Obra Joaquín Lloréns
T. Hierro macizo
40x21x20
T. Silencio
El silencio esconde el laberinto de la soledad.
Y los humanos se vuelven más fuertes con el silencio.
沈黙は、孤独の迷路を隠している。
そして、人間は沈黙を抱えて強くなる。
Obra Joaquín Lloréns
T. Hierro macizo
40x21x20
T. Silencio
El silencio esconde el laberinto de la soledad.
Y los humanos se vuelven más fuertes con el silencio.
沈黙は、孤独の迷路を隠している。
そして、人間は沈黙を抱えて強くなる。
Jesus Coyto Pablo
Silencio de Blanco
130x97 cm. Óleo Lino
Es difícil escribir sobre un cuadro abstracto que se ve en Internet.
No sé si los colores son los mismos que vemos en la vida real. No sé cuál es la textura.
Cuando vi "FLAG" de Jasper Johns en el MOMA, me sorprendió su "textura". No era la "bandera americana" tal y como la conocía, sino que era un cuadro. En otras palabras, es una pintura física, hecha con pincel y pintura. El acto de pintar, el deseo de pintar, me he sentido mucho su deseo. Es una pintura que se convierte en la única estrella y franja del mundo.
¿Qué intenta representar Jesús Coyto Pablo en Silencio de Blanco?
Aquí no hay "blanco puro". No hay el blanco sin pintar de Cézanne, ni el reflejo de la luz mediterránea de Sorrolla.
Otro color rezuma por debajo del casi blanco.
El rojo del centro no se puede ocultar. El verde, color complementario del rojo, tampoco puede ocultarse.
Debajo, hay rastros de una cruz, como si la hubieran arrancado.
¿Qué esconde Jesés? ¿Qué trata de revelar al ocultarlo?
El "blanco" que intenta mantener su "blanco" mientras es erosionado por otros colores.
Si me ponga delante del cuadro, podré ver el tacto, y podré sentir el movimiento del cuerpo de Jesés a través del tacto.
Después de verlo, podré escribir mi verdadera impresión.
Lo único que hay que tener en cuenta es que ahora hay muchos tipos diferentes de "blanco".
Recuerdo que Jesús ha dado el título de "Silencio de Blanco".
Todo el arte, no sólo la pintura, tiene una cara diferente según el lugar en el que exista. Hay que estar allí para sentirlo.
