詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

安水稔和「道の辺の」、佐々木幹郎「静止点」

2015-01-30 10:14:55 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
安水稔和「道の辺の」、佐々木幹郎「静止点」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 安水稔和「道の辺の」(初出『有珠』2014年10月)は菅江真澄の足跡を追いつづける。菅江は何をしたか。(引用ではルビを省略した。)

有珠を立ち
道々。
道の辺の草々を手に
その名を問えば。

 萩  シケツプ
 芒  カバル
 藜  シルナキ
 木賊 ビシビシ

 その土地で草がどう呼ばれているかを尋ねて、それを記録した。そういうことを安水はどんな批評もくわえず、ただ書き記している。確かめている。
 このとき、安水は「菅江」になっているのか、その土地の人になっているのか。「菅江」になって、土地の人に聞いている。「菅江」の耳を反芻している。単純に考えると、そうなるのだが、私はときどき、そこから逸脱してしまう。
 「菅江」になって草の名前を聞き取りながら、次第次第にその「土地の人」になっていく。「シケツプ、カバル、シルナキ、ビシビシ」と繰り返していると、見なれた草が新しく生まれ変わっていく。その「土地の人」になって、草を見つめていることに気づく。「土地の人」に「なる」というのは「土地」になること、その「土地」がへてきた時間そのものに「なる」ことだ。

風が立ち
日が傾き。
道の辺の立木を仰ぎ
重ねて問えば。

 柳   シユシユニ
 榛   ホウケルケニウチ
 黄檗  シケンべ
 山胡桃 ニシコ

 「土地」「人」と一緒に、「土地」「人」を超え、「時間」になるとき、「風」はもうその土地という限定を超えている。「日が傾く」というのはどの土地でも起きる。その傾きは土地土地によって違うけれど、「日が傾く」という動きは同じ。それと同じように「風が立つ」という動きも土地の限定を超える。そして、「名前をつける(名前で呼ぶ)」ということも、その「土地」「人」と一緒にありながら、「土地/人」を超える。「人間」という存在の普遍的な「動詞」となる。
 普遍の風と光のなかで、ことばが動く。
 普遍の「人間」になりながら、安水はまた、「菅江」になり、土地の人になり、土地そのものになっていく。その往復。そんな姿を感じる。止まることのない静かな、そして強い「動詞」が隠れている。



 佐々木幹郎「静止点」(初出「イリプス Ⅱnd」14、2014年11月)。
 「スクティ」と呼ばれる羊の干し肉を舐めながら標高五千メートルの土地を歩いている。スクティの描写が簡潔で美しい。

歯で齧らず 舐めている
枯れきった肉に溶けているもの
ターメリック コリアンダー 唐辛子

 どこの土地とは書いていないのだが、私はネパールとかヒマラヤとか、アジアの山岳地帯を想像した。
 後半は、スクティを舐めると滲み出てくるものが「肉体」のなかに入って、そこでことばになって動く感じがする。

何度も山道で
突然湧き出てきた白と黒の羊たちに取り囲まれた
「人間など やめちまえ!」
「どうせ死ぬだけだ」
角を突き立て 口々に羊たちはわめき
流星のように走り去り
残されたわたしは
スクティを舐めた
魂が破れる 辛い かすかな音がして

 私は「魂」というものが自分のなかにあると感じたことがないし、自分の外にも感じたことがない。「魂」ということばをつかって何かを書こうと思ったことはないのだが、自分というものが「破れる」と感じたことはある。「肉体」がぱっと破れて、四方に開かれる。「肉体」が消えるという感じ。
 佐々木は「魂」と書いているのだが、私は、そこに書かれている「破れる」を手がかりに、自分の感覚を重ねてみた。そういう「こと」、そういう「瞬間」はたしかにある。
 そういうこと、そういう瞬間というのは……

「人間など やめちまえ!」
「どうせ死ぬだけだ」

 この部分。自分ではないものの「声」が突然襲ってきて、私を「破る」。
 誰の声?
 佐々木は、ここでは「白と黒の羊たち」と書いているが、羊は日本語を話すわけではない。
 佐々木の、自覚できなかった声、無意識の声。そして、その声は羊と出合ったとき、突然、聞こえた。佐々木が羊になっている。羊になっているから、羊の「ことば」がわかるのだ。
 「人間」である佐々木が破れた。「人間」が破れた。その「人間」を佐々木は「魂」と呼んでいる。
 「魂」が破れるとき「辛い」かすかな音がするのは、佐々木の舐めている「スクティ」の香辛料の味が「辛い」からだろう。佐々木は、佐々木を取り囲んだ「羊」と一体になっているだけではなく、その羊がその後なるだろうスクティにもなっている。羊の「一生」になって、生きている。その「一生」は死んで食べられるというのではなく、食べられて誰かの「肉体(魂)」になる、というところまで含んでいる。
 「羊」になったあと、佐々木は、さらに変わっていく。

崖の下から熱い砂嵐が襲ってくる
目をつぶると
馬も耳を垂れ 四つ足を垂直にして
目をつぶる
地上から 浮いていることがわかる
馬とともに
崖の上の山道で わたしは風に溶けた

 砂嵐のなかで「目をつぶる」、そのとき「馬」も「目をつぶる」。馬に乗っていたのかもしれないが、砂嵐に襲われて、佐々木は馬から下りて立っているかもしれない。「四つ足を垂直にして」というのは馬の描写だが、このとき佐々木は二本の足を垂直にしている、ふんばっているのだろう。「足を垂直にして立つ」「目をつぶる」という「動詞」のなかで「肉体」が馬と同化する。一体になる。そして、馬と一体になった佐々木は、そのとき「自然」そのものとも一体になる。風になる。羊→馬→自然(風)。この自然は「宇宙」と言いかえることができる。
 「魂」が「破れ」、「風」に溶ける(風と区別のつかないもの、風そのものになる)ことで、佐々木は、「宇宙」に「なる」。
 こういう瞬間を、この村の人たちは……

村人たちはみな
祖先が猿であることを誇っている

 という具合に言っていた。(引用の順序が逆になってしまった。)
 「人間」という「枠」をとっぱらう。「人間」という「枠」にこだわらない。「いま/ここ」に「ある」。「ある」とき、人は何かになっている。何になるか、こだわらず、「なる」が自在に動くとき、そこに「宇宙」があらわれる。動物とひとつづき、連続している、動物と一体であるというのは、それだけ「宇宙」に近い。だから「誇り」である。
 いいなあ。
 詩のタイトルは「静止点」。この「静止」は、止まっているというよりも、どこへでも動けるという「静止」だ。「自在」をささえる「静止」、ある動き(ベクトル)にこだわらない感じ、こだわりを「破る」瞬間だ。「点」であるけれど「宇宙」全体でもある。遠心と求心が合体した瞬間としていの「点」だ。
 アンソロジーの最後をしめくくるのに最適な詩だ。

明日
佐々木 幹郎
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藤原安紀子「ヲカタ カタン」、文月悠光「無名であったころ」、安田雅博「製材所の跡地」

2015-01-29 10:07:18 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
藤原安紀子「ヲカタ カタン」、文月悠光「無名であったころ」、安田雅博「製材所の跡地」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 藤原安紀子「ヲカタ カタン」(初出「びーぐる」25、2014年10月)は何が書いてあるのかわからない。タイトルが何語なのかもわからない。

みちのくわ地にまき来る よほう師の群れをみると ぼくはたってねむる
均等に 丘ごもり するためだ

 書き出しの2行だが、読んで情景が浮かぶのは「ぼくはたってねむる」。主語、述語のつながりが納得できるからである。
 ただし、「意味」は「わかった」とは言えない。直前の「よほう師の群れをみると」の「みると」は「見る」だと思うのだが、「見ると」「ねむる(眠る)」が対立(?)する動詞なので、私は悩んでしまう。
 「見る」のをやめて「眠る」のか。
 「みる」と「ねむる」の関係、切断/接続がわからない。「ねむる」と次の「丘ごもり」の「こもる」は「接続」がわかる(かってに「誤読」できる)。「ねむって/こもる」。冬眠のような「こと」を想像する。そう「誤読」する。
 私は、詩は「ことばの切断/接続」の関係のなかにあると思っている。あることばが別のことばと結びつくとき、それまでの関係を断ち切り(切断)、新しい関係を結ぶ(接続)。その「新しさ」が詩だと感じている。「誤読」の可能性が詩だと感じている。
 切断/接続がわからないと、お手上げ。
 また、どんな国のことばでも「動詞」が基本だと思っているので、その動詞の関係(何を切断し/何を接続するか)がわからないと、そこに書かれていることばについていけなくなる。
 藤原に言わせれば、切断/接続がわかってしまうと、それは詩ではなく「論理」になってしまうのかもしれない。「論理」にならない状態の発語、観念を経ない発語こそが詩であるということかもしれない。
 「論理」というのは、どうしたって「観念」。
 「観念」の世界では、「論理」なしでは何事も起きない。叙述できない。--これを逆手にとって、「論理」なしで何かを叙述すれば、それは「観念」ではなく、「観念」以前のことば、詩になる、ということかもしれない。
 そういうことは、考え方としてありうるかもしれないけれど、私はどうも納得できない。

こうして旋回時間のきやくが わからない川縁を歩き ふんぬして投球する
いくたびも胸打たれ ふりしぼって掴み 夏の木の葉にぶら下がる

 「きやく」「ふんぬ」は「規約」「憤怒」だろうか。「客」ということばも不意に浮かんでくる。「投球する」も「ぶら下がる」もほかの「歩く」「ふんぬする」「打たれる」「ふりしぼる」「掴む」も動詞としてわかるのだけれど、それを私の肉体でつないでいくとき(その動きを想像してみるとき)、それが一続きにならない。どういう「感情」がそれだけの動詞を接続させているのか、わからない。「誤読」できない。
 藤原にとっては、「動詞」さえ、ばらばらにばらまくことができる「名詞」なのかもしれないなあ。名詞をあらゆる「こと」から切断し、「ここ」に集めてみせるとき、その多様性が詩であるということかな?



 文月悠光「無名であったころ」(初出「ユリイカ」2014年10月号)にもわからないところはあるが、藤原の詩を読んだあとだと、全部「わかる」と言いたくなる。「接続」が多い。

音を拾いはじめたマイク、
きみは忠実に話す。
これはテストではない。
落とされた影、
光はもう降りそそいでしまった。

 どこかで「きみ」が話している。マイクに声が拾われているのだから、広い会場だろう。「落とされた影」は「影」をつくるライト(光)を浴びているということだろう。「テスト」ではなく「本番」だ。
 そのあと(散文形式の3連目)に、

吸って吸われて空気、歪みはじめている。

 という魅力的なことばがある。魅力的と感じるのは、1連目のライトを浴びて何事かを話しはじめた「きみ」が、(あるいは「きみのことば」が)、変化しはじめるということに通じるものがここに書かれていると「誤読」できるからである。「誤読したい」という欲望をそそるからである。ことばは接続/切断を繰り返すから、それはどうしたって「客観的な世界」とは別の「きみの世界」(固有の世界)になる。その「固有」というのは「歪み」である。
 この「固有の世界」の誕生は、そのまま「神話」でもある。

まぶたをおしあげる力が
この星をかたちづくった。
空が、月が、海が、できていくのを
わたしたちは尾を振りながら見ていました。
土と契約し、
雨と契約し、
風と契約し、
記述できないまなざしを交わし合った。
世界が無名であったころ、
わたしたちの血は
見えない宇宙にも流れていた。

 その「契約」が、文月にとっては詩ということになる。世界との固有の契約(文月語によって書かれた契約)--それが、詩。



 安田雅博「製材所の跡地」(初出『跡地の家族たち』2014年10月)は文体(思想)がおもしろい。独特である。製材所には当然のことだが材木があった。そして、そこでは人が働いていた。跡地に立って、その消えた人と材木を思っている。

何十万本何百万本の脚の踏み固めた地面を呑み込んでいる跡の更地に
層をなして積もる踏んだ一歩一歩の時間の残滓の上に 用済みになり
いなくなった人たちの 材木に取り付く何本もの手 押して進む何本もの脚
吐く息 前方を見つめる目
人も物も 下方から支えていた空無の底へ あるともないとも知れないところへ
落下している
「人」は<ノ>と<逆ノ>に
「木」は<十>と<ノ>と<逆ノ>に
「材」は<十>と<ノ>と<、>と<才>に 砕かれ
名前のないあらゆるものとともに

 「存在」(ひと/もの)が「存在」そのものとしてではなく、いったん「漢字」でとらえれらて、そこからことばが動いていく。「存在」が「観念」になって、その「観念」を「漢字」の構造(部分?)から見つめなおしている。「ノ」というカタカナや読点「、」まで登場するのだが、うーん「ノ」「、」かと私はうなってしまう。私は「木」の三画目を「ノ」と思ったことはなかったし、「材」の四画目を「、」と思ったことはない。「、」ではなく、安田の表現にしたがえば「逆ノ」だろう。「材」の「部首」は「木」だろう、と思ってしまう。
 私は、見える形と、その形が内包している「意味」は違うと考えている。「形」そのものがすでに「意味」によって変形させられている。合理的に処理されている。だから「形」から「意味」を探るときは慎重さが必要だと考えている。ところが、安田は「形」が内包している「意味」(「材」の部首は、「木」というようなこと)をとっぱらって見ている。「意味」なんかなかったという具合に見ている。「時間の残滓」ということばが出てくるが、「意味」をとっぱらってしまうと、それは「意味」をつくるときに捨ててきた「残滓」のように見えてくる。
 「残滓」を見つめながら、「残滓」ではなかった「時」へもどって「存在」をもう一度組み立て直しているような、奇妙な、粘着力のあることばの動きだ。「無意味」なことばの構築、それを可能にする粘着力というものを感じた。そして、それが「無意味」だからこそ、そこに詩を感じた。安田の「肉体」だけがかかわっている何か、そういうものを感じた。

 安田の詩を読むのは、私は、たぶん初めてだ。先日読んだ「色即是空」の中野完二も初めて読んだ。初めて読む人のことばは、とてもおもしろい。「初めて」のなかに、詩がある。

跡地の家族たち
安田 雅博
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中森美方「春潮の喜び」、野村喜和夫「わが生涯」、藤富保男「向こう岸」

