかしい。読めないと知られると人に侮蔑される。利用されることを知っている。実際に、利用されて彼女だけ重罪になる。それが知られれば、もっと彼女は侮蔑されるだろう--そう知っているので、彼女は何もできない。ただ、それを秘密にするだけである。女は、自分の文字を読めないという秘密を、罪を受け入れるという行為にすりかえて生きていこうとする。
 青年は? 彼は、何が恥ずかしいのだろう。25歳も年上の女性とのセックスにおぼれたこと? その女がいまナチの看守として裁かれている。そういう「罪」をおかすような女とのセックスにおぼれたという過去を知られること? そして、男は、自分の悩みを、「女は文字を読めないことを知られたくないと思っている。その思いを、尊厳を尊重すべきかどうか」という問題に置き換えてしまう。
 過去(秘密)を知られることを、2 人は恐れている。自分の秘密というか、過去を、別なものにすりかえてしまう。ここに、 2人の不幸がある。知っていること、知らないこと、できること、できないこと--その区別をあいまいにし、違うものにすりかえてしまう。問題を遠ざけ、問題が露呈しないことが「幸福」と勘違いする。
 ――この、前半部分は、私にはあまりおもしろくなかった。仕方がないのかもしれないが、ストーリーの展開が説明的すぎる。そして、ケイト・ウィンスレットの肉体の描かれかたが単調である。魅惑的な肉体、肉感的な肉体であるということに重点が置かれすぎていて、青年(少年)とのセックスが本の朗読を聴きたいという目的のためであることが、ていねいに描かれていない。肉体の奥にある渇望が絵か枯れていないからである。

 おもしろくなるのは後半である。

 女に朗読テープが送られてくる。そのとき、女は、青年が文字を読めないことを「知っている」(知った、気がついた)ことを知る。隠し続けた秘密を知っていることを知る。それは女にとっては恥ずかしいことなのだが、いままでの恥ずかしさとは何かが違う。青年は、女の弱点を利用しようとはしていない。同僚の看守たちが、女の秘密を利用したのとは違った形で彼女に接近してきていることを知る。
 ここからのケイト・ウィンスレットがすばらしい。
 秘密を知られることを彼女はひたすら恐れてきたのだが、その秘密を知っても、そのことにより女を侮蔑したり、またその弱点を利用して女を支配しようとしない人がいる。そういう「発見」をする。――そのとき、安心感というか、安らぎが彼女を包む。朗読テープを聞くことで、文学にふれることで、人間のこころのさまざまな動きを知る。知らなかった世界、心の豊かさを知る。そして、生きてゆく意欲が生まれる。
 女は、朗読テープを教材に文字を独学で「読む」ことを学び始める。「ザ」が「the 」であることを知り、本で「the 」を次々に見つけ出す。そのときの喜び。何かが分かることの喜び。彼女は、小説の主人公の性格分析までできるくらい(自分なりの感想をきちんとことばにできるくらい)にまで、本を読めるようになる。「知る」ということは、自分が自分ではなくなる、新しい自分に生まれ変わるということでもある。このときの、ケイト・ウィンスレットの表情がまぶしい。
 けれども、この喜びは絶望にもかわる。何かがわかるということは、自分にとってはかならずしもいいとはかぎらないことまでわかることでもあるからだ。文学をとおして、さまざまなこころを知った女。それは、いままで気がつかなかった男のこころを知ることへと繋がっていく。
 女は文字が読めるようになる。文字が書けるようになる。そして男に手紙を書く。だが、返事がこない。文字が書けるはずの男から手紙がこない。文字が読めるようになった、書けるようになったと知っているのに、手紙がこない。頼んでも、手紙がこない。
 そのことから、女は、男の「秘密」を知る。男は、女を、女が男を愛するようには愛してはいないということを知る。気がつく。女には、朗読テープを送ってくれることは愛の証に見えたけれど、そうではなかったということを知る。
 男にとって、朗読テープを送り続けることは、贖罪だったのだ。そして、彼が彼女を助けなかったことを知っている、と男は思っている。文字が読めないことを知らずにテープを送ってくるのではなく、知っていて送ってくる。それは、男が裁判の過程で、女がが文字が読めないことを知りながら、男が女を助けなかった、ということを知っているということでもある。それは、男にとっては、誰にも知られたくない「秘密」なのだ。
 女は、しかし、男を責めるだろうか。なぜ自分を助けてくれなかった、と責めるだろうか。文字を知った喜びの中で、男を純粋に愛している。男を信じ込んでいる。--男には、それがわかる。わかるがゆえに、男には、女の愛がつらい。
 その苦悩さえ、いまの女にはわかる。手にとるようにわかる。何冊もの文学を読んできて、ひとのこころの苦悩の揺れ動きが、彼女にはわかるのだ。男が女を純粋な形で愛せない--その事実を知って、女は生きることに耐えられなくなる。
 大切な大切な何冊もの本を踏み台にして、女は首吊り自殺をする。そのときの、本と、本の上の、裸足。荒れた肌。不格好な爪。ケイト・ウィンスレットのほんものの足であるかどうかはわからないけれど、きっとほんものである--と信じたい。
 それくらい、後半の、喜びと絶望に揺れるケイト・ウィンスレットの演技はすばらしかった。