Esto significa que me influye el estado de ánimo con el que afronto el trabajo, las emociones del día, el estado físico del día.
Es una pieza que realmente quiero ver en persona.
ネット上で見かけた抽象画について語るのは難しい。
色が実際に見るものと同じであるかどうかはわからない。質感がわからない。
ジャスパー・ジョーンズの「星条旗」をMOMAで見たときは、その「質感」に驚いた。それは私の知っている「アメリカの国旗」ではなく、確かに絵なのだ。つまり、筆と絵の具をつかって、肉体で描いたものだ。「描く」という行為、欲望がつたわってきた。描くことで、世界で一枚しかない星条旗に変わるのだ。
Jesus Coyto Pabloの、この「Silencio de Blanco(白い沈黙)」は何を描こうとしているのか。
ここには「純白」は存在しない。セザンヌの塗り残しの純白も、ソロージャの地中海の光の反射の純白もない。
白に近い色の下から、別の色がにじみ出ている。
中央の赤は隠しきれない。赤の補色の緑も隠しきれない。
その下にはえぐられたような十字の痕跡がある。
何を隠しているのか。隠すことで何をあらわそうとしているのか。
他の色に浸食されながら「白」を保とうとしている「白」
実際にこの絵の前に立てば、タッチがみえると思う。タッチから肉体の動きがつたわってくると思う。
それを見たあとで、ほんとうの感想が書けると思う。
いまは様々な「白」がある、ということだけをこころにとめておく。
Jesus Coyto Pabloが「Silencio de Blanco」というタイトルをつけているということだけを記憶しておこう。
絵だけに限らないが、あらゆる芸術は、それが存在する場所によって違った顔をあらわす。その場にいかないと、感じられないことがある。
これは、私がどういう状態でそれ作品に向き合うか、その日の感情、その日の体調にも影響されるということである。
どうしても実際に見てみたい一枚である。
https://news.yahoo.co.jp/articles/f1f300a0d1b9ba1d49658900534ffbc236b29929?fbclid=IwAR22si2DsQ3swbh5uZSv1IGilPDw3eAuEo0RarRR3SXTIXq19eyjgPx3MSc
ヤフーに転載されていたサンケイ新聞のニュースから。
またまた、安倍の、とんでもない発言。
↓↓↓↓↓
自民党の安倍晋三元首相は27日午前のフジテレビ番組で、ロシアのウクライナ侵攻を受けて、米国の核兵器を自国領土内に配備して共同運用する「核共有(ニュークリア・シェアリング)」について、国内でも議論すべきだとの認識を示した。
↑↑↑↑
いま考えなければいけないのは、どうやってロシアとウクライナの「戦争」を終結させるか。
核を絶対につかわせないようにすること。
プーチンと信頼関係があるかのようによそっていた安倍が、いま、プーチンを利用してアメリカとの「核共有」を語るとは、いったい何事か。
アメリカがプーチンを利用してNATOを拡大し、世界戦略を進めるのに同調して、安倍はプーチンを利用して日本の核武装を押し進めようとしている。
アメリカの戦略は、たぶん、ロシアをヨーロッパに釘付けにしておいて、「台湾有事」を強行し、台湾にアメリカ軍の基地をつくる、そこから中国の動きをおさえつける、ということだろう。
「キューバ危機」の東シナ海版である。
だいたい「開かれたインド・太平洋」と言う限りは、それは中国に対しても「開かれて」いないといけない。
アメリカのやろうとしていることは、ロシア、中国を封じ込め、アメリカ帝国をつくること。
プーチンを擁護するつもりはないが、アメリカの戦略を放置したままでのプーチン批判は、とても危険だ。
NATO軍が攻撃されたら(当然、アメリカの軍隊も含まれるだろう)、「集団的自衛権」を行使して、日本の自衛隊も「防衛」を理由にウクライナへ侵攻するということがあるだろう。
そうなると、北方四島の返還というのは、ロシアと戦争し、奪還するという方針にかわるだろう。
そのためにも安倍は、核は必要だとい言い始めるだろう。「核共有」なんて、あっと言う間に「核所有」に変わり、「核攻撃」に変わるはずだ。
私は、こんなけとも考える。
アメリカのいう「自由」は、あくまでも資本家が金儲けができる自由であって、資本家以外の人間の自由ではない。
日本の低賃金定着制度(アベノミクス)は、考えてみれば、アメリカの「資本主義実験」のひとつかもしれない。
