西脇の頭のなかをかけまわる音楽。それは、無というか、一種の空白(空、白)のようなものかもしれない。無、空、白--それが、いま、ここにないものを誘い出す。そして、そのときの「白」の印象が絵画的(色彩的)な何かをも同時に誘い込むのかもしれない。
「失楽園」のなかの「風のバラ」。その3連目。
ラムネのビンは青い おれの面前で
クレベルの本屋の主人がステキに悲しんでゐる
この連の2行目。「スキテ」が、私が「無・空白」と呼ぼうとしているものである。「すてきに悲しむ」という表現は日常のことばの運動から逸脱している。悲しみ(悲しむ)とすてきは、ふつうの感覚では結びつかない。どちらかといえば、対極にあることばである。その結びつき自体が、私たちに、ことばの運動の見直しを迫る。
一瞬、何のことかわからなくなる。
「ステキ」も「悲しんで」もわかるのに、そのふたつが結びつくとき、何が起きたのか瞬間的にわからなくなる。頭のなかで、それまでの「文体」が脱臼を起こしてしまう。脱臼というのは結びついていた関節と関節が外れ、関節と関節のあいだの関係が「無」になる、関節と関節のあいだに「空白」が生じることをいう。そして、その脱臼の瞬間、いままでしっかり連動していた関節と関節が、意識できない領域へ飛躍する。
その「文体」の錯乱のようなもの--それに対して、私は「音楽」を感じる。
なぜ、音楽、なのか。
たぶん、そのときの「ステキ」が意味ではなく、音としてしか信じられないからなのだと思う。そこには音だけが、音として純粋にある。
西脇は「ステキ」とカタカナで書いている。それは、意味不明な外国語、音だけで意味を持たない外国語のように響いてくる。クレベルの本屋の「クレベル」のように。「クレベル」にも意味はあるかもしれないが、その意味を越えてただ「クレベル」で充分である。「ステキ」も同じだ。「ステキ」と書きながら、西脇は「外国語」の音の響きを聞いているのかもしれない。意味になる前の、つまり、意味の中断した「音」を聞いているのかもしれない。--この意味と音との脱臼。無関係性。それが音楽だ。
こうした音楽が、西脇の詩には頻繁にあらわれてくる。
西脇の音へのこだわり(?)というか、不思議な感覚は、その前の行にもある。
「ラムネのビンは青い」という素朴なことばのあとの「面前」ということばの響きあい。意味はわかる。そして、その意味を超越して「めんぜん」という音が「ラムネのビン」と響きあう。
「ラムネ」を西脇は、どう発音したのだろう。私は「RA・M・NE」と発音してしまう。「ム」の音から母音が消え、Mの音だけが残る。そうすると、それは表記上は「ム」だけれど音そのものは「ん」に近い。「ラムネのビン」のなかに「ん」が2回。「面前」にも「ん」が2回。それが響きあうのである。
といっても、これは西脇が考えてそうしているのではなく、無意識にそうなってしまうのだろう。
意味ではなく、音そのものをことばのなかに聞いてしまう。そして、その耳が「ステキ」ということばに「反乱」を迫っている、あるいは「反乱」を誘導しているようにも思える。音楽がことばを酔わせるのである。酔った勢い(?)で、ことばが、音そのものとして意味から逸脱していく。その瞬間の輝きが楽しい。
西脇には、また次のような文体の音楽もある。最終連。
昨夜噴水のあまりにやかましきため睡眠不足を
来たせしを悲しみ合つた
漢文風の文語文体と和語の結びつき。「ステキ」のなかには日本語とヨーロッパ言語の出会いがあるが、ここには日本語と漢語の出会いがある。そして、そういう異文化言語が出会うとき、そこでは「意味」が出会っているのではなく、「音」が出会っているのである。音と音とが出会って対話している。その音の楽しみ--音楽のなかへ、意味がすこしだけ間借りしている。
このときの陶酔。快感。それを私は「音楽」と感じる。
つづく4行もステキだ。
ピラミッドによりかかり我等は
世界中で最も美しき黎明の中にねむり込む
その間ラクダ使ひは銀貨の音響に興奮する
なんと柔軟にして滑らかな現実であるよ
私は西脇のことばづかいの音響に興奮して目が覚める。
西脇順三郎絵画的旅新倉 俊一慶應義塾大学出版会このアイテムの詳細を見る |