 知らなくてできないこと。知っていてできないこと。できないということを知ること。それを知り、受け入れることの苦しさ。
 幾重にも折り重なる、知る・知らない、できる・できないのあいだで揺れる女を、ケイト・ウィンスレットはしっかり体現した。激しい動揺を内にとじこめ、肉体で表現するには、ケイト・ウィンスレットのような「しっかり」した肉体が必要だ。彼女のヨーロッパ風の肉体(ハリウッド風の肉体ではない)を活かした映画だった。




 DVDがすでに発売されているようだ。



愛を読むひと (ケイト・ウィンスレット、レイフ・ファインズ 出演) [DVD]



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誰も書かなかった西脇順三郎(11)

2009-06-26 07:16:16 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 「哀歌」の書き出しは不思議だ。

薔薇よ、汝の色は悲しみである。
髪はふるへる。
この晴朗の正午に微風が波たつ。
星の輪が風にふるへる。
我が心も見えざる星と共にふるへる。

 「晴朗の正午」に星が見えることはない。「星の輪が風にふるへる。」のも見ることはできないだろう。そうした見えないものを「見える」かのように書いたあと、すぐ「我が心も見えざる星と共にふるへる。」と西脇は書く。「見えない」のに「見える」かのように書いて、それを否定している。
 これは何のためだろう。
 「ふるへる」という音を書きたかったのだと、私は思う。「ふるへる」という音の繰り返しの中に、すべてが吸収される。矛盾はかき消える。そのとき、「薔薇よ、汝の色は悲しみである。」の「悲しみ」が「ふるへる」ように私には感じられる。「悲しみ」がふるえている。
 でも、この「悲しみ」とは何?

この晴天の首、この夏の眠り、
このトレミイは夏の草花の中に呼吸する。
彼の夢はトリトンの貝殻より反響する音に
触れて曲れる音を吹く。

 「触れて曲れる音」、その「曲れる」が「悲しみ」である。そして、「淋しさ」(淋しい)である。
 このことを、私は論理的に説明できないのだが、そう思う。
 「曲がる」はしばしば西脇の詩にでてくる「美」の基準である。まっすぐではなく、「曲がっている」(ゆがんでいる)。それは、何かからはじき出されてそこに存在する。はじき出されたものが、全体をながめる。その瞬間に、「淋しさ」が「美」としてあらわれる。
 「曲がる」は形である。視覚でとらえた世界である。けれど、私は、その「曲がる」を支えているものが、深いところで「音」のような気がしてならない。視力だけで「曲がる」(曲がったもの、ゆがんだもの)をとらえているとき、そこに「淋しさ」「悲しさ」があるかどうか、すこし疑問に思っている。視力ではないものが、その奥にあるとき、視力はその視力以外のものにふれて、「淋しい」「悲しい」「美」になるのだと感じてしまう。
 この詩でいえば、

触れて曲れる音を吹く。

 という1行の中にある「ふ」の音。それは「ふるへる」の「ふ」とも呼び合っている。「ふるえる」という音と、「曲れる」という音が呼び合い、それこそ私には「反響」している音のように感じられる。「ふるへる」ものは、その瞬間「曲がっている」という感じがする。まっすぐにふるえるのではなく、曲がってふるえる。
 それから、その行に先立つ「この晴天、この夏の首、この夏の眠り、/このトレミイは夏の草花の中に呼吸する。」の「この」のくりかえし、さらにいえば「の」のくりかえしも好きだ。「の」を中心にして(?)、存在が「曲がる」。まっすぐにことばが、音が動くのではなく、曲がりながら動く。「の」は曲がったところから、またもとへ戻るための「の」でもある。「の」がまっすぐにつながっていて、その「の」のあいだのものが曲がる。ふるえる。そして、それは「見える」だけではなく、「視力」に「音」として聞こえる。