非正規雇用者を増やし、労働者の団結を弱体化させ、資本家がどんどん資金をため込むことができる制度。
すでに「連合」は、高額所得の労働者の「既得権」(正規雇用の賃金を守ること)のために、自民党にすりよっている。
すさまじい「差別(格差)」の固定と、「戦争」との組み合わせ。
いま、日本はどこへ向かっているのか、安倍の発言を見ていると、それがあまりにも危険なものにみえる。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/301826
日刊ゲンダイに興味深い記事があった。
私が注目したのは、この部分。
↓↓↓↓↓↓
安倍元首相は25日、衆院議員会館で開かれた会合で「(ウクライナ侵攻は)台湾に対して中国がどのような対応をとるかを占う意味で日本にとっても深刻な事態だ」と指摘。
↑↑↑↑↑
安倍の視点は、ロシア、中国がどう対応するかという点からのものだが、これは逆に読むべきだろう。
アメリカの世界戦略(NATO、開かれた太平洋)がどう展開するか。
ロシアはいま世界中から批判されている。そしてアメリカがNATOへ軍隊を派遣し、ロシアが撤退するということになれば、アメリカは次に台湾との軍事関係を強化してくるだろう。
名目はもちろん「台湾の民主主義を守る」である。
安倍は台湾の民主主義などどうでもよく、ただ中国と戦争をしたいがために「台湾有事」を利用するだろう。
日本が「台湾有事」に参戦すれば、アメリカはわきに引いて中国と日本を戦わせ、日本に軍備を次々に買わせるだろう。
いまNATOのヨーロッパだ起きつつあることは、やはり、それだろう。
アメリカは、ベトナムでも、イラクでも、アフガンでも軍事支配に失敗した。
ウクライナでは、なるべくアメリカは参戦せず、ヨーロッパ諸国の参戦を促すだろう。
そこで成功(?)すれば、次は台湾である。
安倍の言っていることは、こう読み替えるべきである。
↓↓↓↓↓↓
ロシアのウクライナ侵攻に対するNATOの行動、その結果は、アメリカが台湾に対してどのような工作をし、中国を「有事」に誘い出すかを占う意味で重要である。国際世論を中国への批判に集中させる作戦が成功するかどうかを占うことにもなる。もし「台湾有事」が起きたとき、そのとき日本はどう行動するのか、NATOの行動が参考になるはずだ。ウクライナの状況は日本の将来を占う意味で、とても重要だ。
*
いまのところ、ウクライナの状況は、アメリカの「作戦勝ち」である。
NATOの拡大路線(アメリカの世界戦略の一環)には何も触れず、プーチン批判に的を絞って、国際世論をリードしている。プーチンの資産凍結という作戦が、それを端的に物語っている。
アメリカは、ウクライナの国民が何人犠牲になろうが気にしていないだろう。ベトナムでの犠牲者が何人になったのか気にしないように。
ウクライナは、日本から遠い。だから、その「状況」を知っている日本人は少ないが、私の想像では、ウクライナはヨーロッパ諸国にとっては、日本における台湾のような位置を占めているだろう。
いつでも、ウクライナからロシアを攻撃できる。そして、そのとき戦うウクライナ人は、他のヨーロッパ諸国からみれば、よりロシアに近い。(ロシア語を話す国民が多数いる。)
「台湾有事」が発生したとき、まず犠牲になるのは台湾のひとであり、台湾のひとというのは日本人でもアメリカ人でもない。中国人だ。
アメリカや日本、そして他の国が「台湾有事」に参戦するとしても、そのとき一番犠牲になるのは台湾にいるひと(中国人)だ。
私はウクライナのことは何も知らないが、ウクライナをヨーロッパの「台湾」と位置づけると、いま起きていることの深刻な問題がわかる。
プーチンが敗北し、ウクライナがNATO に加盟すれば問題が解決するわけではないだろう。
台湾が中国から独立し、アメリカと台米国安保条約(日米安保条約のようなもの)を締結し、台湾が沖縄のようにアメリカのアジア最前線基地になれば、どうなるのか。
そのことを考えないといけない。
Obra Calo Carratalá
La obra de Calo Carratalá tiene un aire denso.
El aire de la obra sale silenciosamente y me envuela.
Entonces, empiezo a respirar el aire denso y a vivir nueva vida.
Y después de eso, creo que podría ser este árbol.
Detrás de este árbol, hay un bosque muy profundo.