2015-01-28 14:24:14 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
中森美方「春潮の喜び」、野村喜和夫「わが生涯」、藤富保男「向こう岸」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 中森美方「春潮の喜び」(初出『幻の犬』2014年10月)は、「わたし」が海辺の、生まれ育った土地へ帰ったときのことを書いている。

 わたしはわたしに会いに来た しかし もうどこにもわ
たしはいないことを確認する 今のわたしはわたしでさえ
ない何者かだ 生きるということでわたしはわたしを失っ
たのだろうか 春潮はわたしの内部まで満ちてきている 
わたしは春潮の一部となって揺れ動く 空虚なわたしは喜
びに充たされる

 この最終連だけを読むと、「わたし」は空虚だ。けれど、その空虚を古里の春の潮が充たしてくれるので、喜びがわいてくる。古里の海はやさしい、という感じに読めないこともないのだが、「空虚」がどういうものか、中森のことばからは伝わってこないので、こころもとない。
 この直前の連には「人々の姿は消え小屋は失われ」という古里の状況が書かれているが、だから空虚?
 でも、さらにその前の連には「むこうからひとりの老婦が近づいてくる(略) その人はわたしの母のようでもあり祖母のようでもあり まったく他人のようでもある つまり すべての人のひとりだ」という行が書かれている。「地霊の化身に違いない」とも。
 私は「地霊」というものなど見たことも感じたこともないので、よくわからないのだが、そういうものを見たり感じたりするとき、それでもそのひとは「空虚」なのだろうか。「すべての人のひとり」を、それが「幻」であれ、見るとき、その人は「空虚」なのだろうか。それは、「わたし」の「空虚」を埋める「春潮」と、どう違うのか。なぜ「地霊」を感じたとき、「空虚なわたしは喜びに充たされた」とならなかったのか。
 詩は「論理」ではないが、中森のこの詩には「論理」というものがない。
 「すべての人のひとり」である「老婦」を見たのなら、そのとき「わたしはわたしに会いにき」て、そして「会っている」。会ったあとで、目を閉じて、その老婦を消している。そういう「殺人(自分殺し/自殺)」をしたあとで「もうどこにもわたしはいないことを確認する」、つまり「空虚」だと言われても、それは中森の行為が招いた必然に過ぎない。そういう必然の空虚を春の潮が充たしてくれる--なんて書かれては、ばかばかしいロマンチシズムに腹が立つだけである。



 野村喜和夫「わが生涯」(初出「びーぐる」25、2014年10月)。この詩では、野村は、那珂太郎をやっている。

ひと肌のひくみとか瑠璃色の旗ひとそろいとか
うすいひかりの呪符ひとひらにさえ驟雨添え
ない蛇の自在さほしさには海ひとつまみウニ人妻みえ

 これはソネットの3連目。「ひと肌のひくみ」が、私は、特に気に入った。「ひくみ」は「下ネタ」の「下」につながる「ひくみ」。この上品ぶった下品がとてもいい。「ひと肌」と「ひくみ」で「ひとそろい」、だね。
 次の行の「呪符……さえ」「驟雨添え」の音の揺らぎもおもしろい。さらに末尾の「添え」が行わたりして、「添え/ない」とつながるところが楽しい。
 あ、「人肌のひくみ」に「添えない」蛇(ペニス?)だったのか。残念だね。
 「海ひとつまみ」「ウニ人妻み」というのはだじゃれになってしまっていて、私は好きではないのだが、

かくてわが生涯にわたって宙まろか脂身あわく
アフロディテな泡食うひとひた走るひっかき跡
あわれあわれ襞ばしる皮下掻きアート

 とあくまで音で遊ぶなら、それはそれで楽しい。「ひた走る」「襞ばしる」って、何やら「人妻」の「襞」を大急ぎで愛撫しているようでおかしい。「そんなにひっかかないで」「いや、これは皮下掻きアート(皮/肌の下=内部、奥を掻くアート=芸術)なんだ」とくだらないいさかいをしているようで笑い出してしまう。
 「だじゃれ」というのは「論理」的だからばかばかしい。
 那珂太郎には、こういう「すけべ根性」のような遊びがなかったなあ、上品すぎたなあ、それが残念だなあと、なつかしく思い出してしまう。

 私は「だじゃれ」は好きになれないのだが(ふたつの「意味」を掻き混ぜるというのがめんどうくさい)、野村の人目をはばからない「下品」な肉体感覚、それを音にしていく強さは好きだなあ。「頭」をつかって音を探しているのに、その「頭」を「すけべ」で隠す--その「頭」に対する恥じらいのようなものが、とても「かわいい」と思ってしまう。純真なすけべというのは「常識」からすると「矛盾」なのだが、矛盾だからそこに野村の「肉体(思想)」が噴出してきていて、それが楽しい。



 藤富保男「向こう岸」(初出『一壷天』2014年10月)。「霊岸あるいは黄泉の国の様子を知らしめよ」と言って、「打出の小槌」を振る。そうすると、暗闇のなかに幹線道路がつづいているのが見えてきた。両側に、

 明かりがつづいて、ぼんやり光っている。よく見ると、
その光に映し出されているのは、理髪店、理髪店、理髪
店、理髪店、理髪店、理髪店、理髪店、理髪店、…………
 …………どこまでも理髪店。

 そのあと、理髪店の三色棒(サイン・ポール)についての蘊蓄が書かれていて、それがいわば「起承転結」の「転」のような働きをしたあとの「結」。

 この幹線道路には、どういうものか美容院が見当たらな
い。こちらが男性だからだろうか。
 大きく空咳をして、もう一度打出の小槌を振って帰還し
たのである。

 頭を撫でてみると、つるっと禿げていた。

 私は笑い出してしまった。私は藤富保男と会ったことがあるわけではないのだが、頭の毛が少ないのは写真で知っている。その「頭」を思い出したのである。
 「打出の小槌」というような「嘘」を書きながら、最後に「ほんとう」を書いて、「嘘」を「ほんとう」にしてしまう。「理髪店」ということばを何度も何度も書いて、それが潜在意識として定着していると、自分自身を笑ってみせる。
 そうか、ユーモアとは自分を笑ってみせる余裕のことか。

風の配分
野村 喜和夫
水声社

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時里二郎「伯母」、中島悦子「声をめぐる」、中野完二「色即是空」

2015-01-27 10:42:07 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
時里二郎「伯母」、中島悦子「声をめぐる」、中野完二「色即是空」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 時里二郎「伯母」(初出「東京新聞」2014年10月25日)。

 山羊のいる蠣殻の白い坂道を岬にまでのぼり 中世の烽
火台跡のあるその突端に 伯母と二人して 私のリハビリ
は続いた
 アンドロイドである私に母がいるはずがないのに いる
はずのない母が 私の言葉に不具合をもたらしていると 
伯母は言う

 これは書き出しだが、ここに時里のことばの特徴が集まっている。「山羊」「蠣殻」「烽火台」と言った具体的だけれど、日常(身の回り)ではあまり見ないものが登場する。「もの」が「過去の時間」を抱え込んでいる。その一方で「アンドロイド」という日常には存在しないものが登場する。ただし、現実には存在しない「アンドロイド」(未来の存在)は、ことばとしては「山羊」「蠣殻」「烽火台」と同じように古い。誰もが知っていることばである。歴史的に見ると、「山羊」「蠣殻」「烽火台」と「アンドロイド」は同じ時代に生まれたことばないが、時里という「個人の時間」のなかでは「同じ時間」に存在する。時里がそれらのことばを自分のものにしたのは、せいぜいが半世紀の間のことである。時里の「半世紀」という「時間」のなかに「山羊」「蠣殻」「烽火台」も「アンドロイド」も「同時に」存在する。歴史的時間と個人的時間は違うのである。そして個人的時間のなかで歴史的時間は凝縮されて反復される。ふたつの時間の交錯、衝突、融合のようなものが時里の「ことばの肉体」をつくっていく。
 このとき、時里の「ことばの肉体」を動かす力の源、エネルギーのようなものは何か。それは「論理」である。そして、その「論理」は、少しおもしろい特徴を持っている。
 「アンドロイドである私に母がいるはずがないのに いるはずのない母が」という部分に「いるはずのない」が二回繰り返されているが、この「ない」を考える「論理」が時里の特徴である。「ない」ものは「ない」のだが、その「ない」を考えることができる。「ある」ものを考えるときは「実物」を動かして実証(実験)できるが、「ない」ものを考えるときは、それは「考え」のなかだけ。「ことば」のなかだけ。時里は「ない」を利用して、「ことば」のなかだけへと動いていく。どんなことも「ことば」にして、それを動かしていく。ことばを優先させて、「現実」をことばにあわせようとする。こういうことばと現実のありかたは、一般的には「非現実的」だが、「ない」ものを出発点にしているのだから、「非現実的」という批判はあたらない。そこではどんなことでも起きうる。現実に不可能なことも起きうる。いや、「現実になる」--時里が現実にしてしまう。ただし、ことばの動く範囲でのこと、ことばのなか、「虚構」のなかでのことではあるが。
 「ない」を起点にして動くことば、その矛盾といえばいいのか、嘘は、たとえばここでは「伯母」という形で具体化される。「母」がいるはずがない(いない)ということは、わかった(時里が書いている)。では、「母」がいないのに「伯母」がいるというとこがありうるのか。ありえない。ありえないけれど、それを無視して「伯母」の存在は絶対にゆるがないものとしている。「実在」も「非在」も、嘘なのだ。「論理」を装いながら時里のことばは動くが、そこには「実在」も「非在」もない。「こと」はただ「ことば」のなかにだけある。「ことば」という音のなかに「こと」が含まれるように。「ことば」だけが、時里にとっての「実在」であり、「論理」はその「実在」を「非在」へ向けて動かしていく。
 この詩では、時里のことばは、

 たひ やふ をす けさ おも わひ とふ

 標準日本語では何を指しているのかわからない二音節のことばと出会いつづける。「アンドロイド」はその「二音節」のなかに、「ことば」の発生を見ている。ある「実在」のものがあり、その「実在」を他者にとどけるために「声」で「音」を出し、「意味」にするという「ことば」の発生現場を生き直す。「ことば」の「論理」に頼る前のエネルギーを手に入れるという方向へ動いていく。
 それはしかし、「論理以前のエネルギー」にもどりたいからというよりは、そこにあるエネルギーをつかみとることができれば、「論理」をさらに強靱にできると夢見ているからだろう--と私は思う。
 時里のこの嗜好(指向?)は強烈で、その論理はあまりにも破綻がなさすぎて、ときどき、こんなにていねいに書かない方が詩らしくなるかもという印象を引き起こす。



 中島悦子「声をめぐる」(初出『藁の服』2014年10月)。

「悪い子はおらんかあ」。「泣く子はおらんかあ」。市民は低温火傷が痛いとようやく気付いているが、なすすべはない。「悪い子はおらおらおららんかあ」「泣く子はおらおらおららんかあああ」。涙を隠して、体育館で布団を敷き続けた。その布団にはまだ声が残っている。低温火傷は、見た目よりずっと深く、骨まで達している。
 
 こんなふうに詩の一部(引用したのは3連目)だけを取り出すと、何のことかわからない。いや、全体を引用しても、わかりにくさは変わらないと思うが、一部だけをとりだすとよけいにわからない。
 「悪い子はいないか、泣く子はいないか」と鬼が家々をまわる民俗行事。空中ブランコ乗りの話。小さな島国全部に毒が広がり、こどもが鼻血を出すという話が組み合わさる。体育館での避難も加わる。
 なんとなく、東京電力福島原子力発電所の事故を思い出す。放射能の影響は「低温火傷」のようにじわじわと肉体を蝕む。原子力発電に頼った生活は空中ブランコ乗りのように、「観念の中で幻のように存在する」ということか。
 中島のことばは「論理」的ではない。「こと」がばらばらに噴出してくる。中島の「肉体」のなかでは、「こと」はつながっているのだろうけれど、きちんとした「論理」でつなげることは私にはできない。できないのだけれど、あるいはできないからこそ、その「こと」を私はかってに結びつけて「論理」にしてしまう。「誤読」してしまう。
 つまり。
 私は中島のことばを借りて、中島がこんなふうにして東京電力福島原子力発電所、その事故の被災者のことを考えていると、かってに考える。あ、私も、この問題について考えてみなければいけないなあと、ぼんやりと思い返す。
 詩だけにかぎらず、文学(あるいは芸術の全てがそうかもしれないけれど)とは、そこに何が表現されているかということよりも、その表現に触れて、自分が何を考えるか、ということなんだろうなあ。
 中島の詩とは関係ないことを書いたかな?
 (『藁の服』はとてもおもしろい詩集。別の作品をとりあげて感想をすでに書いているので、検索して、そちらもお読み下さい。)



 中野完二「色即是空」(初出『へびの耳』2014年10月)は郵便物を投函にポストへ行く。その途中、へびを見かけるのだが……。

郵便物を投函して同じ道を戻った
へびはもういなかった
けれども
へびがいたあたりに
浅葱の色だけが横に長く浮いていた
ヒトのくるぶしぐらいの高さに
色だけが漂っていた
へびはもういないのに
実体はないのに
色だけがある
色は形だろうか
記憶だろうか
色のへびが
色だけで生きているように
ぷくぷく動く
色も変化する
浅葱から青空色になった
本日は晴天なりである
青空色のへびは
明日があると言うように
青渭神社に向かって
歩行者用押しボタンも押さずに
車道の上を飛んでいったが
とうとう見えなくなった

 あれっ、「色即是空」って、そんな意味? 何か違う感じがするのだけれど、そういうことかも。生命あるものが、死んで行く。あるときはへびの形をしている。しかし、へびという形にこだわってはいけない。こだわると、へびしか見えなくなる。
 「実体」のないところに「真実」がある。「実体」にとらわれていては「真実」はつかめない。
 というようなことを、ことばにしていくと、ややこしい。
 なんだか、とてもおかしいが、そのおかしさが、詩なんだなあ。
 へびは、もしかすると車にひかれてぺしゃんこの「色」になっていて、それが風に飛ばされ(車が走るときに起きる風に飛ばされ)、飛んで行った、ということかもしれない。いや、無事に車道を渡って逃げていったということかもしれない。
 書いてある通りに、へびをそこで見た記憶がよみがえり、その記憶の中では「色」の印象がいちばん強かったということかもしれない。
 どっちでもいいが(と書くと中野に申し訳ない気もするが……)、その「色」から「色即是空」を思い、「色即是空」に近づく(?)ようにことばが動いていく--その動き方がおもしろいなあ。
 いいかげん(?)でいいなあ。
 あ、このときの「いいかげん」というのは、「こだわりがない」という意味なんだけれど。
 時里のことばのように「論理」でがんじがらめではない。