 いま、私が書いていることは、論理でも説明でもなく、私の意識・感覚の錯乱なのかもしれない。けれど、その錯乱の瞬間、私は、とても気持ちがいい。
 この気持ちのよさは、私の場合、西脇を読んでいると起きる。

彼の思考は静かな宝石である。
彼のパイプの音は静かな宝石である。
彼の眠りは静かな宝石である。

 この「静かな宝石である。」のくりかえしも、私には、不思議な印象呼び起こす。「天気」の「覆された宝石」から遠く離れて、孤立している宝石を感じさせる。
 「覆された宝石」は「やかましい」。その「やかましさ」から離れて「静か」なのだ。それは「やかましさ」のなかにあって、「ささやいて」いるのだ。まったく別の音楽を。



 「天気」に戻っての、補足。

(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日。

 「覆された宝石」のすぐとなりに「ささやく」という「音」がある。「やかましさ」のとなりの「ささやく」。その異質な音の出会い。ここで出会っているのは、目で見えるものではなく、「音」なのだと思う。
 西脇は最初から「音」の詩人、音楽の詩人だと、私は思う。


西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)

慶應義塾大学出版会

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牟礼慶子『夢の庭へ』(3)

2009-06-26 00:04:27 | 詩集
牟礼慶子『夢の庭へ』(3)(思潮社、2009年05月31日発行)

 「夢の庭へ」という作品が、私はとても好きだ。私は牟礼のことを個人的には何も知らない。『夢の庭へ』を亡くなった「あなた」への相聞歌として読んでいるけれど、「あなた」がいつ亡くなったのか、そのことも知らないで私は書いている。
 「夢の庭へ」の1連目。

ふり向くな
制止の声に同意せず
わたしはあの日から
一本のネムの木だっだ
古い風と新しい風が
わたしの背中で入れ替り
今年のネムの花が
淡い紅の蕾を
梢に掲げるのを仰ぎ見ている

 この詩は私には「ほのかな紅を」と重なって見える。重ねて読んでしまう。
 ネムの木を見上げると、きっと「わたし」はひとりきりになる。世界から切り離されてしまう。世間の人は、そんなふうに「ひとりきり」になってはいけないと制止する(注意する)けれど、「わたし」はネムの木を見つめていたい。それは、きっと牟礼にとってとても大切な木である。「あなた」の思い出がいっぱいつまっている木である。「あなた」は「わたし」を「ネムの木」と呼んでくれたのかもしれない。きっと、そうだろうと思う。
 ネムの木を見上げ、「わたし」はひとりきりになる。「ネムの木」と呼ばれた懐かしい、いとしい時間。その瞬間にかえる。
 そして、「ひとりきり」の「あなた」に出会うのだ。「わたし」を「ネムの木」と呼んだとき、「あなた」は「ひとりきり」だった。つまり、「わたし」を「ネムの木」と呼ぶ人は、「あなた」以外にいなかった。
 そして、その「あなた」はこの世界から旅立って、別の意味で「ひとりきり」である。
 だから、「わたし」が「あなた」に寄り添う。そして、寄り添うとき、「わたし」は「あなた」になり(「ムネの木」と呼んでくれた「あなた」が「わたし」の中でいきいきとよみがえり)、「あなた」が「わたし」に寄り添うとき(「あなた」が「わたし」を「ネムの木」と呼ぶとき)、「あなた」のその声の中で、「わたし」がよみがえる。
 「入れ替」るとは、そういうことをいう。切り離せないいのちになる。入れ替わるとは、「一体」になることである。
 2連目。

遠くで鳴る
振鈴の合図に促されて
あの 夢の庭のほうへ
わたしは今日を歩き始める
わたしを誘うのは
わたしの腕でなく
誰の腕でもなく
若いネムの木だったわたしの声

 「若いネムの木だったわたし」。「わたし」と「ネムの木」が「一体」である。その瞬間と「いま」が「一体」になる。すべてが「ネムの木」とともに存在する。「ネムの木」をとおり、遠いむかしも、いまも、いまここにいない「あなた」も「一体」になる。
 この「一体感」を牟礼は、語りつづける。