No sólo detrás, sino delante, a ambos lados, hay innumerables árboles.
Todos exhalan el mismo aire denso. El aire exhalado por los árboles se mezcla, se extiende y crea una sensación de perspectiva.
Me gustaría convertirme en un árbol así.
Calo Carrataláの作品には、空気の濃密さがある。
そこにある木をつつむ空気が印象的だ。
それは作品から静かにあふれだしてきて、私をつつむ。
空気につつまれて、私はいっしょに生きている、呼吸している気持ちになる。
そして、そのあとで私はこの木かもしれないと思う。
この木になりたいと思う。
この木の背後には、深い深い森がある。
背後だけではない、前にも、左右にも、無数の木がある。
それが同じように、濃密な空気を吐き出している。木が吐き出した空気が、まじりあい、ひろがり、遠近感をつくっていく。
そんな木になりたいと思う。
ウクライナとロシア。
ウクライナの国民の命がどれだげ犠牲になるのか、ウクライナの政治体制がどうなっていくのか心配だが、それはロシアがウクライナを制圧するか、ウクライナがロシアを撃退し、自立を守るかというだけにとどまらない。
私はとても自己中心的な人間だから、どうしても自分の「位置」が気になる。日本がどうなるかが気になる。
ロシアがウクライナに侵攻した理由を私は明確に把握しているわけではないが、NATOの拡大路線と関係があると思う。ウクライナはロシアの影響下から自立するためにNATOに接近し、NATOもそれを受け入れようとした。これにロシアが反発した、というのが基本的な構造だと思う。
このNATO対非NATOは、ヨーロッパだけの問題か。日本にも非常に影響があるのではないか。NATOの背後にはアメリカがある。アメリカの世界戦略がある。
同じことが、アジアでも起きないか。いや、すでに起きているのではない。
アンチ・アメリカのアジアでの大国は、中国である。中国には台湾問題がある。台湾は中国にとってはウクライナに似た存在だろうと思う。いや、ウクライナ以上に、深い関係にあるだろう。だいたい国連でも「中国はひとつ」という認識である。台湾は中国の一地域である。日本政府もその立場であるはずだ。その台湾に中国が侵攻する恐れがあるとアメリカは言い募っている。台湾の軍とアメリカ軍が共同訓練をしたというニュースもあったと思う。台湾を守るために、アメリカ軍が台湾を支援する。これは、NATO(アメリカの世界戦略)がウクライナを支援するという関係とそっくりではないだろうか。
つまり。
アメリカ軍が台湾の軍隊と連携を強化するからこそ、中国はそれを阻止しようとして台湾ににらみをきかせているというのが、いまのアジアの現状ではないだろうか。また、この、中国一辺倒のアメリカの戦略に対して、「私の国もアジアの国である、アジアの安定に欠かすことのできない存在である(だから、援助しろ)」と自己主張しているのが北朝鮮ではないのか。
そして、このアメリカの台湾支援(?)は、台湾の人々を守るというよりも、台湾の経済態勢(資本主義)を守るということと関係していないか。国民の自由というけれど、本質は資本家が金儲けをできる自由を守るということだろう。金の力で人間を支配したいという欲望(鐘の力で人間を支配できるという世界観)が動いているのではないのか。武器をつかった軍事支配争い(戦争)と違い、金による支配(貧富格差の固定)は直接的には人のいのちを奪わない、自由を拘束しないようにみえるが、ほんとうにそうかどうかは考えてみないとわからない。
アメリカの世界戦略(資本主義による支配)とどう向き合うか、という問題を抜きにして、世界の平和のことを考えるのは、どうも危険なことではないのか。アメリカの世界戦略、アメリカの主張に世界が従うというのは、危険なことではないのか。アメリカ軍が世界を支配してしまえば、「軍事対立/戦争」は起きないかもしれない。しかし、そのとき人間の自由はどうなるのだろうか。アメリカ資本主義に支配されて、そのとき、私たちはほんとうに平等で自由でいられるのだろうか。資本家が世界の市民を支配する「軍事国家」になってしまうのではないのか。
こういうことに対して、私は何ができるか。何もできない。
ただ、NATOというよりも、アメリカの世界戦略には与したくない、と思う。