あのへびは
亡くなられた
太極拳の師家・楊名時先生が
毎朝のようにくださった電話の代わりに
顔を見せてやろうと
この世にお出ましになったのではないか
志を色で見せてくださったのかもしれない

 そうだといいね。そうだと、うれしいね。
 とてもおもしろい詩だなあ。アンソロジーのなかでは、いちばん好きな詩と言えるかもしれない。

へびの耳
中野 完二
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須永紀子「森」、竹内新「歌」、谷川俊太郎「私より先にそっちへ行ってしまった人たちへ」

2015-01-26 11:34:27 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
須永紀子「森」、竹内新「歌」、谷川俊太郎「私より先にそっちへ行ってしまった人たちへ」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 須永紀子「森」(初出『森の明るみ』2014年10月)。

どこから入っても
いきなり深い
そのように森はあった
抜け道はふさがれ
穴は隠され
踏み迷う

 「森」のなかに具象と抽象が融合している。「どこから」は「いつでも」かもしれない。場所と時間も融合している。具象を書きながら抽象にしてしまうのか、それとも抽象から出発してそれを具象にしているのか。いずれにしろ、須永の「森」は「個別/具体的」の森というよりも「観念」の森である。あるいは「精神」の森といえばいいのか。
  精神の詩は私は苦手だ。つかみどころに迷う。2行目の「いきなり」と「深い」が「肉体(思想)」の手がかりになるかもしれない。
 「いきなり」というのは「時間」としては存在していない。--という言い方は抽象的すぎるが……。「いきなり」はそれまでの持続している時間とは別個のものである。持続していた「時間」が「いきなり」切断される。別の「時間」と接続される。その変化を「深い」ということばで須永はつかまえている。
 「森が深い」というとき、それは「広い」という意味、あるいは「道」が存在しないという意味になる。「道」とは「接続」の象徴である。「持続」の象徴である。どこに「接続」しているか、わからない森。それを「深い」という。
 一方、「深い」は東西南北の「広がり」、水平方向の「広がり」とは別に、垂直方向の「広がり」をもつ。「森が深い」ではなく「深い」だけを取り出すとき、人は一般的に「垂直方向」の「広がり」を思い出す。須永は、この詩では、ふつうの「深い」とは少し違う感覚でことばを動かしていることになる。
 何かが「切断」される。その瞬間に「深い」があらわれる。それは密着して存在している。もう、このとき、須永は「森」を比喩として生きていない。「森」は比喩ではなく、「比喩を語ること」が「森」なのだ。「いきなり/深い」としか言えないものに触れて、「語ること/ことば」があるだけなのだ。

愚かさに見合った
わたしの小さな森で
行き暮れる
出口は地上ではなく他にある
そこまではわかったが
急激に落下する闇に
閉ざされてしまう

 「急激」は「いきなり」、「落下する」は「深い」。闇が落下するのではなく、須永が落下する。「いきなり/深い」を実感する。「持続」から切断され、そこに存在させられてしまう。「持続」からの「切断」は「閉ざされる」である。「解放」にならないがゆえに、1連目では抜け道は「ふさがれ」と書かれている。 
 ことばの呼応(繰り返し、言い直し)の正確さは完璧で、完璧すぎるために、須永の感じている「いきなり/深い」は、それが「思想」であることを告げるだけで、それ以外のことを感じさせてはくれないように、私には思える。
 美しすぎる詩だ。



 竹内新「歌」(初出『果実集』2014年10月)。詩集で読んだとき、漢語が気になってしまった。どの詩にも漢語が出てきて、それがイメージをかってに結晶にしてしまいすぎて、「肉体」が見えない。そういう印象があった。

歌のときこそ幸せのとき
歌のときこそ内面のとき

 「幸せ」は「内面」と言いかえられている。この「内面」という漢語が、私には抽象的すぎるように思える。「精神」と重なり、おもしろくない。「官能(肉体)」がどこかに置き去りにされている、と瞬間的に思ってしまう。
 しかし、

それがどんな器官によるのか
どんな形式なのか分からないが
まぶしい朝の光のなかで
たしかに蜜柑は歌っているように思う

 「内面」は2連目で「器官」と言いなおされていた。詩集で読んだとき、私は、このことばを読み落としていた。「存在するものの内面」をいきなり「精神」と抽象化せずに、いったん「器官」という具体的なものをくぐらせて把握している。その「器官」という具体物のつながり(関係)が「形式」とさらに言いなおされている。私は「器官」を読み落とし「形式」を「内面」の言い換えと読んでいた。先を急ぎすぎていた、と、いま、思う。
 「内面」→「器官」→「形式」というのは、抽象→具体→抽象という「弁証法」的展開と言いかえることができる。「弁証法」であるかぎり、まあ、それは抽象的(精神優位の二元論)ということになるのだが(私は、こういう世界観がなじめずに、どうしても否定的に反応してしまうのだが)、この弁証法という方法は持続がしつこいとき、ちょっと魅力的である。「持続」のなかに「精神の肉体」のようなものが見えるからである。「持続」することで「精神」が「肉体」のように立体的になる。動きが生々しくなる。

私の足取りは軽くなり
それに合わせて躍りさえするのだ
私が丘を登り下りするとき
空に接した蜜柑たちの斉唱は
光溢れる虚空へ
静かに広がってゆく
鳥がそこを飛ぶとき
鳥は広大な歌を渡っている
ときには声を弾ませたりするのだ

 「私」は「丘」になり、「蜜柑」になり、「斉唱」になり、「鳥」になり、「歌」になる。「蜜柑の斉唱」→「鳥の歌」。「斉唱」と「歌」の違いはむずかしい。「斉唱」を「歌」と言いなおしているのではなく、これは「斉唱」が「光溢れる虚空」と出会い、それが「鳥」をへて「歌」に昇華(止揚)されているのである。そんなふうに「止揚」することで、「内面」は「声」になる。
 「蜜柑の声」?
 いや、それは竹内の「声」なのだ。
 へええ、っと思って読んだ。
 一篇一篇、時間をかけて読む必要があったのだ、と反省した。

 で、この詩が、さらにおもしろいのは。
 「ときには声を弾ませたりするのだ」で詩は終わっていいはずなのに(そこでいったん止揚/昇華は結実しているのだから)、これがまだまだつづいていく。
 「声」という、肉体から外へ出たものを、もう一度「内面」に呼び込もうとする。しつこいのだ。精神そのもののしつこさが、ことばを離さない。全体を引用しないが、そのことばはもう一度「光溢れる虚空」を通って、「沈黙の深み」まで進み、

歌のときこそ内面のとき
歌のときこそ幸せのとき

 と、最初の行にまで戻ってしまう。出発して、止揚(昇華/結実)し、再びもとにもどる。もちろん、そのときの帰還は最初の「場(行)」とは同じに見えても同じではない。その「場(行)」の「内部」には矛盾→止揚という運動が隠されているというわけである。

 変なものを読んでしまったなあ、という印象が残る。「変なもの」というのは、個性的、めんどうくさいけれどおもしろい、という意味でもある。



 谷川俊太郎「私より先にそっちへ行ってしまった人たちへ」(初出「午前」6、2014年10月)。

水が滲んできているのに気づきました
空は青くどこまでも澄んで
微風が木々の枝を揺らしています
でも落葉が散り敷いた地面に
水が滲み出しているのです
ココロの森は行きつけの場所です
でもまだまだ知らない所がありました
泉が湧いてきていたのです
ココロの森の奥深く
音もなく泉が湧いてきて
流れずに湛えているのです

 「私より先にそっちへ行ってしまった人」というのは亡くなった人のことだろう。その人たちのことを思ったとき、「ココロの森」に「泉」があると気づいた。その泉の水は、地面に滲んでいるのに気づいた。「知らない所」から「泉が湧いてきていた」。その水は「流れずに湛えている」。
 というようなことが書いてあるのだけれど。
 平凡じゃない? もう亡くなった人を思うとき、ココロの森の泉が湧き出す、というのは。悲しみを、もってまわったような感じ。
 と、思っていると。

涙の比喩ではないかとお思いですか
でも私は泣いていません
泣きたいとも思っていません

 えっ、これは何?
 谷川さん、突然、呼びかけないでください。
 それに誰だって「涙の比喩」と思うでしょう。亡くなった人を思い出すとき、泣くのはふつうでしょう。
 泣いてもいない、泣きたいとも思っていない。それなのに「ココロの森の泉」から水が湧き出し、水があちこちに滲んでいる。この水は、それでは何? 何を「比喩」しているのですか?
 説明してください。

泉の水は透き通っています
濁っていて当然なのに

 私が詰問(?)したせい? この2行も奇妙だなあ。「透き通っています」は「泉」だから、当然だと思うけれど。「濁っていて当然なのに」というのはどうしてだろう。「ココロ」の知らない場所、あまり行かない場所、そういうところは「濁っている(汚れている/隠しておきたい)」所だから?
 よくわからない。
 谷川のことばは、つづく。想像しなかったことばがつづく。「涙の比喩」という具合に、簡単に想像できないことばが動いていく。

揺れながら水に映っているのは
若かりし日のあなたがたの姿
でも私はそれを見ているのではない
泉の水は生まれながらの体内の水と
すっかり混じりあっているから
あなたがたはもう思い出の中にいない
コトバでもイメージでもない水になって
私のからだを巡っています

 「揺れながら水に映っているのは/若かりし日のあなたがたの姿」は「私より先にそっちへ行ってしまった人たち」の「姿」。タイトルが、ここでは言いなおされている。言いなおすことで、ここから詩をはじめ直している。
 「水に映っている」と書きながら「見ているのではない」と言いなおしている。見ていないのに、どうして映っているとわかる?
 それは、

泉の水は生まれながらの体内の水と
すっかり混じりあっているから

 目で見る必要がない。「体内」の器官(組織/細胞)全てで、直接触れるのだ。それは対象(見るもの)ではない。
 泉の水が「濁っていて当然」と書かれていたのは、谷川はすでに老いていて、老いてくれば「体内の水」も老化して濁っていてもあたりまえという「常識」によるものかもしれない。老いて澄んでくるものもあるかもしれないが、老化というのは、悪化と道義のところがある。そういう気持ちがあるから、ココロの泉も濁っていても当然かもしれないのに、そうではなくて透明だった、と書く。
 そして、それが透明なのは、逆に言えば、谷川は老化にあわせ谷川の体内の水は老化して濁っているかもしれないが、「あなたがたの姿」は若くて濁っていない。その若くて濁っていないものが谷川の「体内の老化した水」と「混じり合い」、浄化しているからである。「あなたがた」は「思い出」でも「イメージ」でもない。谷川をいつまでも「透明なまま」に生かしてくれる「浄化装置」なのだ。「細胞組織」なのだ。谷川は「あなたがた」に生かされ、「あなたがた」といっしょに生きている。
 だから、もちろん、「涙」などとは無関係。

 谷川の詩(ことば)は、いつでも論理的だ。ときに論理的すぎると思う。論理を否定するときでさえ、論理的だからね。
 この詩も論理的だけれど、たとえばきょう読んだ竹内の弁証法の論理とは違う。形式のない論理。未生の論理と言えばいいのだろうか。谷川が書くことで、はじめてことばになった論理という感じがする。「ココロの森」の知らないところから、水が滲むように、滲み出てきた論理と言えば、詩に戻っていくことになるのかもしれない。

 この詩は「午前」で読んだ。読んだけれど、そのときは感想を書こうとは思わなかった。ほかの谷川の詩の感想を書きつづけていたからだが、こうやって感想を書いてみると、ただ漠然と読んでいるときと、それについて何か書こうと思い、書き出してみると、感想が変わってくる。私自身のことばの動きが変わってくる。
 竹内の詩の感想を書いたときも思ったが、読んで頭のなかだけで感想を走らせるときと、実際に感想をことばにするときでは、感想が違ってきてしまう。
 感想はことばにしなければいけない。感想は語り合わなければならない、と思った。私の感想が「正しい」かどうかではなく、詩なのだから「正しい/間違っている」はどうでもよくて、感想が動くとき、いっしょに詩が動くということを確かめるために、書かなければならないのだとあらためて思った。
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杉本真維子「同祖神」、鈴木志郎康「それは、ズッシーンと胸に応えて」ほか

2015-01-25 11:14:16 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
杉本真維子「同祖神」、鈴木志郎康「それは、ズッシーンと胸に応えて」、鈴木ユリイカ「砂漠」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 杉本真維子「同祖神」(初出『据花』2014年10月)。詩集『据花』はおもしろかったが、アンソロジーに収録されている「同祖神」は、私は感心しなかった。