この世に定められている時の掟
その境界の越え方を
わたしはいつ覚えたのだろう
向う側と
こちら側の風景を隔てて
整列している木々の淡い緑
非在の者と
存在する者とが
同じ場所に留まる術を
わたしはどこで学んだのだろう

 「あなた」との愛の暮らしで学んだのだと、私は教えてもらった。この詩集で、牟礼から。すばらしい愛の詩集だ。ありがとう。

日日変幻 (1972年) (現代女性詩人叢書〈6〉)
牟礼 慶子
山梨シルクセンター出版部

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誰も書かなかった西脇順三郎(10)

2009-06-25 10:08:38 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「Ambarvalia」は途中で転調する。

アー、愛の神がかりを受けぬ者は不幸なるかな。愛の呼吸をかけられるものは幸なるべし。

 「アー、」というカタカナの音。この変化に私はびっくりし、笑いだしてしまう。なぜ「ああ、」や「あー、」ではないのだろう。「アー、」は単純な詠嘆の声ではないのだ。音楽でいう「転調」そのものなのだ。
 それまでのことばが重い、不自由というのではないけれど、この「アー、」を境にして、ことばがいっそう軽く、自由に動き回る。

--愛の少年(クピードウ)よ、来れ。--我等は皆この愛の神を歌へ。各人は愛の神を越え高く家畜のために呼べ。しかし自分のためにはささやきで呼べ。声高く呼んでもよい、それは饗宴がやかましいから聞こえない。

 「ささやき」と「やかましい」の落差。
 (わたしの印象だけかもしれないが。)
 「ささやき」ということばの音は静かだが、「やかましい」はことばそのままに、音そのものが「やかましい」。破裂する。子音の動きの違いなのかもしれない。「ささやき・SASAYAKI」「やかましい・YAKAMASHII」。「ささやき」には「S」の音がふたつつづく。繋がっている感じがする。「やかましい」にはこの連続がない。ばらばらである。ばらばらであることが「やかましい」なのだ。
 「旅人かへらず」に「ああかけすが鳴いてやかましい」という行がある。(この行が私は大好きである。その「やかましい」が、こんなに早い時期につかわれていたことを知るのは楽しい。)そのときの「やかましい」は、「かけす」の声が、それまで「旅人」が考えていることとは繋がっていないからである。繋がりの欠如、ばらばらが「やかましい」。しかも、その「ばらばら」が繋がりを要求するから「やかましい」のである。
 この対極は「淋しい」である。あらゆる存在は「ばらばら(孤立)」。そして、それは繋がりを要求せずに、孤立する。個として存在する。そのとき「淋しい」が美しくなる。
 「やかましい」のあとに、次の行がある。

曲つたパイプはフリヂアの音楽で汝の祈祷が消されるから。

 「やかましい」の対極にあるのが「曲つたパイプ」である。それは「淋しい」。

 西脇の「淋しい」は「やかましい」の対極にある。それは「音」のありかたと結びつけるとわかりやすくなる、と私は思う。



西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)

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牟礼慶子『夢の庭へ』(2)

2009-06-25 00:53:09 | 詩集
牟礼慶子『夢の庭へ』(2)(思潮社、2009年05月31日発行)

 牟礼慶子『夢の庭へ』はどの詩も美しい。相聞とはこういうことかと、あらためて思う。「ほのかな紅を」の3連目。

別れの手も振らず
背中を抱きもせず
わたしの夢の中だけで
静かに生き続ける人よ
夢の中では
ひとりとひとりきりになって
わたしはあなたに寄り添っています

 人が生きるとき、そこには複数の人がいる。けれど、「あなた」と会うときは、それぞれが「ひとりきり」なのだ。ひとりとひとりが会えば「ふたり」というのが算数の世界だけれど、「ふたり」になってもふたりはひとりきり。このひとりきりはかけがえのない「ひとり」である、ということだ。つまり、「あなた」に会ったとき、「わたし」はもう「わたし」ではない。ただ「あなたに寄り添う」だけの人間。「寄り添う」ことで、「わたし」をではなく「あなた」を生きるのだ。きっとそのとき、「あなた」はやはり「わたし」に寄り添って「わたし」を生きている。ふたりはふたりであることによって、いっそう「ひとりきり」になる。
 そこでは、ことばは、どんなふうに動くのだろう。それは、「ことば」にはならない。ことばになる必要がない--と言い換えるべきか。