プーチンの政策は間違っている。しかし、プーチンだけが間違っているのではないと思う。プーチンに間違いを起こさせる動きもまた、間違っている。軍隊による安全確保という動きそのものが間違っている。プーチンを批判するとき、同時にNATOを拡大しようとするアメリカの姿勢も批判しない限り、この戦争に終わりはない。
もしプーチンのロシアがNATOに敗北するという結末でこの戦争が集結するなら、つづいて台湾で同じことが起きるだろう。いわゆる「台湾有事」が起きるだろう。日本はそのなかに、ウクライナ問題以上に巻き込まれていくだろう。そして、ある人々は、「巻き込まれる」だけではなく積極的に参入できるように日本国民を駆り立てるだろう。
そのための動きが、すでにはじまっていないか。
プーチン批判一辺倒の報道を見ていると、とても心配になる。
また今回のウクライナ、ロシア問題は、アメリカ軍のアフガン撤退ともどこかでつながっていないか。アメリカはアフガンを思いどおりに支配できなかった。アメリカの戦略に合致した政権を樹立できなかった。だから、他の国へ目を向けた。アメリカの戦略に合致した国を増やそうとした。アフガンのかわりに、ウクライナを。そういうことは考えられないか。アメリカは戦争なしでは生きていることを感じられない国なのだ。武器を売り、金儲けをし、金の力で世界を支配しようとしている。その動きをとめないかぎり、さまざまな衝突が起きるだろう。経済格差への怒りからテロを考えるひとは、さらに増えるだろう。
平川綾真智「チーズの水辺(John 1:1)」(「オオカミ」39、2022年2月発行)
平川綾真智の作品は「チーズの水辺」(John 1:1)と、鍵括弧、丸括弧つきのタイトル。さらに、レイアウトが凝っている。平川には平川の意図と意味があるのだろうけれど、私は、そういうものを気にしない。書いた人の気持ちを配慮していては、ことばを読んだことにはならない。どんなことばでも、発したひと(書いたひと)の意図/意味にしたがって読めば「傑作」になってしまう。「傑作」という印象は、他人のことばなのに、じぶんのことばのように感じられこと、これこそが私が言いたかったことと感じられることだが、その「私が言いたかったこと」に出会うのではなく、「作者がいいたかったこと」をそのまま押しつけられる形で「私の言いたかったこと」にされるのは、私は、納得がいかない。作者の意図/意味をそのまま鵜呑みにしなければならない作品など「駄作」である。でも、私はわがままな読者なので、作者の意図/意味を探して、それに対する共感を書くつもりはさらさらない。あくまで、自分の読み方で読み、自分のことばを動かす。ことばは、自分自身の考えを動かすためにある。まあ、平川にしても、平川のことばを動かしているだけ、ということなのだろうが。
と、書いてしまって気がつくのだけれど、実は、もうこれ以上書いてみても、ことばはどうどうめぐりをするだけだ。どこへもいかない。それを承知の上で、少し書いておく。(引用は、平川のレイアウトを無視しているので、平川の意図/意味を直接知りたいひとは、「オオカミ」を読んでください。平川は、縦書き表記のなかに、アラビア数字を横書きで書いている。ネットでは、全体が横書き表示なので、その区別はつかなくなる。)
縫い取った河川のセルロイドフレームを、肝臓色に引き潮が踏む 。背丈が
汚い男の子になって、野菜スープ1杯と磯辺焼き2つを生醤油っぽい廃液に浸
し丸い眠気を溜めていく膝っ頭に出来ていた水たまり4つは 、既に覗き込ま
れてしまった。ターコイズの古い蟹まで死骸が月、に 、ぼやけた少年の脱皮
していく生ぬるい沿岸、へ 、 皮膚へ靴下だらけ、を殺しちゃう 。
おもしろいと思ったのは「河川」と「セルロイドフレーム」のことばのつながりである。「川」ではなく「河川」。だから「セルロイドフレーム」。ことばのなかに「せ」という音の呼応があり、それが流れていく。「かせん」という音の長さが「セルロイドフレーム」という音の長さと呼応している。「川のセルロイドフレーム」では音が響きあわない。「川のセルロイド枠」でも音が響きあわない。
「丸い眠気を溜めていく膝っ頭に出来ていた水たまり」には「溜める」と「水たまり」の呼応がある。「覗き込む」とも呼応している。
「死骸が月、に 、」には「四月は残酷な月」のエリオットのことばが響いている。これには「生ぬるい」ということばもつながっていく。
ことばが、どこか「ことばの肉体」の感じをもって動いている。「背丈が汚い男の子」という動きも、「ことばの肉体の呼応」を「死骸が月、に 、」とエリオットのように私は連想はできないが、どこかに「出典」と呼べるものがあるかもしれないと感じさせる美しい響き(鍛えられたことばの肉体の印象)がある。
しかし、「殺しちゃう」は、そういう「ことばの肉体」とはかけ離れている。