泥を掻き混ぜて団子をつくり
嘘のように喰らっている、
供え物を疑う
やせたこころを
犬が喰う

シャツを破かれ
歯形のついた腹で
門をたたくとやさしい祖父の銃口が光った
おまえのため、は慟哭となった
わたしも喰うよ
犬を喰うよ

嘘を吐いてもとめられぬ
薄暮にふるえ
ならばわたしが祖父を喰う

 イメージが交錯する。何度か繰り返されることばがある。「嘘」と「喰う」。「嘘」は「喰らって」と「吐く」とまったく違う「動詞」といっしょに動いている。「喰らって」は自主的な行為にも見えるし、受動的にも見える。受動ならば「喰らわされて」なのかもしれないが……。「喰う」は「犬」と「祖父」を目的語(対象)としているが、「嘘のように喰らって」の「嘘」もまた「喰う」の対象になっているようにも感じられる。
 「嘘」が奇妙な具合に動いてしまったのかもしれない。
 私はそのことばから、奇妙なイメージを持った。
 供え物の団子を「わたし」が喰ってしまった。かわりに、どろの団子を置いた。そして、「団子は犬が喰った」と嘘の報告をした。「犬にかまれた」という嘘を破れたシャツで拡大し、腹についた歯形でさらに増幅させる。(実際に腹に歯形が残った、ということではなくて、ことばの上だけでそれを増幅させているのだと思う。「嘘」なのだから。)犬が喰ったのは「わたしの嘘」。それを聞いた「祖父」が犬を叱った。犬を叩いた。(犬を実際に殺して「喰う」というよりも、想像力のなかでは、喰ってしまうに匹敵する。)それは「わたし」の「嘘」が原因である。「嘘」の結果にふるえながら、「わたし」は「犬」にかわって、想像力のなかで「祖父」に仕返しをしている。(「祖父」を喰っている。)
 子どもは「嘘」を平気でつく。その平気のあとの悲しさのようなものを、ストーリーにせず(わかりやすい嘘にせず)、ことばの脈絡をわざと外して、イメージだけがざわめくように書いている。
 そんなふうに読んだ。
 このストーリーをわかりやすくしない、脈絡をわざと外すという方法は、ことばが「混沌」から、ことば自体として結晶してくるよう印象を引き起こす。「嘘」にしろ「喰う」にしろ、明確な「根拠」、言いかえると「事実」との「対応」を示さないので、ことばの「生まれどころ」がわからないという「不安」となって「肉体」を刺戟してくる。
 こんな読み方でよかったのかな、と言いかえることもできる。
 こいうときの「不安」そのもののなかに(意味の揺れ動きが誘い出す肉体の記憶--肉体がおぼえていることの浮遊感のなかに)、たしかに詩はあるのだろうけれど、この「同祖神」はイメージがわりと単純な感じがして、他の詩集の作品に比べるとおもしろみに欠ける。
 もっとも、私が言いなおしてみた「イメージ」は「誤読」かもしれないけれど。杉本はまったく違うことを書いているのかもしれないけれど。



 鈴木志郎康「それは、ズッシーンと胸に応えて」(初出「浜風文庫」2014年10月25日)。「わたしはいつ死ぬのだろう。」という一行で始まる。いつかは死ぬと考えている。

ところが、
わたしは
明日、
わたしの身体が息を引き取るとは思っていないのです。
来月とも思ってない。
来年は、80歳になるけれどまだ大丈夫でしょう。
と、一人でくすっと笑ってしまう。
歩く足がしっかりしていないから二年後はあやしい。
三年後はどうか。
いや、進行性の難病の麻理が亡くなるまでわたしは死ねないのだ。
お互いに老いた病気の身体で介護しなくてはならない。
支えにならなくてはならない。
麻理より先には死ねないのだ。
ズッシーン。

 深刻なことがらが、そのまま書かれている。杉本の詩とは違って、イメージは飛躍しない。ことばの出所がわからないということはない。ことばと事実を結びつけて、そのまま受け止めてしまう。つまり「嘘」などどこにも書かれていないと感じる。「来年は、80歳になるけれどまだ大丈夫でしょう。/と、一人でくすっと笑ってしまう。」に、少し安心する。
 不思議なのは、こういう「内容」を書き、そこに「ズッシーン」という変なことばがはいりこむところだ。何だか軽くない? 「ズッシーン」で、何か具体的なことが伝わってくる? 
 「ズッシーン」では、私には、鈴木の「実感」がわからない。わからないから、わからないまま、あ、これは鈴木にとっても「まだことばにならない感覚」なんだなあ、と思う。ほんとうは明確なことばにしたい。けれどできない。「ズッシーン」は「未生のことば」なのだ。「ズッシーン」といいながら、その「ズッシーン」を超えて、別なことばがあらわれるのを待っているのだ。詩のインスピレーションが突然どこかからか降ってくるのを待つように「ズッシーン」が「ズッシーン」でなくるのを待っている。

自分で死ななければ、
心肺停止はいずれにしろ突然なのだ。
ズッシーン。
遠い寂しさが、
晴れた十月の秋の空。
陽射しが室内のテーブルの上にまで差し込んでる。

 これは、最終連。最後の3行が、「ズッシーン」を超えている。「ズッシーン」の「意味」になっている。秋の陽射しが何かをするわけではない。鈴木の生死と関係があるわけではない。その非情さが美しい。「ズッシーン」は世界の非情さと向き合っている。



 鈴木ユリイカ「砂漠」(初出「妃」16、2014年10月)。マルチーヌという女性がサハラ砂漠で仲間とはぐれる。昼をさまよい、夜に倒れサボテンになって花を咲かせて生き延びる夢を見た。

マルチーヌ マルチーヌってば 起きて 起きて
起きるのよ 朝のまぶしい光のなかでみんなが来て
彼女は助けられた 彼女はまた人間になった
人間なのに歩くとなぜかぼろぼろ砂がこぼれ落ちた
わたしは小さな砂漠なのよ、と交差点を渡りつぶやいた

 最後の「交差点」ということばが、マルチーヌはほんとうに砂漠で倒れ、助け出されたのか、あるいは都会の交差点で倒れて、その一瞬にサハラ砂漠で倒れる幻を見たのか、砂漠の体験がいつもマルチーヌの肉体から離れないということなのか、都会でもサハラ砂漠の幻想に襲われるということなのか、わからなくさせる。
 このあいまいさ、わからなさが詩?
 私は、都会の交差点で気を失った瞬間、サハラ砂漠でさまよいサボテンになったという幻を見た--と読んだが。マルチーヌは鈴木の、気を失った瞬間の名前だろうと考えるのは「理詰め」すぎるかな?

裾花
杉本 真維子
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佐々木安美「巨大な石」、貞久秀紀「すでにある機会」、白石かずこ「こえる」

2015-01-24 11:17:53 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
佐々木安美「巨大な石」、貞久秀紀「すでにある機会」、白石かずこ「こえる」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 佐々木安美「巨大な石」(初出「生き事」9、2014年10月)。

自宅裏の畑に隣接する湯本さん宅の擁壁は
こちらにずいぶんふくらんできて
コンクリートブロックにひびの入ったところから
水が漏れてきている

この水はおそらく
湯本さんが自作した池の水で
池には大きな錦鯉が五匹
神のように悠々と泳いでいる

 「擁壁」に排水口がないのだろう。そのために地下水が「擁壁」を押して、ひび割れ、水が漏れている。その水は湯本さん宅の鯉のための池の水だ。池は、水漏れし、その水が「擁壁」を押している。「擁壁」が水脈を切断しているのだ。
 そういうことは、読めば「わかる」。「わかる」のだが、ことばというのは不思議なものだと思う。ここに書いてある佐々木のことばに、知らないことばはない。知らないことばはないし、描かれている光景も目に見えるのだが、不思議な違和感がある。「擁壁」とわざわざカギ括弧でくくって書いたのは、その「違和感」について書きたいからだ。
 私には「擁壁」ということばは思いつかない。湯本さんの家は崖の上にあるのだろう。崖の土が崩れるのを防ぐために、その崖にコンクリートが打たれている。何と言いなおせばいいのかわからないが、「擁壁」は私の日常語ではないので、書くときに出て来ないだろうなあ。「湯本さん宅の擁壁」のことばのつながり、「隣接する」も書かないだろうなあ。2連目の「自作」も、うーん、こういう使い方をするのか……と思ってしまう。「神のように」という比喩にも驚く。
 でも、この「違和感」が、この詩の世界を、不思議な形で支えている。
 佐々木の方は、「自宅裏の畑」を耕しているのだが、どうもうまくはかどらない。きちんと畑を掘らないからだと気づき、掘っていくと大きな石にぶつかる。石というより、「岩盤」に近いのかもしれない。その「岩盤」はどうやら湯本さん宅の下まで(錦鯉の池の下まで)続いているよう。水は、その岩盤にさえぎられて地下へもぐりこめずに、岩盤の上を流れてきて、「擁壁」を押している。罅を入れさせている。土木の仕事をしている専門家に頼んでつくった池、「擁壁」ではないのだろう。「擁壁」は業者に任せたかもしれないが、池は「自作」したのだろう。だから、地下水の流れ、岩盤などを気にしていない。いや、池の底の岩盤を知っていて、これなら「水漏れ」はしないと思い込んだかもしれない。
 「自作」、素人の仕事が「現実」のなかで、想像しなかったことを引き起こしている。その「自作」の「自」、つまり「人間」と「神」が、ここでは不思議な形で向き合っている。「自作」の「擁壁」「池」と「神」がつくった自然(巨大な石の岩盤)が出会っている。その「出会い」は人間の方から、何と言えばいいのか、「神」の領域をおかしていったために、「水の氾濫」を引き起こしているという感じ。そして、その「乱暴」が「擁壁」とか「自作」というような漢語のなかに、ひそんでいるのかも。「漢語」のなかに、そういう「意味合い」をこめて佐々木は書いているのかも。--これは、ちょっと「深読み」なのかもしれないけれど、私ならつかわないことばが、妙におもしろい。

池の水も抜かれることになったようだ
男の人が網ですくい取った
錦鯉の目の端に深い穴がうつり
穴の中の巨大な石が見えた

五匹の錦鯉は順々
神のようにすくい取られ
穴の中の巨大な石を目に焼き付けたまま
どこかに運ばれていった

 錦鯉がほんとうに大きな石を目に焼き付けたかどうかはわからないが、「神話」なのだから、まあ、そんなふうに書いてしまっていいのだ。
 日常つかわないことばをつかうことで、人間のおろかさ(自作の失敗)を「神話」のなかの笑い話にした、という感じ。詩のなかの「事実」を漢語が不思議な具合に整理し、動かしている印象がある。



 貞久秀紀「すでにある機会」(初出「ぶーわー」33、2014年10月)。
 佐々木のことば(漢語)は、現実を不思議な具合に切断し、その断面に「神話」が入り込む(「断面」が「神話」を動かす)という感じがあったが、貞久の「文体」は「切断」を拒み、どこまでもつづいていく感じ。

折れてつながりあう枝が
ふたてに分かれて
ひとつは幹について根につながり
ひとつは折れたところからこの枝につき
幹へと導かれていた

 「折れてつながりあう」ということばそのものが、「折れて(切断に通じる)」「つながる(接続)」と矛盾している。「折れ」たなら、そこではもうつながっていないのに、「折れる」を「ふたてに分かれ」と言いなおすことで、「ひとつの切断」ではなく、「ふたつの切断」に変えて、そこから世界を拡げていく。そのとき、とても巧妙なのは、

ひとつは幹について根につながり
ひとつは折れたところからこの枝につき

 「ふたつ」を「ひとつは」「ひとつは」と「ひとつ」という形で繰り返すことで区別をなくしている。「ふたつ」なのに「ひとつ」「ひとつ」の具別がなく「ひとつ」になってしまっている。「切断」したはずのものが「切断」されずに「ひとつ」のなかでつながったままである。「ふたつ」に「分かれて」いくはずが「ひとつ」になってしまう。
 こういう「切断」さえも「接続」にかえてしまう文体は、別個に存在する(孤立する)ものを、「孤立」ではなく、やはり「ひとつ(接続したもの)」にかえてしまう。「孤立」を許さない。
 ふたてに分かれた折れた枝はどんどんつながって、

池のほとりの木のもとに来ていた
そこではさきの木にはなかったはずの見なれない岩が
短い草のなかに露出していた
それはみずからのなだらかな一端として
横たわり
見るところ
土に隠れる部分が地にあまねくゆきわたりながら
この丘全体の
ゆるやかなすがたを成していた

 「一端」が「全体」にかわっていく。もう、そこには「切断」の入り込む場所がない。「全体」があるだけなのだ。どういう「世界」も「全体」として見ることができる。「切断」は「わかれる」ことであり、その「わかれる」の繰り返しが「全体」の編み目のようになる、ということか。これもまた別の「神話」の形。


 
 白石かずこ「こえる」(初出「花椿」2014年10月号)。

あしたについて思う
「きみを こえたいな」
きみとはあしたのこと
さしさわりない きみと話しているぶんには

 「あした」というのは、存在していない。ことばで存在させている。「こえる」も、この詩では「動詞」というよりも概念だ。

だが ねむっておきると「ハイ」とばかり
あしたは こちらにウインクして待っている
しかたがない 「つきあってやる」といいながら
あしたにキスする 「いいやつだ」
あしたが今日になるから「こえる」というご馳走
さびしい快楽に逢えるのだ

 「ウインク」「キスする」「快楽」。ことばは「肉体」を呼び込もうとしているが、呼び込めているようには見えない。概念のままだ。

雲の行方
貞久 秀紀
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華原倫子「橋の記憶」、國井克彦「わが台湾三峡」、近藤洋太「再見考」

2015-01-23 11:04:52 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
華原倫子「橋の記憶」、國井克彦「わが台湾三峡」、近藤洋太「再見考」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 華原倫子「橋の記憶」(初出『葡萄時計』2014年10月)。

橋のはじまりはこの岸で
橋の終わりはあの遠い岸
だから、橋の上にははじまりも終わりもない
はじまりも終わりもない空間には輪郭はない

 「だから」ということばが論理的だ。なくても「意味」はかわらないけれど(かわらないと思うけれど)、「だから」と書いてしまう。そこに華原の「ことばの肉体(思想)」が出ている。そして、「ことばの肉体」というのは奇妙なもので、それ自体として動いていく。「肉体」になってしまった論理は「抽象」のままではいられない。動いていくと、どうしても独自のものになってしまう。この4行で言えば、「はじまりも終わりもない空間には輪郭はない」。ここで「空間」が出てくるのは「橋」を「場」ととらえるからだろうけれど(ここまでは、まだ一般の論理)、「輪郭はない」の「輪郭」への飛躍が独特である。華原がことばにすることによって、はじめて「論理」になった。華原がことばにする前には存在しなかった。「はじまりも終わりもない」という表現は一般的にはつかわないが、「終わりのない」ことを「空間的」には「果てがない」という。それを華原は「輪郭」というのだが、こういう「輪郭」のつかい方は華原がことばにするまでは存在しなかった。そして存在してしまうと、それが「ぴったり」という感じで迫ってくる。
 この化学変化のようなところに「詩」がある。
 「論理」はさらにつづく。