枝を揺すり続けている
せわしない時間のいとなみ
夢の残像のように
すぐに消えてしまう言葉で
あなたは絶えず語りかけてくれます
今もわたしを呼び続けていてくれます

あなたもどうぞ聴きとってください
わたしがあなたを呼び続ける声を

わたしの梢を吹き抜ける風も
わたしの空を流れる雲の列も
どれも
あなたが贈ってくださる
何よりも懐かしい挨拶なのです

 「すぐに消えてしまう言葉」。その「声」。それは、風や雲となって動いている。風や雲は「ことば」をもたない。もたないけれど、その動きが「言葉」となってとどく。
 風を見ても、雲を見ても、「あなた」がそこにいることがわかる。風を見るとき、風を見る「わたし」に「あなた」が寄り添うが、それはほんとうは、風を見る「あなた」に「わたし」が寄り添っているのだ。
 何か見ること--その「こと」のなかで、ふたりは「夢の中」と同じように寄り添い、互いを生きている。「ひとりとひとりになりきって」いる。
 そのと、見たものすべてが「懐かしい挨拶」になる。
 
 この「言葉にならない言葉」を牟礼は「沈黙」と呼ぶ。「ことば」をかわさない。そして、ことばをかわさないことが、ことばをかわすことなのだ。かわさなくても、わかりあえる。挨拶をしあえる。それが愛である。

内なる沈黙を
少しずつ染めている花の蕾
その まだほのかな紅色を
たくさんの言葉の蕾を
わたしは あなたに贈り続けます

 ことばは沈黙と向き合い、そのなかで「言葉」になる。いや、「愛」になる。「言葉の蕾」を贈るのではなく、「愛の蕾」、「愛」そのものを贈るのだ。「贈り続ける」のである。
 そして、この「続ける」にこそ、ほんとうの愛がある。



牟礼慶子詩集 (現代詩文庫)
牟礼 慶子
思潮社

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誰も書かなかった西脇順三郎(9)

2009-06-24 07:23:15 | 誰も書かなかった西脇順三郎

カリマコスの頭とVoyage Pittoresque



海へ海へ、タナダラの土地
しかしつかれて
宝石の盗賊のやうにひそかに
不知の地へ上陸して休んだ。

僕の煙りは立ちのぼり
アマリリスの花が咲く庭にたなびいた。
土人の犬が強烈に耳をふつた。

千鳥が鳴き犬が鳴きさびしいところだ。
宝石へ水がかかり
追憶と砂が波うつ。
テラコタの夢と知れ。

 この詩のなかには、「ギリシア的抒情詩」に書かれたことばがたくさん出てくる。「宝石」は「天気」の書き出しの「宝石」である。「僕の煙り」は「カプリの牧人」の「我がシシリヤのパイプ」である。「水」は「雨」である。存在のすべてをぬらし、「わたしの舌」をぬらした「雨」である。この詩はの「あとがき」のようなものであるかもしれない。
 興味深いのは「千鳥が鳴き犬が鳴きさびしいとこだ。」という行である。「さびしい」が登場する。西脇の詩の重要なことばだ。
 「さびしい」とは何か。
 「さびしい」の前の連の「土人の犬が強烈に耳をふつた。」が「さびしい」をひきだしたことばだと思う。
 「僕」がパイプを吹かす。煙がアマリリスの庭に流れる。犬が耳を振る。「パイプ」「アマリリス」「犬」には何の関連性もない。そこに、別個のものとして存在し、出会うだけである。この「無関係」の関係が「さびしさ」である。
 犬が耳を振るとき、犬が耳を振らなければならない理由は、「僕」とはまったく関係がない。他の何かと関係している。「土人の犬が強烈に耳をふつた。」の「強烈に」は文法的には「ふつた」にかかるが、意識的には「強烈に無関係に」という意味になる。無関係さを西脇が「強烈に」感じたのだ。
 「犬」が「さびしさ」の起点であるからこそ、「千鳥が鳴き犬が鳴きさびしいところだ。」と、3連目ですぐに「犬」が繰り返される。そして「千鳥が鳴き犬が鳴き」という描写は、感情とは関係がない。人間の感情とは関係がない。むしろ、人間の感情をふりすてる。

 感情を捨てる--すると、そこに「さびしさ」があらわれる。
 それは「Ⅱ」の部分に、より鮮明に描かれる。

宝石の角度を走る永遠の光りを追つたり
神と英雄とを求めてアイキユロスを
読み、年月の「めぐり」も忘れて
笛もパイプも吹かず長い間
なまぐさい教室で知識の樹にのぼつた。
町へ出て、町を通りぬけて
むかし鶯の鳴いた森の中へ行く。