詩は、このあと「トイザラス」とか「ハンバーグ」を経て、最後の方で
赤白赤aka 赤赤赤赤あか赤赤赤aka 白あかaka アカ白黒赤赤あか赤赤赤aka 赤赤赤顔肺臓チンして 、 眠れ 、
というところへたどりつく。この部分は、ぜんぜんおもしろくない。書き出しの部分に感じられた「ことばの肉体」が変質してしまっているとしか感じられない。あえて呼応があるとすれば「肝臓色」「殺しちゃう」と「赤」。引用しなかった部分にある「生まれなかった子供」「煉獄」「包丁」「手足を椀ぎ取り」「首手足をバラバラにして燃やし」「腸」「腎臓」「瓶詰め赤ちゃん」などをあげることができるかもしれない。しかし、これでは安直なグロテスクをねらったものになってしまう。引き合いに出されている江戸川乱歩が悲しすぎる。
枠組みの部分に散らばるように書かれた「1:1 」は「Word/God 」と対応しているのかもしれないけれど、それに呼応することばが「旧約聖書続編」では味気ない。「was 」という過去形も、ことばを閉じ込めてしまうだろう。
『ただ、詩のために』岡田幸文追悼文集(ミッドナイトプレス、2021年12月09日発行)
『ただ、詩のために』岡田幸文追悼文集の最後にアルバムが載っている。そこで私は初めて岡田幸文の顔を知った。そして山本かずこの顔も知った。ふたりが夫婦であるらしいことは、「らしい」という形で知っていた。あ、それはほんとうだったのだ、と今思っている。写真には、「ほんとう」が写っている。
そして、いま、私が驚いているのは、岡田幸文がいろいろなひとと会っていた、という事実であり、その出会い、交流が「ほんとう」のこととして、写真として残っているということだ。
こういうことは、あたりまえのことなのだろうか。
私には、詩人と会ったことも、一緒に写真を撮ったことも、ほとんどない。
この追悼文集には54人が執筆している。そのうち、私が会ったことがあるのは秋亜綺羅、正津勉、谷川俊太郎、八木幹夫の4人である。正津勉とはデパートの階段ですれ違った。一緒にいた池井昌樹が正津勉と教えてくれた。それだけの出会いなので、正津勉は私と会ったことなど覚えていないだろうと思う。八木幹夫は、池井昌樹の仲立ちで、一緒に三人であった。八木は覚えているだろうか。谷川俊太郎に会う前に、池井に「どんなひと?」と聞いたら、いくつかのエピソードを教えてくれた。秋亜綺羅とは、東京へ池井を訪ねて行ったときに会ったのが最初だ。会った回数で言えば、秋亜綺羅がいちばん多いが、それでも数回(10回も会っていない)と思う。全員、池井がいなければ会わなかっただろうと思う。
一緒に写っている写真で思い出せるのは、谷川の家を訪問したときに撮った一枚だが、それもどこにあるかは思い出せない。一度、本の宣伝のためにネットに載せたことがあるが、ファイルがどこにあるかわからない。もうなくなっているかもしれない。私は、どうも、ひとと会うのが好きではないし、ひとと会った記録も残しておくのが好きではないのかもしれない、と思った。思い出すということを、めんどうくさい、と感じてしまうのかもしれない。
でも、岡田は違うんだろうなあ。ひとと会うのが好きだし、ひとのことをよく覚えている。だからこそ、その会ったひとも岡田のことをよく覚えていて追悼文を書いているのだ、ということに気づいたのである。
そのひとり、秋亜綺羅は、どんなふうにして岡田と会っていたのか。若いときの出会いを、こう書いている。
「詩が好きでたまらない」と話してくれた。「どんな詩を書くの?」と聴くと「詩は書かない。読むだけだ」と幸文くんは応えた。
「詩は書かない」ということばは、その当時は詩を書いていなかったという意味なのか、発表にはいたっていないという意味なのかは判然としないが、秋が最初に思い出していることばが「詩が好きでたまらない」というのがいいなあ。
「詩が好きでたまらない」という印象を残して死んでいくのは、かっこいい。あの詩がよかったな、あの詩人はすごかったなあ、よりもかっこいい。だれにでもできることではないだろう。
他の寄稿者の追悼文を読んでみても、この「詩が好きでたまらない」という印象が浮かびあがってくる。岡田は詩をじっとみつめつづけたひとなのだ、と気づかされる。だから「詩学」の編集長もつづけることができたのだろう。
私は、その「詩学」で岡田の世話になった。評論を5年間書かせてもらった。ただ、連載中に、どんな注文を受けなかったので、岡田が何を感じているのか、私にはよくわからなった。一冊にするとき、岡田に相談したが、提示された費用がとても高かった。そのため詩学社からの出版を諦めたのだが、これは申し訳ないことをしたなあ、と思う。話し合う機会があれば、岡田を知ることができただろうなあ、と思うと残念でもある「詩が好きでたまらない」と実感させてくれるひとに出会うチャンスも逃してしまった。私は岡田がどういう人間なのか想像できなかったが、岡田の方では、私が誰にでも会う人間ではない、ひとと会うのがめんどうだと感じる人間だということがわかっていたのかもしれない。