はじまりも終わりもない空間は何も留めることがない
渡りきらねばここはあの世と同じ
橋はそこで生きたと言ってはならぬ場所

 これは華原が言いたいこと(思想と思っていること、思想として主張したいこと)なのかもしれないが、私には「輪郭」ほどおもしろく聞こえてこない。「この岸」「あの岸」は「此岸」「彼岸」であり「この世」「あの世」である。そういう「論理」は「流通論理」であって、華原がいわなくても誰かが言ってしまっているという印象がある。それではおもしろくない。
 けれど、連を変えて、

橋に向かって道は上り
橋が尽きると道は下る
空を渡った欄干の記憶

 ここは、おもしろい。どこの橋とは書いてはいないのだが、華原がある特定の橋を思い描いていることがわかる。すべての橋が道を上り、道を下るわけではない。水平なままの橋(坂のない橋)もある。それなのに華原は道の上り下りと書いている。具体的なのだ。知らずに出てくる「具体的なもの(こと)」のなかに、やはり「肉体」が見える。「ことばの肉体」ではなく、華原自身の「肉体」、その橋を渡ったときに「肉体がおぼえたもの」が手触りのようにして出てくる。そういう部分は、とてもおもしろい。
 「具体的」だから「空を渡った欄干の記憶」が美しい。思わず、自分自身の記憶を探してみる。私の渡った橋のなかにそういう橋があったかなあ。探しながら、私は私の「肉体」が華原の「肉体」と重なっているのを感じる。そういう橋を具体的に思い出すことができる。おぼえていないのに、思い出すことができる。こういう瞬間が好きだなあ。詩を読む至福がある。



 國井克彦「わが台湾三峡」(初出「ゆすりか」102 、2014年10月)。終戦後、台湾の三峡から日本へ引き上げてくる。八歳のときの体験を書いている。

大人たちはトラックの前方を見ていた
去り行く三峡の街を見ていたのは自分だけだ
なぜ愛しい三峡の街を山を河を
大人は振り返らないのか
わが人生でこのことは常に思い出された

 あ、うつくしいなあ。思わず声がでそうになった。
 私は台湾へ行ったことがない。三峡がどこにあるかも知らないし、どんな街、どんな山、どんな河なのかも知らない。知らないなら、調べろ、という人がいるが、私は調べない。ネットで調べて、写真を見ても、それは自分の体験とは無関係である。それがどんなに美しい街、風景であろうと、それ見ることで國井の気持ちが「わかる」わけではないと考えるからだ。
 では、何が美しいのか。

去り行く三峡の街を見ていたのは自分だけだ

 この一行。そこにある「時制」がカギだ。その前の行では「見ていた」(過去形)がもう一度「見ていた」(過去形)で繰り返され、そのあと「だけだ」と「現在形」になる。「自分だけだった」と過去形になっていない。
 「自分だけだ」という断定が「現在」であるために、「いま/ここ」で國井がかつて見た風景を見ているという感じが強く伝わってくる。「見ていた」のは過去のことなのに、「いま」それを「見ている」。「過去」が「現在」として、「いま/ここ」にある。その生々しい動きが凝縮している。主観が躍動する。
 「大人は振り返らないのか」という現在形の疑問(「大人は振り返らなかったのか」という過去形ではない)にも強い主観を感じる。
 そして、この感覚は、次の行、

わが人生でこのことは常に思い出された

 この「常に」に言いなおされている。「常に思い出された」と過去形で書かれ、ここでは國井はちょっと「客観」に戻っているのだが、この「過去形」は方便だ。「常に」だから「いま」、そして「これから」もという時間がそこにはある。かわらない。時間の影響を受けない。言いかえると、この「常に」は「永遠」なのである。



 近藤洋太「再見考」(初出「スタンザ」7、2014年10月)。「再見」は中国語で「さようなら」。「再会」を意味する(再会を願う)。でも日本語の「さようなら」にはそういう気持ちが見当たらない。そういうことを、いろいろな言語のあいさつをまじえて思いめぐらしたあと、

--僕はこれから、手紙の末尾には「再見」と書こうかと思うんですよ。
すると彼女、王旭烽さんは、はっと我に帰ったような顔になり一生懸命制止したのだ
--イケマセン。ソレハイケマセン。手紙ノ末尾ハ必ズ「敬具」デス。

 ここで詩は終わる。
 私は無知なので「敬具」で終わらなければなはらない理由、「再見」がだめな理由はわからないが、この「わからなさ」が詩なのかもしれない。
 どうして?
 そう思った瞬間。
 なぜ、そのひとはそう思うのか。なぜこの詩人はこんなことを思うのか。その驚きのなかに詩はある。それは説明してしまっては詩ではなくなるということかもしれない。
 私は「わからないこと」は調べるのではなく、「考える」。
 で、考えたのは……。「再見」というのは「再び」会う。繰り返す。手紙で「再び」がまずいのは、「わからないなら、もう一回、同じことを書くぞ」(何度でも書いてやるぞ)という一種の「おどし」になるから? 「手紙」とは「あいさつ」もあるだろうけれど、だいたいが自分の「考え」をつたえるもの。「敬具」は「慎んで申し上げます(申し上げました)」くらいの意味。「再見」には「慎んで」という感じがないからなのかな?


葡萄時計
華原 倫子
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有働薫「白無地方向幕」、尾花仙朔「晩鐘」、カニエ・ハナ「草獣虫魚」

2015-01-22 08:56:20 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
有働薫「白無地方向幕」、尾花仙朔「晩鐘」、カニエ・ハナ「草獣虫魚」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 有働薫「白無地方向幕」(初出『モーツァルトになっちゃった』2014年10月)。この詩の感想は書きにくい。詩集『モーツァルトになっちゃった』については書きたいことがある。今は「現代詩手帖12月号(現代詩年鑑2015)」のアンソロジー全作品について感想を書いている途中なので、それが終わったら書きたいと思っている。その書きたいと思っていること(取り上げたい詩)とアンソロジーの作品が違う。ふーん、これが詩集の代表作か……違うと思うけれどなあ、とどうでもいいことを考えて、ことばが動かない。動こうとしない。
 「白無地方向幕」か……。この作品について、私は何が言えるだろうか。

ひとふしのメロディーが朝から頭を離れない
くちの中でくりかえし小さく歌い
どこかで聞いたと 記憶のもやの中を探し回る
たどり着けずに正午を過ぎて
ガラス戸ごしに曇りの空を眺めている

 おぼえているのに思い出せない、という「矛盾」のようなことがらは誰にでもあることだと思う。特にめずらしい体験を書いているわけではない。むしろ、「平凡」なことを書いている。こういうとき、詩は、「内容」ではなく、書き方にあらわれる。書き方にあらわれた特徴が詩である--と私は思うのだが。
 「朝から」「正午を過ぎて」。この時間の経過の書き方が律儀すぎて、私は、そこにつまずく。この詩を詩集のなかの代表作として選んだ人は、まあ、律儀な性格で、有働の律儀さに反応しているのだと思う。「記憶のもやの中を探し回る」には有働の翻訳体験から生まれた「正確さ」を求める姿勢が出ている。論理的すぎる。そういう意味では、有働らしい作品なのかもしれない。「記憶のもや」が「曇りの空(しかも、ガラス戸越し)」と呼応し、呼応することで、とてもわかりやすくなっている。--でも、私は、この部分は好きではないなあ。明晰すぎる。

愛しあったり
愛されない苦しみにひそかに裏切りに走ったり
音もかたちもない
ふとした凪のような
自分であるのかほかの人であるのか
消え去りやすく けれど不意に戻ってくる

 3連目は、1連目とは違って、自在に動いている。1連目でていねいに状況を書いたので、安心してことばが動き回っているのかもしれない。「愛されない苦しみにひそかに裏切りに走ったり」というような「矛盾」した動きが楽しい(そういうことってあるよなあ、と納得してしまう)。この「矛盾」は「朝から→正午を過ぎて」というようなきちんとした動きではなく、詩のなかのことばで言えば「ふと」動いてしまうものである。「無意識」に動いてしまうものである。動いてしまったあとで、思い返すとこういうことだったなあ、という動きである。「無意識」であるから「不意」ということばでも言いなおされてもいる。
 私は、こういう「言い直し」を読んでいくのが好きである。人は大事なことは何度でも言う。何度でも言い直す。言いなおしているうちに「ことばの肉体」が生まれてくる。
 この詩の「思想(肉体)」を探していくと、「ふと」「不意に」にたどり着くと思う。あるメロディーが思い浮かび、それが何かわからないまま頭を離れない。というのは「不意に」やってきたできごと。「ふと」やってきたできごとである。その「ふと」や「不意に」を見極めようとするとメロディーとは関係があるのかないのかわからないが、「愛されない苦しみにひそかに裏切りに走ったり」とい「衝動」のようなものを思い出したりする。
 どこかに、何か「衝動(本能)」が動いている。それを探しているんだなあ、と思う。「本能」であるから、

生まれて二ヶ月の赤ん坊が
朝の小鳥のコロラチュラにじっと耳をすましている
遠い眼をして

 と「二ヶ月の赤ん坊」が「比喩」として出て来る。「比喩」ではないかもしれないけれど、本能と結びつくことばとして出て来る。ことばが「必然」の運動として、「自然」に動いている。
 1連目のていねいな「論理」を突き破って、だんだん詩の自由さが出始める。

何度でもあきらめよう
そのたびに輝くものがある

迷子よ
迷子よ
後戻りはきかない

 この2連は「意味」は論理的にはわからないが、ことばが「飛躍する」瞬間の「真実」がエネルギーそのものとして動いている感じがしておもしろい。「迷子よ/迷子よ」が「意味」としてではなく、「音楽」として先に動いていく感じ。
 「ふと」「不意に」ということばのあと、開き直った(?)感じでことばが疾走しはじめる。このスピード感が、詩、なのかな? この詩をアンソロジーに選んだ人の好みなのかな、と考えた。
 (いつか書きたいと思うが、私が『モーツァルトになっちゃった』をおもしろいと感じたのは、また違う作品、違う理由であるのだが、とまた書いておく。)



 尾花仙朔「晩鐘」(初出「午前」6、2014年10月)。私は、この作品は苦手である。私はカタカナ難読症なのか、カタカナを読むのが苦手。この詩は漢字とカタカナの組み合わせで、カタカナだけで書かれているわけではないのだが、読みづらいなあという気持ちが先に立ってしまう。そして、実際に読みはじめると

彼方ヲ望メバ内戦紛争ノ絶エマナク
民族ノ覇権アラソウ相剋ニ悪霊アマタ跳梁シ
血ヲ血デ洗ウ災イ果テシナク
飢餓ノ闇 恐怖ノ斧ニ囲マレテ
平穏ナ日々ノ生活ヲ請ウノミノ民ハ塗炭ノ地獄絵図

 どのことばも知らないわけではないが、日常的に私のつかわないことばばかりである。現実の世界の問題と重なることばがつかわれているのだが、「現実の世界」といっても、私はそこに書かれているようなことを自分の「肉体」ではまったく知らない。私の「肉体」はそういうことをおぼえていない。ニュースで知っているだけで、「肉体」に響いてこない。私の想像力が貧弱なだけなのだろうけれど、こういうことばに私は「親身」になれない。「地獄絵図」というような「流通言語」を読むと、尾花は「体験」として書いているのかなあ、と疑問を感じてしまう。「民」というようなことばもいやだなあ。「民」ということばをつかうとき、尾花は「民」のひとり? それとも「民」ではない人間?



 カニエ・ハナ「草獣虫魚」(初出『MU』2014年10月)。「無」をテーマにした作品--になるのだろうか。

苔の生すまで
結ぶまで
またたくま
私の墓に
無を結ぶ
転がる岩の一念で
月溶けて
地濡れて(土噛んで
父子樹に生った二人の私が
喪がれていって
火ほどけて

 「父子樹に生った二人の私」が何のことかわからないのだが、わからなくてもいいか、とも思う。リズムがおもしろい。1行を短くすることでリズムをつくり出している。「むすまで/むすぶまで」のなかに「む(無)」が何度も出て来る。「むすぶ」の「ぶ」も「無」の変形に感じてしまう。口で声にするとき「む」と「ぶ」は同じ感じ。
 「意味」は音から生まれ音に帰っていく。ことばは「意味」ではなく「音」という生まれては消えていく「無」そのものとして動いていく。--と書くと那珂太郎のことを書いているような気持ち。「喪がれていって」というのは「殯」と関係している? 「もぐ」という動詞の「当て字」?
 そんなことを考える(そんなふうに「誤読」する)のも楽しい。

モーツァルトになっちゃった
有働 薫
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阿部嘉昭「アジサイ喰い」、天沢退二郎「二つの家」、伊藤浩子「電話、砂嵐、穴」

2015-01-21 18:41:32 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
阿部嘉昭「アジサイ喰い」、天沢退二郎「二つの家」、伊藤浩子「電話、砂嵐、穴」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 阿部嘉昭「アジサイ喰い」(初出『陰であるみどり』2014年10月)。「アジサイ喰い」とは何のことだろう。「アジサイ」は花(植物)のアジサイ? 私は食べたことがない。

たえず緯度の老齢で
紡錘の絞められる北地にも
ようやくいろづきだした
聖水たたえる球を
えらばずにほおばってゆく

 書き出しから、何のことかさっぱりわからない。「紡錘」「いろづく」「球」「ほおばる」から、色づいた鬼灯をほおばっているのかとも思ったが、「アジサイ」とは季節があわない。
 「緯度」「老齢」「北地」というのは緯度の高い北の土地を想像させるが「ようやくいろづきだした」の「ようやく」もわからない。緯度の低い南の土地なら「ようやく」色づくという表現はあると思うが、北の土地なら「はやくも」色づき出したということばを私は思い出す。
 「流通言語」を否定し、それとは違ったつかい方をする--それが詩、ということなのかな? 
 でも、そうなら……。

しずかな未遂の亡霊がうかぶ
くちをもやす花喰いびとにあり
ぼろまとうアジサイ喰いは
ふくみあやまる毒でくちを消し
かち色の身もしずめながら
ゆきかうだけをくりかえして
まぼろしなすその挙動から
不審な珠などあふれしめ
つながってゆくひかりみな
ひとしく狂れだすよう
よわさをそこへ火ともす