 感情を捨てたあとは、「知識」も捨てる。その「無」のなかへ「さびしさ」はやってくる。感情も知識も拒絶するもの。そこに存在することで感情と知識を拒絶する力。それが「さびしさ」である。


西脇順三郎コレクション〈第6巻〉随筆集
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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牟礼慶子『夢の庭へ』

2009-06-24 00:03:06 | 詩集
牟礼慶子『夢の庭へ』(思潮社、2009年05月31日発行)
 
 牟礼慶子『夢の庭へ』を読むと詩人とは「ことば」を生きる人間なのだとあらためて思う。「わたしを呼んでください」の1、2連目。

あれはあなたですか
今日も
空の高みから聞こえてくる風の声
ひゅうひゅうと
わたしを呼んでいるあの声

あなたとわたしは
今はもう 手をつなぐこともなく
どこまでも漂う
闇のひだに隠れながら
言葉で結ばれようと願っています
聞こえても聞こえても
更なる声を待ち侘びているのです

 亡くなった「あなた」と「わたし」。「手をつなぐ」ことはもうない。今は「声」で繋がっている。声が聞こえる。その声を牟礼は「言葉」にしたいと願っている。「わたし」が「あなた」の「声」を聞き取り、それを「言葉」にするとき、ふたりは「言葉で結ばれる」。

 「声」があることろに、必ず「ことば」があるわけではない。牟礼はそのことを強く意識している。

永訣の深更
走り続けた病棟の廊下
たどりついたわたしを
凛とした高い声で呼び
再び大きく息をととのえ
何か伝えたげだったもうひとことは
もはや声にはできませんでした
あなたの声で渡してくださった別辞
わたしの耳でしか
受け取れなかった最後の挨拶

 「わたしの耳でしか/受け取れなかった最後の挨拶」。このときの「わたしの耳でしか」というのは、単に牟礼にしか聞けなかったということではない。重要なのは「わたしの」はもちろんだが、「耳」なのだ。
 「耳」は「声」を聞いた。それは「声」にもならない「息」だった。そして、その「息」のなかには、「声になる前の声」があり、その「声になる前の声」の奥には「ことばになる前のことば」がある。それは「肉体」と未分化の声であり、「肉体」と未分化のことばである。それはたしかに、同じ時間、同じ空間を、いや、同じ愛を生きた「肉体」にしか受け止めることのできない「声」であり、「ことば」である。
 それはもちろん、その状態のまま、つまり「肉体と未分化の声」「肉体と未分化のことば」であっても、充分に、深い愛のあかしとして、そこにある。特に、「肉体」が「いま」「ここ」にあるときは、それは「未分化」のままでも充分である。「未分化」であるからこそ、「肉体」が触れ合いながら、その「未分化」のものを交流させることができる。
 けれども、「いま」「ここ」にあるのは、ふたりの「肉体」ではない。「あなた」の「肉体」は「いま」「ここ」にはない。

あなたの声でしか語れないこと
わたしの耳でしか聞えないこと

 この「肉体」のかわす相聞。それは充分に美しい。切実だ。けれども、牟礼はそれを「言葉」にしたいと思っている。「声」と「耳」で結ばれるのではなく、「言葉で結ばれる」ことを願っている。
 なぜか。
 「言葉」にすれば、「あなた」が生き返るからである。「わたし」の「言葉」のなかに、「あなた」が「言葉」として生き返ってくるからである。「言葉」はふたりで生み出す愛そのものなのだ。そして、「肉体」が消えたあとも生き続けるものだからである。それは「肉体」を超える「いのち」なのである。
 「あなたの声でしか語れないこと/わたしの耳でしか聞えないこと」も愛なのだが、それが愛でありうるのは、牟礼が、いま、ここに、こうして2行のことばにしているからなのだ。

 ことばを書く度に「あなた」は生き生きと生まれてくる。その「あなた」に「わたし」は「ことば」をとどける。それは「あなた」からもらった「ことば」である。「あなた」からもらった「ことば」が「わたし」の肉体を通って、いま、こんな形で生まれてきている。それを正確に書き留めること--それが牟礼の愛である。それを永遠に向けて育て上げる。それが牟礼の愛である。

 ひとりで書き上げる美しい相聞歌である。



夢の庭へ
牟礼 慶子
思潮社

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