池田清子「グラウンド」、徳永孝「違い」、青柳俊哉「河童」(朝日カルチャーセンター福岡、2022年02月21日)
受講生の作品。
グラウンド 池田清子
夕方 歩いていると 時々
小学校の側を通る
少年野球の練習が見える
木かげで数人のお母さん達がおしゃべりをしている
私も 立っていた
ベンチの脇に
一年間 野球は命でさえあったのに
終わると すぐにパタンと閉じてしまった
へりくつの楽しい息子が小2で寡黙になった
体罰も パワハラも そんなものだと
監督、コーチ、OBへの気配りも当然だと
我が子の代が 前の代に劣らぬようにと
張りつめていた
平日の練習は日が暮れるまで
土日は 練習試合、大会、イベント
中2の姉はいつも家に一人
もっと冷静に広く見えていたらと
後悔ばかりが ふたをした
本物はあった
大きなすいかを何個も海に浮かべ 砂浜ですいか割り
一人のお父さんが会社で作った焼き肉用の大きな鉄板
まっさらな鉄は 輝いていて美しかった
もう三十年以上経つ
たくさんの大人たちに見守られた野球少年達は 高校球児になった
野球以外の経験も沢山積んだ 笑ってた
姉は一人の時間をちゃんと作っていたらしい
ふたを はずそう
六連目、「本物はあった」と突然、ことばが転調するが、この六連目が生き生きしてる。書かれていることが「具体的」だからである。他の連の、子供の「パタンと閉じてしまった」「寡黙になった」は「説明」であって「描写」ではない。おなじ意味で「後悔」もまた「説明(抽象的な、整理、要約)」。せっかく「ふた」という比喩をつかっているのだから、そこから具体的な動きを語るようにすると世界は違ってくると思う。
「本物はあった」は「後悔」が抽象的なのに比べて、「歓喜」が具体的だから印象に残る。野球チームの夏休みだと思う。砂浜でのスイカ割り、鉄板焼き。「お父さんが会社で作った」ということばのなかに、家族ぐるみの交流が含まれていて、それが楽しい。「まっさら」ということばも、とても効果的だ。作りたての鉄板が夏の光をはじいている感じが鮮烈だ。
詩は、要約できるものではなく、要約からはみだしていく「リアリティ」のなかにある。
「ふたを はずそう」。その蓋を外したあとの視点で見た世界を読みたい。
*
違い 徳永孝
男は強い
でも多くの男は女のアスリートに負ける
女は優しい繊細
雑な女も多い
男は論理的 女は感性的情緒的
でも世界初のコンピューター・プログラマーは
女のオーガスタ・エイダ・バイロン
昔は画家や音楽家は男の仕事だった
男は社会的だリーダーに向いている
女は内助の功
でも話し好きで社交的なのは女
異なる意見を調整交渉し
まとめ上げるリーダーは女が向いているのでは?
本音は自分のペースで家事をし
嫁ぐ人を支えたいと願う男もいるのでは?
女は生む
これは確か
でも男がいなければ子供は出来ない
おっぱいで子育てをする
ミルクで育てる親も多い
子を生む以外
平均値の差
一人一人の個人は
女か男かだけでは分からない
この作品も「説明」が中心になっている。考えが「整理」されすぎている。徳永の主張は、「男女の違い」よりも「ひとりひとり(個人)の違い」の方が大きいから、「平均化」して世界をみつめてはいけない、ということだと思う。
その具体例が「世界初のコンピューター・プログラマーは/女のオーガスタ・エイダ・バイロン」だけでは、「具体」が少なすぎる。徳永自身はいろいろな例を知っていて、それをひとつに代表させたのだと思うが、ひとつだけでは世界が具体的に見えてこない。読者が思わず、「そういえば誰それも……」と連想させるところまで具体的に書いた方がいい。「要約」は読者に任せればいい。
池田の書いていた「体罰」「気配り」「野球以外の経験」もおなじである。「要約」されすぎている。「意味」はわかるが、「意味」は詩ではない。
「意味」は、読んだ人にまかせればいい。
*
河童 青柳俊哉
大きな蓮の葉のうえで 酒に酔う
老いた河童 赤らむ頬に睫毛の長いかげが動く
枯れたブドウやクルミを 厚い黄色い嘴で啄む
蓮の花はバラに似ているとおもう それは
密集する花弁の束の 天国の平面図である
きのう友の河童を見舞う かれは白いバラを食べていた
かれにリルケの水盤のバラの詩をおくる バラの内部の光は
かれの中をめぐりつづける 風にとじられた光の形が
水面に捩(よじ)れて砕けた それはどこまで細かく砕けるのか