 亡霊が「浮かぶ」、ぼろを「まとう」、身を「しずめる」という「定型」の「動詞」は、どういうことだろう。
 まぼろし「なす」、あふれ「しめ」という口語から遠い表現も気になってしまう。口語から遠いくせに(あるいは遠いから、なのか)「定型」の文体(動詞の意味の働き方)が気になってしまう。ことばに酔って「頭」が「定型」を動いていない?
 「ようやくいろづきだした」という表現も、阿部の「頭」がおぼえている「定型」ではないのかなあ。今は北海道に住んでいるようだけれど、それ以前に住んでいた土地のことばの「定型」が無意識に出てきてしまったのではないのかなあ。
 詩なのだから「意味」があろうとなかろうといいと思うけれど、ことば酔った音の動きが気になる。ことばに酔うことは詩の大事な部分を占めるけれど、でも「酔う」のは読者であって「作者」ではないなあ。筆者は醒めていて、読者が「酔う」のが詩だと思うなあ。
 酒席で、ひとり酔いの頂点にいる人を見るような感じがする。



 天沢退二郎「二つの家」(初出『贋作・二都物語』2014年10月)。「私」は「僕」であり、「俺」でもある。「僕」と「俺」の違いは、住んでいる家の違い(家にいる小母さんの違い)。三叉路がある。Yの字をつかって天沢の詩の「僕」「俺」と「二つの家」の関係を図式化すると、Yの下の方に「僕の家」、左上に「俺の家」、右上が図書館。交わっているところに「ブルー」というカフェがある。その「ブルー」で……

そこで一服してから、わが家に入ると、
驚いたことに、玄関口に僕の家の小母さんが
大きな顔をしてがんばっているではないか!
何だ? どうしたんだ! 全く理解不能だ
あまりの驚きに 僕?/俺?は
その場で失神してしまった



気が付くと、さっきのカフェ・ブルーの、
三叉路に面した席に座っていた
この私は、いったい僕なのか、俺なのか

 ここに書かれていることは、すべて「頭」のことばである。「理解不能」ということばが出てくるが、「理解」とは「頭」ですること。「頭」が「理解不能」と言っている。
 天沢は、これを「肉体」のことばで言いなおしたりしない。「頭のことば」をそのまま動かしていって、それを「ことばの肉体」にしてしまう。「肉体」というのは、どういういときでも「ひとつ」である。「ひとつ」であることによって生きている。「僕」と「俺」は「ことば」としては「ふたつ」であり、さらにそれを認識する「私」をくわえると「みっつ」になってしまうが、それを「ひとつ」にして生きる。動く。そうすると、どうなるか。

外はもう夜で、店員が、閉めるから出てくれと
言っているが、その私は今ここでは
僕なのか、俺なのか、
それがきまらないかぎり、ここを出ても
二つの家のどっちへ行ったらいいのか
わからないではないか!?
                       (注・「!?」は原文では1文字)

 「わからない」にたどりつく。この「わからない」を「わからない」まま書くのではなく、あくまで「わかる」ことば、「わかる」論理を動かしていく--そのときに「ことばの肉体」が見えてくる。
 これが、おもしろい。
 「わからないこと」(理解不能)のことを、ことばは「わかる」ように書ける。他人が共有できるように書くことができる。「わからない」が「わかる」。「私」が困っていることが「わかる」。
 ことばの不思議は、ギリシャの時代から「矛盾」と向き合っていることだ。ギリシャ人の明晰な頭脳を困惑させたのは「ない」を考えることができるということだった。「ある」はそこに「ある」もので証明できなるが「ない」はそれ自体確認できない。でも「ない」が、「わかる」。そこから「論理」が動いている。
 私は「頭のことば」は好きではないが、「頭のことば」が「ことばの肉体」にまでなってしまった「ことばの運動」を読むのは大好きだ。「肉体」になってしまったことばは、どこまでも動いていける。そういう自在さがある。自由がある。そして、その自由さの度合いは、ことばのスピードそのものになってあらわれている。軽さ、明晰さにもなってあらわれている。



 伊藤浩子「電話、砂嵐、穴」(初出『undefined 』2014年10月)。「現代詩手帖」に掲載されているのは「抄」。だから全体の内容はわからないのだが、女と知り合いホテルで一夜を過ごす。朝、電話をとるが、雑音で聞こえない。女はとなりでうめいている。

 女は体中に穴を開けていた。あたしは穴という穴のすべ
てに舌を這わせ、何度も舐めあげたけれど、その穴が昨夜
はあんなにいとおしかった、レズビアンの耳の穴にある骨
の形がストレートとは違っているとどこかで読んだことが
あるけれど、それはもしかすると真実なのかもしれない、
これと同じことは二ヶ月前にもあったし、たぶん、来年も
あたしは同じことを繰り返しているだろう。耳の穴の暗闇
にぽっかり浮かんだ、白い骨。

 そんなことを思っていると、地震があってテレビをつける。地震情報を確かめようとする。
 阿部のことばの動きとも、天沢のことばの動きとも違う。
 私たちが日常つかっていることばのまま、伊藤の体験したことが、並列して書かれている。わかることばで、私の知らないことが書かれている。でも、何が「わかったか」ということは、たぶん、「わからない」。伊藤が女といっしょにホテルにいるときのことを書いている、ということだけが「わかる」。

贋作・二都物語
天沢 退二郎
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森山恵「指切り」、青山みゆき「娘」、暁方ミセイ「クラッシュド・アイス陽気」

2015-01-20 10:07:34 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
森山恵「指切り」、青山みゆき「娘」、暁方ミセイ「クラッシュド・アイス陽気」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 森山恵「指切り」(初出『岬ミサ曲』2014年09月)は、何を書いているのだろう。「指切り」は「約束」を思い起こさせるが、よくわからない。よくわからないけれど、

つる草。灌木に絡むつる草。
仙人草の小さな仙女が。蜜をすくう。くすくす笑う。マルハナバチが蜜を。
吸う。

 音の交錯が楽しい。「すくう」「くすくす」「吸う(すう)」。こういう「音」そのものの交錯に隠れて、「意味」も交錯する。ことばが形を変えて反復する。「つる草」は2行目で「仙人草」と言いかえられる。あいまいだったものが具体的になる。「仙女」が「マルハナバチ」と言いかえられる。音そのものの交錯と、イメージの交錯が一体になって動いている。

そう。仙人草。小さな莟は細く裂けて囁く。
くすくす笑う。歌う。
指に絡み付いて。わたし。囁く。
笑う。人間たち 分かってないね。なんにも。なあんにも。

 「仙人草」はさらに「小さな莟は細く裂けて囁く」と言いなおされる。白い花びら、その中心に細く咲かれたような糸のようなもの。それは何事かを囁いているように見えないことはない。「くすくす笑」っているのか。あるいは「歌」っているか。
 わからないけれど、だんだん花が見えてくる。
 見えてくると同時に、その花と呼応するように「わたし」が「囁く。」いや、この「わたし」は森山ではなく、「仙人草」そのもの、そして「マルハナバチ」そのもの。そこにある「風景」そのもの。
 ここから森山は、「自然」の奥深くへ分け入っていく。

水源地の仙人水。
水のまぶたで。撫でる。つる草は死の国から伸びて。
あたたかい。虹色の土を。
黄泉の国にも花。花。花を花を咲かせる。人のからだに根を下ろして。ひそやかに。
わたし。秘密を隠しもって。

 これは、仙人草を扁桃腺の治療に使う民間療法のことを指しているのだろうか。扁桃腺が腫れたとき、腕に仙人草を貼ると扁桃腺の腫れがひく、ということを聞いたことがあるような、ないような。(違う草かもしれないが。)「水源地」「死の国」「虹色の土」のつらなり、「人のからだに根を下ろして」ということばのつらなりから、なんとなく、そういうものが浮かんでくる。
 野草の薬効などに詳しい人には、森山の描いているイメージがもっとはっきり見えるだろうが、私には、よくわからない。けれど、ことばを何度も言い直し、自分の言いたいことに近づいていく方法、そのとき音を大切にしているということが、この詩を魅力的にしている。
 (完全な「誤読」かもしれないけれど、私は「誤読」を気にしない。)



 青山みゆき「娘」(初出『赤く満ちた月』2014年10月)。この詩もよくわからない。娘が反抗期。母親(青山)に「お母さんなんか大嫌い、あんたなんかお母さんじゃない」と言ったのだろうか。

       (部屋の隅で
            からだを折りまげ
          あなたは
        小さくなってころがっている)

 そういう様子をみて、

わたしは何をなくしたのだろうか

 と思っている。反省している。しかし、そうだとすると、最終行、

あなたの心臓はまだ動いている

 これは何だろう。なぜ、「心臓」が出てくるのか。不吉な感じがしてしまう。
 森山の詩に「死の国」ということばが出てきたけれど、それは不吉ではなかった。この詩には「心臓」が出てくるのに不吉。
 ことばは不思議。
 何とつながって動いているのだろうか。



 暁方ミセイ「クラッシュド・アイス陽気」(初出『ブルーサンダー』2014年10月)。詩集の感想で「宮沢賢治を思い起こさせる」と書いたが、この詩も賢治を連想させる。

こんなに滅多な光の渦なのだから
こちらは分離作用の澱のほうで
よく澄んだ藍色のこの上空に
さらに清澄な上澄みの液があるだろう

 「こんなに……なのだから」「こちらは……のほうで」という「対」のつくり方、「分離作用」というような硬質なことば。「清澄(透明)」なもの、結晶のようなものへの意識の動き。
 賢治が暁方のなかで生きている、動いている感じが、うれしい。賢治の模倣ではなく、賢治が生きていると感じるのは、暁方が賢治を完全に自分自身のものにしてしまっているからだろう。賢治が生きているではなく、賢治を生きている、と言いなおした方がいいのかもしれない。

岬ミサ曲
森山 恵
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広瀬弓「みずめの水玉」、藤原菜穂子「山の上の病院は」、宮内憲夫「夕陽も笑顔」

2015-01-19 10:42:51 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
広瀬弓「みずめの水玉」、藤原菜穂子「山の上の病院は」、宮内憲夫「夕陽も笑顔」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 広瀬弓「みずめの水玉」(初出『みずめの水玉』2014年09月)。何が書いてあるのか、わからなかった。

手のひらと顔を天に向け
降ってくる水玉をキャッチした
ひとつぅ……
……ふたつぅ
ひとりでに嬉しくなって
笑いながら
とび跳ねていた

 「降ってくる水玉」は「みずめの水玉」。私は見たことはないが「傷ついた木肌をくろぐろと染め、吹き出す樹液の水玉を風に乗せ飛ばしていた。」と書いてあるので、ミズメの樹液が飛んでいるのだろう。しかし、その樹液(水玉)が「傷」といっしょにしか存在しえないのなら、それは単純な喜びとは違うものかもしれない。
 そのあと、「わたしたちは大切な青年を連れ去ろうとしていました。」ということばがあり、さらに、

血が流れます。流れる流れると見つめていましたが、流れぬまま画像はフリーズしています。流れ出す前に目を覚まそうと、わたしは薄明のもやの層をもがいて浮き上がりました。

 「現実」ではなく、「過去」の何か(ミズメにまつわる神話?)とことばが交錯しているようである。私は無知なので、その「神話」のようなものを知らない。だから、この詩は、わからない。



 藤原菜穂子「山の上の病院は」(初出『行きなさい 行って水を汲みなさい』2014年09月)。夫の手術後の病院。夫はまだ水を飲むことを禁じられている。水を飲ませるまでに時間がある。その時間を利用して、食事に行く。そのとき、同じ病院にいるひとたちを見る。

正面玄関から入って来るひと出て行くひと
立ち止まって話し込んでいるひと
むこうの窓際で
初老の男性が窓の外の緑を指差しながら
車椅子の老いた母に話しかけています
イロハモミジの若葉がそよぎ
石楠花がぽつぽつと火を点し
雨あがりの空に雲が流れて

 あの母と子は 風にそよぐ
 生命を見ているのです
 (死者たちが生命を見ているのです)

 はっと、胸を突かれる。母と子は、生きている。「死者」ではない。けれど、死を受け入れているということだろう。死を受け入れる覚悟をして、自然の「生命」を見ている。病院とは、そういうところかもしれない。
 そう気づいたとき、藤原は不思議な声を聞く。

行きなさい と誰かの声がうながします
行って水を汲みなさい
霧の奥に流れている水を汲んできなさい
魚の遡る谷川の水を

 それは「生命」の水。生命があふれる水。それを藤原は夫に飲ませたい。いずれ死は来るかもしれない。そうであっても、それまで「生命」の輝きを味わってもらいたい。味わわせてやりたい。そういう祈りが聞こえる詩である。



 宮内憲夫「夕陽も笑顔」(初出『地球にカットバン』2014年09月)。戦後(敗戦直後か)、「俺はどこから うまれたのだ?」と両親に聞く。父は「木の股からだ」と答える。母は「木の股からは方便」と笑う。そして、つけくわえる。

土からも木からも 人の子は産まれん
ただ自然に恵まれた生命と 心にすえりゃ
その身は丈夫で 争いはせぬ!
祖母(ばあ)が教えてくれた 大事な事実(こと)だから
安心 せよと!
こよなく 美しい笑顔であった

 戦争批判とセックスの大切さ(生命の原点)について語っているのだが、わかりにくい。直接的な表現がないからである。
 省略してきた途中に、戦争中の村の様子が書かれているが、そこに

村中(みんな)の人が辛抱に辛抱を重ねてきた
男は「身棒(しんぼう)」を使う元気が有るくらいなら
皆兵隊に来いを 恐れていたと……

 という表現がある。「身棒」はペニス。セックスする元気があるなら兵隊にとるぞ、と言われていた、ということか。
 しかしセックスは「大事な事実」。戦争と違って、怖くはない。「安心せよ」と母の母は言った。娘は母から聞かされた。そしてセックスして、その結果として宮内は生まれた。母は、そういうことを言った。そのときの顔は「こよなく 美しい笑顔であった」という「意味」はわかるが、その「意味」以上の「美しさ」がよくわからない。
 抽象的すぎる。
 抽象的すぎる原因は、宮内が聞いたことが「伝聞」だからかもしれない。母の直接のことばではなく、祖母のことば。母の体験が母のことばではなく、祖母のことばで語られるからかもしれない。またそこに宮内のセックス体験が含まれていないからかもしれない。
 祖母のことばがしめくくり(結論)のようにつかわれているのは、「生命のつながり」というのは、母-子の間だけではなく、さらに遠くまでつづいているということを象徴しているのかもしれないが、何か、どきどきしない。興奮しない。宮内の声が聞こえないからだ。

 藤原の詩に引き返してみる。
 藤原は老いた母と初老の息子の話を聞きながら、二人が話しているイロハモミジとシャクナゲを見る。そのあと、藤原のことばで

 あの母と子は 風にそよぐ
 生命を見ているのです
 (死者たちが生命を見ているのです)

 と、語り直す。何かを「語り直す」こと、自分のことばで動かすこと--それが、世界を詩にするかどうかの境目なのだ。世界はだれにも同じように開かれている。その世界をどうことばにするか。他人のことばに刺戟を受ける。他人のことばをそのまま自分のことばにするのもいいことだけれど、聞いたことばのその先へ自分のことばを動かしていくと、世界はもっと輝く。

行きなさい と誰かの声がうながします
行って水を汲みなさい

 藤原は「誰かの声」と書いているが、これは藤原の声である。藤原の「新しい声」が藤原を励ましている。「新しい声」の発見が詩なのだ。宮内の詩は「事実」を書いているのかもしれないが、そこに「新しい自分の声」が欠けている。
 藤原の詩だけを読んでいたときは、あまり感じなかったが、宮内の詩を読み、そこから引き返すと、藤原の詩はとてもすばらしい詩だと気がつく。


行きなさい 行って水を汲みなさい
藤原菜穂子
思潮社

谷川俊太郎の『こころ』を読む
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近藤久也「オープン・ザ・ドア」、最果タヒ「きみはかわいい」、近岡礼「鴇色に爆発する」

2015-01-18 12:00:35 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
近藤久也「オープン・ザ・ドア」、最果タヒ「きみはかわいい」、近岡礼「鴇色に爆発する」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 近藤久也「オープン・ザ・ドア」(初出『オープン・ザ・ドア』2014年09月)。幼かったとき、両親が家を空ける。兄弟だけで留守番をしている。見知らぬひとが尋ねてくる。「誰が来ても決してドアをあけないように」と言われている。そのときの不安な状況を描いている。居間から、奥の小さな部屋にゆく。

  奥の小さな部屋の電灯に兄は来ていたセーターをまき
つけ、ベルトでしばった。電灯の真下だけがぼおーと明る
くて、とんでもなく心細かったが我慢した。もっと奥に
もっと小さな部屋があればと思った。

 この「もっと奥にもっと小さな部屋があればと思った。」が「みつかりたくない」という気持ちをしっかりとつかまえている。「もっと」「もっと」が切実だ。



 最果タヒ「きみはかわいい」(初出『死んでしまう系のぼくらに』2014年09月)。

みんな知らないと思うけれど、なんかある程度高いビルに
は、屋上に常時ついている赤いランプがあるのね。それ
は、すべてのひとが残業を終えた時間になっても灯り続け
ていて、たくさんのビルがどこまでも立ち並ぶ東京でだけ
は、すごい深い時間、赤い光ばかりがぽつぽつと広がる地
平線が見られる。

 この書き出しは、象徴的でおもしろい。このあと「きみが無駄なことをしていること。 /きみがきっと希望を見失うこと。/そんなことはわかりきっていて、きみは愛を手に入れる為に、故郷に帰るかもしれないし、それを、だれも待ち望んですらいないかもしれない。」という青春が語られる。
 「きみ」はだれだろう。この場合詩集のタイトルになっている「ぼく(ら)」に従えば、「ぼく」から見た「きみ」だが、わたしには「ぼく」を「きみ」と二人称で呼ぶことで、自分を相対化しようとしているように思える。
 で、タイトルにもどると……。
 なぜ最果は「ぼく(ら)」という呼称、一般的に男が自分を呼ぶときにつかう呼称を詩集全体のタイトルにしたのだろう。最果が自分を客観的(相対化して?)に把握したいと思っているからかもしれない。そして、その思いが、この詩でも「わたし(ぼく)」でもなく「きみ」という「二人称」を選ばせている。
 詩を書いている「ぼく」を最果と考えると、「ぼく」は仮構された存在、そしてこの仮構された存在が誰かを「きみ」と呼ぶとき、それが同じように仮構された「ぼく」自身であるなら、仮構された「きみ」は女であり、その女は「最果」ということになるかもしれない。仮構のなかでことばを動かしながら、最果は仮構されない自分(女の自分)に語りかけているのかもしれない。
 そういう仮構するこころ(精神)の動きとビルの赤い灯は、どういう関係にあるのか。これはちょっと考えただけではわからない。考えても、わからないのだけれど……。
 「深い時間」と「赤い光ばかりがぽつぽつと広がる地平線」ということばが、「きみ」「ぼく」「わたし」という「主語」の「仮構」と交錯し、あ、その「赤い地平線」の「ぽつぽつ」のひとつひとつが「きみ=最果自身」のように感じられる。最果の「肉体」のなかで動いているもの、「肉体」の深い深いところまでおりていくと見える最果の本質のように感じられる。
 最果は東京で「他人」に出会い、その出会いのなかで、最果自身と同じように、「肉体」の「深い」ところで「常時ついている赤いランプ」を感じたのかもしれない。それは、ふつうの時間(日常の時間)には見えない。残業も何もかも終わって、「わたしという肉体」にもどった瞬間、それがあることに気づくというものかもしれない。そして、その「赤い灯」を「肉体の深いところ」でともしているひとは、遠く離れて、「ぽつぽつ」と生きている。「肉体のふかいところ」へ帰ったとき、その「ぽつぽつ」が「ばらばら」な存在ではなく「地平線」のように連続して見える。
 「ぼく」「きみ」「わたし(書かれていないのだけれど……)」という仮構のなかで、最果は孤独と連帯する。
 「ぼく」「きみ」「わたし」という相対化(客観化)は自分自身の深いところ(孤独)へおりてゆく方法なのかもしれない。

きみはそれでもかわいい。
とうきょうのまちでは赤色がつらなるだけの夜景がみられ
るそうです。まだ見ていないなら夜更かしをして、オフィ
スの多い港区とかに行ってみてください。赤い夜景、それ
は故郷では見られないもの。それを目に焼き付けること、
それが、きみがもしかしたら東京に、引っ越してきた理由
なのかもしれない。

 書き出しで「東京」と書かれていた街が「とうきょう」を経て、もう一度「東京」にもどる。ここにも「ぼく」「きみ」「わたし」の主語の交錯と同じものがある。「ぼく」は仮構した「わたし(最果)」であり、「きみ」は「ぼく」の仮構した「わたし」であり、仮構を繰り返すことで「ぼく」は「わたし(最果)」にもどる。
 「東京」は「赤い灯」という「現実」を中心に「仮構」の都市「とうきょう」になる。その「仮構」されることで見えるものをもう一度語り直すとき、「とうきょう」は「東京」にもどる。その運動のなかで、最果は最果自身を見つめている。自分を見つめることが他人とつながる唯一の方法だと発見している。自分をみつめると、おのずと「ぼくら」になるということを発見していると言いかえてもいい。



 近岡礼「鴇色に爆発する」(初出『階段と継母』2014年09月)。行頭ではなく、行末がそろえられた形式詩。行頭をそろえて引用すると印象が違ってしまうのだが、ネットではうまく表記スタイルを再現できないので、行頭をそろえた形で引用する。正確な詩は詩集で読み直してください。

階段は幻想し
鴇色に爆発する
わたしはわたしであってわたしでなく
あなたはあなたであってあなただ

どうせ一度は灰になるものなら
この静止は必定の予言者だ

 何のことかわからないが「断定している」ということだけはわかる。行頭の上の「空白」を飛び越して、ただ断定する。飛躍の肯定と言いかえるとき、「詩の定義」が突然よみがえる。詩とはかけ離れた存在を結びつける行為。--あまりにもまっとうすぎて、「はい、その通りです」という感想しか思いつかない。批判的に言いかえると、「古い」ということ。時代が逆戻りしたような錯覚に陥る。

死んでしまう系のぼくらに
最果 タヒ
リトル・モア
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金堀則夫「悪水」、北川透「難破船バリエーションズ」、北爪満喜「鏡面」

2015-01-16 11:29:12 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
金堀則夫「悪水」、北川透「難破船バリエーションズ」、北爪満喜「鏡面」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 金堀則夫「悪水」(初出「東京新聞」2014年09月27日)。田は巨大なダムである。田が日本の治水にはたしている役割は大きい。

沼に淀んだ排水を
先代たちは土をもり水路と畦で
井路川と水田にした
水田は稲をそだて米となって生きていく
山辺のため池から水をひいて田をみたし
排水は水と稲によみがえって
空に昇り 海に流れ浄化していく

 自然の循環。それを描きながら、2行目に静かに書き込まれている「先代たち」ということば。これが美しい。金堀は自然をみつめると同時に人間をみている。「先代たち(祖先/その土地に生きるひと)」は自然の循環を生かすために、土地をととのえた。暮らしをととのえた。それが、そのまま暮らしに反映している。そこには「先代たち」の工夫がある。
 「ととのえる」を超えて、何かを「つくる」。そうすると、どうなるか。

人力よりも巨大なものが爆発した
飛び散った危険な物質を洗い落とす
汚染水は海に排することもできない
浄化装置も役立たず
外気から遮断し貯蔵する
海水にもどせない排水をわたしたちはもち続ける
農耕の排水は 水田とともに
水を生かして流れていく
水田から追放されたわたしの
排水はどこへゆく

 「ととのえる」は「生かす」ということでもある。
 土地と、そこに生きる人の暮らし、その暮らしのととのえ方に視線を注ぎつづける金堀の肉体(思想)が静かに語られている。東京電力福島原子力発電所の事故、発電所をつくった人間を静かに批判している。



 北川透「難破船バリエーションズ」(初出「KYO 峡」5、2014年09月)。

難破するは花で言えば開花前の朝顔の蕾
難破するは年齢で言えば十三歳の少年または十六歳の少女
難破するは芸術のジャンルで言えば詩またはジャズ
難破するは男女で言えば精子あるいは♂
難破するは小説で言えば「花ざかりの森」

 「難破するは○○で言えば○○」という行が、終らないんじゃないかなあ、と思う感じでつづいていく。「比喩」の羅列。
 比喩というのは、簡単に言うと「あること(もの)」を「あること(もの)以外のこと(もの)」で言いかえること。「おなじではないもの(こと)」を「おなじもの(こと)」と言いかえること。
 北川のこの詩、「難破するもの」が次々に言いかえられていく。

難破するもの=A
難破するもの=B
難破するもの=C

 そうであるなら、A=B=C?
 そうなのかなあ。「論理的」にはそうならないといけないのかもしれないけれど、詩を読んでいると、そういう感じがしない。

開花前の朝顔の蕾=十三歳の少年=詩=精子=「花ざかりの森」

 一部省略して図式化してみたが、この羅列は、とても「イコール」では結べない。
 比喩はA=Bという簡便な図式では定義できない。それなのに詩を読んでいるときは「おなじ比喩」と勘違いして読んでいる。
 ある存在と比喩、そのふたつのものは完全に重なり合うわけではないが、見方によっては重なり合う部分がある。その「重なり合った部分」が、比喩でつたえたいことの「本質(真実)」ということか。そうだとしても、「開花前の朝顔の蕾=十三歳の少年=詩=精子=「花ざかりの森」」に重なり合う部分をみつけだすことは難しい。
 何を書いているのかなあ。北川は「でたらめ(思いつき)」を書いているのかなあ。詩なのだから「思いつき」の意外性だけを書くというのも、それはそれでいいのだけれど。他に読み方はできないかなあ。

 北川のこの詩を読んだ最初、「開花前の朝顔の蕾=十三歳の少年=詩=精子=「花ざかりの森」」というのは変だぞ、などとは思わない。すらすら読んでしまう。読んでしまって、感想を書こうとすると、つまずく。
 私の「(詩を)読む」から「(感想を)書く」への「移行」の間に、何か、変なものが紛れ込んでいるのである。
 ここから、反省をこめて、引き返す。
 詩を読んだとき、私の「肉体」のなかに最初に起きたことは何か。
 「難破するは○○で言えば」を何度も何度も通る。繰り返す。そうすると、「肉体」のなかに「難破するは○○で言えば」という言い方が定着する。「難破するは○○で言えば○○」の、あとの方の「○○(である)」は次々に変わるから「おぼえる」ことはできないが「難破するは○○で言えば」はすぐにおぼえてしまって、北川の詩を読まなくても「難破するは○○で言えば」と言えてしまう。そのことばを「つかう」ことができるようになっている。そして、それが「つかえる」ということは、北川にかわって後半の「○○(である)」を言えるということでもある。
 ことばのつかい方の「定着」。
 「A=B」という比喩、そのときこの詩では、イコールで結ばれるのは言いかえられたAとかBとかではなくて、その前の「難破するは○○で言えば」という「言い方」をとおして北川と読者(私)が「ひとつ」になる。そこに書かれている「比喩」、「比喩」が明るみに出す何か(真実?)よりも、言い方のなかで、北川と私(読者)がひとつになって動き、「比喩」の「ずれ(?)」を超えていく。
 「難破するは○○で言えば」という「言い方」が共通なので、そのあとに何が来たって平気。ただその変化のあり方を楽しめばいい。
 これは、そういう詩なのだ。

 しかし、こんなふうに簡単に思ってはいけない。「ことばのつかい方(言い方)」になじみ、それが自分でも言えると思った瞬間、詩の最終行。

難破するはシェイクスピアの戯曲『あらし』のセリフで言
えば「おめぇ、どうやって助かったんだよう? どんなや
り方でここまで来たんか? えっ! この徳利にかけて誓
え! おれはなぁ、水夫が海に放り込んだ、でっかい酒樽
に掴まって漂流している内に、助かったんよ。このおれ様
の徳利はなぁ。渚に打ち上げられてから、樹木の皮をひん
剥いて、おれ様が作り上げたもんだ。これで焼酎飲むと見
える世界が変わるんよ。」

 わっ、突然、突き放されてしまう。北川の肉体(ことばの言い方)はわかった、と思った瞬間、それがまったくの「誤読」だったことがわかる。ここに出て来る口調をまねて言えば、北川は「おれ様は、こういうことが言える。おまえは何が言える?」と問われた形。
 どんなことばも、どこかから来て、どこかへ帰っていく。その往復のなかにいて、北川は、自在に動いている。「難破するは○○で言えば」の繰り返しに誘い込まれて、ことばの肉体を身に着けたと思ったら大間違い。
 でも、これは北川の、読者への「拒絶」ではなく、読者への「誘い」なのだ。
 ことばのつかい方(言い方)を「肉体」にしてしまって、その「肉体」を動かして動かして動かして、動かしぬいて、完璧に動かし方を「肉体」にできたなら、そこから飛躍してみよう。その瞬間、どこへ飛び出すか。それを楽しんでみよう。
 そう言っているように、私には感じられる。その誘いの声が聞こえてくるので、この詩は楽しい。



 北爪満喜「鏡面」(初出『奇妙な祝福』2014年09月)。生家にもどったときのことを書いているのだろうか。父母はもう死んでいない。人の住まない家の荒れた感じがていねいに描写される。そして、

永く開けない窓に
蛾が 干からびている
鼻から口の感じがずれて
鏡の私は 別の顔になっている

陽に焼かれた闇に冷え
時間をためていた鏡面に
吸い込まれ崩れ
幽かな記憶から出てきたような
みたこともない顔を
もらう
可笑しくて哀しい
鏡面には
剥げかけた金色で前橋信用金庫
の文字

 荒れた家の様子に、それをみつめる北爪の表情もかわってしまう。その顔が鏡に映っている。そのあとの「剥げかけた金色で前橋信用金庫/の文字」。この終わりの2行がいいなあ。昔、銀行から鏡をもらうことがあった。そこにはたしかに銀行の名前が書いてあった。どこの家にも、そういう鏡があった時代がある。「前橋信用金庫」というのは他者なのだが、その他者の存在によって、「自己」である「家/顔」がくっきりと浮かび上がる。鏡に知らない私が映っているだけでは、その顔がどんなに違っていても「自己同一」に終わってしまって、ことばが生きてこない。

北川透 現代詩論集成1 鮎川信夫と「荒地」の世界
北川透
思潮社

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岩佐なを「Mパン」、海埜今日子「骨灰(こっぱい/こっかい)を」ほか

2015-01-14 11:02:27 | 現代詩年鑑2015(現代詩手帖12月号)を読む
岩佐なを「Mパン」、海埜今日子「骨灰(こっぱい/こっかい)を」、榎本櫻湖「空腹時にアスピリンを飲んではいけない」(「現代詩手帖」2014年12月号)

 岩佐なを「Mパン」(初出「交野が原」77、2014年09月)。棚の上に紙がある。前半は、その紙の行く末を、紙になって思い描いている。それもおもしろいのだが、後半、詩の世界ががらりとかわる。

いちまいのまっさらな紙は
ティッシュペーパーの代役で机に出され
上に黄色く甘いにおいの満月を載せられた
満月、ちがう、亀だよ
汗のようにキラキラとグラニュー糖が散り
表面サクサク中フカフカの
亀は声もたてずに食われていく
身体を失っていく途中の
変形(残存)体が紙の上に横たわる
大きな歯形が痛々しく
いきもたえだえかい
ああ、亀鳴くや(それは季語)
いちまいのもはや少し汚れちまった紙との
最期の接触を惜しみ
消えた
さようなら
亀の綽名は
メロンパン

 紙を皿がわりにして、メロンパンをおく。それを食べる。そういうことを、「メロンパン」ということばをつかわずに書いている。最後に「メロンパン」ということばは出てくるが、これは「オチ」だね。
 メロンパンを「亀」と言いかえるのは「比喩」だが、名詞の置き換えだけではなく、置き換えた後それを「亀」として動かしていく。「甘いにおい」「グラニュー糖」「表面サクサク中フカフカ」という食べる方の感触と、食べられる「亀」の「表面サクサク中フカフカ」「変形(残存)体」「大きな歯形」という描写が共存し、そのあと

いきもたえだえかい
ああ、亀鳴くや(それは季語)

 この漫才のかけあいのような呼吸がおかしい。
 「いきもたえだえかい」と聞いたのは誰だろう。メロンパンを食べている人だろうか。食べられるメロンパンを見ている人だろうか。「ああ、亀鳴くや」と言ったのはだれ? そして、その直後の「(それは季語)」と言ったのはだれ? 別の人? それとも同一人物? 「ああ、亀鳴くや(それは季語)」はきっと同一人物だね。「亀鳴くや」と言ってしまった後、すぐに「季語があったなあ」と自分で気づいている。
 ひとはあることを思い、一瞬にして、それとは違うことも思う。何かを思い、それをことばにするとき、それだけを思っているわけではない。いろいろなことを思っている。
 そう考えると、それはこの詩の世界そのものを言いなおしたことになる。
 メロンパンを食べる。その触感の甘さ、やわらかさ、硬さ(表面)を味わいながら、形が亀に似ているなあ、食われる亀は痛いかなあ(食われれば痛いに決まっているかもしれないけれど)。どうでもいいこと(?)なのだけれど、そういうどうでもいいことを私たちは考えることができるし、それをことばにすることもできる。
 あ、ことばにできる、と書いたけれど、ふつう、ひとは、思ったからといってそのすべてをことばにするわけではない。思っていてもことばにしなかったことをことばにしてしまえば、それは詩なのだ。
 引用しなかったが、前半の紙の行く末(何か印刷され、張り紙にされ、はがされることなくビルといっしょに壊される)というのも、ありうるけれど、そんな「不経済」なことはひとはことばにしない。ことばの経済学に反している。つまり「無意味」。--ということは、「無意味」を書けば詩になるということでもあるね。
 あ、脱線したかな?
 かけあい漫才の後の、

いちまいのもはや少し汚れちまった紙との

 この一行もいいなあ。中也の「汚れちまった悲しみ」を思い出させる。ついつい口をついて出てくる。
 岩佐の詩には、そういう「口をついて出てくることば」が知らん顔して紛れ込んでいる。「亀鳴く」(季語)というのも、そうだ。思いつくままでたらめを書いているようであって、それは「肉体」に充分になじんでいる「ことば」だ。「ことば」が「肉体」となって、自然に動いている。
 だから不思議なおかしさがある。そこに書かれていることは「知らないこと」ではなく充分に「知っていること」「肉体がおぼえていること」。「肉体がおぼえている」けれど、それをこんなふうに「動かしてみる」ということ、「つかってみる」ということがなかった。こんなふうに「肉体がおぼえていること」を「ことばにして動かす(ことばをつかってみる)」と、忘れかけていたあれこれがひとつひとつ生々しく動く。それがおもしろい。おかしい。
 書く順序が逆になったが、「ティッシュペーパーの代役で机に出され」という「日常」もおかしい。皿がないとき、ティッシュを代役にする。紙は皿の代役なのに、皿の代役ティッシュの代役、つまり代役の代役という具合に世界がずれていくのも、「紙の行く末」から「メロンパン」へと「ずれ」ていくのを誘い出すようで、とても楽しい。
 あとは余談だが……。
 私はこのメロンパンというものが大嫌い。岩佐は以前、三角形の、なかにチョコレート(?)が入っているパンのことも詩に書いていたと思う。名前があったが、忘れた。この菓子パンも私は嫌い。嫌いだから名前もおぼえない。岩佐は、私が嫌いなもの(苦手なもの)ばかりを題材にして書いている(ように思える。)
 で、私は、昔から岩佐の詩は気持ち悪い、気持ち悪いと書きつづけているのだが、最近は、その気持ち悪さが岩佐なのだとわかってきたのか、慣れてきたのか、変におもしろくて困っている。
 でも、メロンパンは食べない。あの表面のべたべたつきが大嫌い。砂糖の粒が歯にあたったときの、甘さが弾ける刺戟を思うと、脳が萎えそう。



 海埜今日子「骨灰(こっぱい/こっかい)を」(初出『かわほりさん』2014年09月)。タイトルをのぞくと、ひらがなだけで書かれている。「骨灰」をどう読むか。「ほねはい」(ほねのはい)、「こっかい」。きめかねて、ことばが交錯する。

こっかい、そこからさけびが、うもれるのだろうか。いつ
かみちて、きっとおだくをてんかいする。かたどったな
ら、やけばいい。たとえば、あめとうみ、のよう、はんて
んし、べつのひふをおびてゆく、くぐもるきせつの、なま
えにおいて。しめりけが、においをつめこみ、ひびいたは
だだ。とつぜんならば、だれをもいわない。いわく、あた
らしい、ようぶん、とどいて。

 漢字まじりにすれば「骨灰、そこから叫びが、埋もれるのだろうか」になるのだろうか。私は「埋もれるだろうか」ではなく、最初「生まれるだろうか」と読んでしまった。あ、「生まれる」ではなくて、「叫び」が「埋もれる」か。「叫び」はたしかにとどかないことがある。
 何かを読み違えながら、そこから海埜の世界へ引き戻されるようにして詩を読むことになる。
 「汚濁を展開する」ということばも「汚濁点を介する」と、私は読み違えていた。そのことばの前後に、さけ「び」、かた「ど」った、やけ「ば」、たとえ「ば」という具合に「濁音」があるからだ。「濁音」の「ちょんちょん」が目について「汚濁点」と間違えてしまう。
 「あめとうみ、のよう、はんてんし」からは「羊水のなかの反転」という「漢字まじりの文」が誘い出される。「海」が「羊水」につながる。「羊水」のなかでは胎児は頭を下にしている、さかさま、反転している。その胎児は「(母親とは)別の皮膚を帯びる(身にまとう)」。胎児には「養分」が届く。
 「骨灰(死)」の一方で、そういう「誕生」の世界がある。
 私の「誤読」は海埜の書いていることとは無関係かもしれない。私が「誤読」しているだけなのだが、その「誤読」に対して、海埜の「ひらがな」が違う、違うと訴えかけてくる。違う、違うが聞こえるのに、私はそれでも「誤読」がしたい。
 そういう感じで、私は海埜の詩を読んだ。主語/述語の関係がたどれない部分では、さらに「誤読」が拡大するのだが、詩なのだから「誤読」でいいと私は思っている。他人のことばに触れながら、自分自身のことばの動かし方を見つめなおすのが詩なのだと思っている。



 榎本櫻湖「空腹時にアスピリンを飲んではいけない」(初出『空腹時にアスピリンを飲んではいけない』2014年09月)。
 以前、榎本の詩について感想を書いたところ、「本を買って読むのは自由だが、感想を書かれるのは迷惑だ。やめろ」と言われたことがある。私は人が怒るのをみるのは大好きなので、「やめろ」と言われたけれど、感想を書く。なぜ、人が怒るのをみるのが好きかというと、怒った瞬間「地」が出てくる。その輝きが、なかなか楽しい。なかなか怒らないひとは、少しずつつっつく。そうするとだんだんいらいらしてくるのがわかる。これも、妙に楽しいものである。

ピザが運ばれてくる--腰にタブリエを巻いたきれいな黒
髪の青年が、注文したペリエをもってテラスへとやってく
る妄想--、チーズの海にはオタリアなどの海棲哺乳類が
産卵のためにあつまってきていて、にぎやかな祝祭が衛星
中継によってその腥みとともにテーブルのうえへと--飴
いろのニスが剥げかけて、エボラ出血熱の流行をくいとめ
ることもできない歯痒さがオリーブの樹につぎつぎ実って
いくのを、睥睨する--、とどけられたのだったが、半島
の端を摘もうとする指がまがるにつれ、

 これは書き出し。ことばがたくさん出てくるが、海鮮がトッピングされたピザを注文し、それをウエーターが運んでくるということを書いているのだと思う。私が要約したように書いてしまうと詩にならないので(ほんとうに詩にならないかどうかは、わからないが……)、榎本は「いまある状況」を「いまここにない別の状況」を語るさまざまなことばのなかへ拡散していく。あるいは「いまここにない別の状況」を語るさまざまなことばを「いまある状況」に持ち込む。その「いま/ここ」と「いまではない/ここではない」を榎本のことばのなかで融合させ、「世界」をつくる。
 岩佐が「Mパン」で書いていたように、ある状況に直面したとき、その状況のなかにある何かが別なものを連想させ(メロンパンの形が亀の甲羅を想像させ)るということがある。そして、それを状況説明につかうと、そこに独特の「味」(個性)がでてきて、それが楽しいということがある。詩は、たしかにそういうものだと思う。
 で、そういうとき、どういう「ことば」を持ってくるか。
 榎本はことばの数はとても多いが、そのことばは意外と常識的である。ピザを運んでくる青年が「きれいな黒髪」というのは常識的な好みのようであまりおもしなくない。「タブリエ」「ペリエ」「テラス」というカタカナ語の通い合いも常識的すぎる。「妄想」というには、女性の嗜好が単純すぎる。
 「ピザ」を「チーズの海」と言いかえ、「海」から「海棲哺乳類」へのつながりもうるさいだけ。「哺乳類」が「産卵」するかどうか、私は生物の知識がないのでわからないが、「産卵」「祝祭」、「産卵」「腥み」、「祝祭」「衛星中継」というイメージを交錯させながら響きあわせる方法も、連想が近すぎるように思う。
 「衛星中継」(世界規模)の視野が「エボラ出血熱」という「現在」を呼び込むのも、私には、連想が近すぎると思う。
 連想が近いときは、岩佐がやったように、ことばを「肉体」に引きつけると「肉体」が見えてきておもしろいのだが、榎本は「肉体」を出さずに、「頭」で「連想」を加速させるのが好みのようである。しかし、「頭」で加速させることばの乱反射は、先に指摘したように意外と「常識」の範囲を超えない。「頭」は「読んだことば」を整理するのは得意だが、「読んだことば」というのは「書かれてしまったことば」だから、どんなに「逸脱」しても「流通文化」になってしまっている。
 後半に出てくる「マロ楽団」「セイレーン」「異教徒」「金髪の乙女」「半獣神」「宮殿」「混血の作家」なども、イメージの統一には役だつが、イメージの暴走にはならないと私は感じる。
空腹時にアスピリンを飲んではいけない―榎本櫻湖詩集
榎本櫻湖
七月堂

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「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、郵送無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。

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