水中の 風のかけらに吸われて天の永劫にひらけるのか
水面に 枯れた白い花の糸が垂れる
頬の 深い睫毛のかげがふるえる
青柳の作品には「意見」がない。青柳に、「意図」はあるだろうけれど、それは簡単にはわからない。
池田の詩は、息子が野球チームに入っていたときのこと、そのとき娘(息子の姉)に寂しい思いをさせたかもしれないという後悔を書いている。徳永の詩は、世の中では男女の違いが「定式化/定型化」して語られているが、ほんとうは違うのではない、男か女かの違いではなくひとりひとりの違いに目を向けるべきだと主張している。そう「要約」できる。
それに比べると、青柳の詩は「要約」ができない。河童がバラを食べていることを描写していると「要約」してみても、どこに河童がいる? 河童は空想の動物だとだれかがいえば「要約」は根底から崩れてしまう。「意味」がなくなってしまう。
このときの「意味」とは、社会全体で(多くの人が)共有できる「意識」ということである。池田の詩ならば、子育てはむずかしい。徳永の詩ならば、男女の違いを平均化して語るのは差別だ、ということになるかもしれない。(要約は、人によって違うだろうが。)
青柳のこの詩には、そういう「意味」がない。でも、おもしろい。
「河童」はたしかに架空の動物かもしれない。しかし、ここに書かれている河童を「架空の動物」と意識しながら読む人間が何人いるだろうか。「河童」を河童と意識しないで、むしろ、それは自分かもしれない(あるいは青柳かもしれない)と思って読むのではないだろうか。「意味」を、自分でつくりだしながら読むのではないだろうか。
河童以外のことばが、すべて現実に存在するものであり、また、そこに書かれている動詞も、人間が体験していることだからではないだろうか。こういうことを「具体」という。「意味/要約/抽象」ではなく、「具体」と言う。「架空/空想」と「抽象」は違うのである。「架空/空想」であっても「具体」ということがある。
この詩では、この「架空/空想」と「具体」との絡み合いが、
水面に捩れて砕けた それはどこまで細かく砕けるのか
水中の 風のかけらに吸われて天の永劫にひらけるのか
という二行で頂点に達する。白熱する。
それまでの描写はすべて「肯定」である。「断定」である。「酒に酔う」「かげが動く」「嘴で啄む」。二連目で「おもう」ということばを起点にして「平面図である」から空想に拍車がかかるが「食べていた」「おくる」「めぐりつづける」も「断定」である。「事実」として書いている。
しかし私が注目した二行は「肯定/断定」から踏み出し「のか」という「疑問」で終わっている。
そしてこの「疑問」は「そうではない」という「否定」ではなく「肯定」を導くための反語的表現なのである。「どこまで細かく砕けるのか」は「どこまでも細かく細かくさらに細かく砕けるにちがいない」と確信するためのことばである。「天にひらかれるのか」は「もちろん天にひらかれるにきまっている」というより強い「肯定/断定」のことばである。
このとき「空想」は「確信」にかわる。
そして、「空想」が詩なのではなく、この「確信」こそが詩なのである。「確信」は「絶対にそう思う」であり、その「絶対」が詩なのである。「絶対」とは言い換えがきかないということであり、言い換えがきかないということは「具体」ということなのである。
反語的疑問のあと、空想は「具体的」な確信にかわる。それは、書いた青柳、そのことばを読んだ人間の「具体」ということである。「気持ち」はいつでも「具体的」なものなのである。要約できないもの、要約したら、消えてしまうものなのである。
それは、また、「書けないもの」と言いなおすこともできる。
「どこまでも細かく細かくさらに細かく砕けるにちがいない」「もちろん天にひらかれるにきまっている」とは青柳は書かないし、書けない。そして書かないからこそ、それがことばを超えてつたわってくる。
この激しい精神的興奮のあと、詩は静かにとじられる。まるでそういうことがなかったかのように、知らん顔して一連目の「睫毛のかげ」に戻っていく。「動く」を「ふるえる」にかえて、余韻をもってとじられる。あ、あの「動く」は「ふるえる」ということだったのか、と発見して終わる。
青柳の詩は、多くの場合、イメージがどこまでも拡散し、乱反射していくのだが、この詩では「かげ」と「光の形」に焦点がしぼられ、その周辺(河童の外部)でバラや水、風が動き、空間を広げると同時に河童の内面を広げている。外部と内部が融合し、「宇宙」をつくっている。
「のか」「のか」の二行が、その融合をしっかり支えている。
Jose Enrique Melero Blazquez
Nudo 023
UN nudo delicado.
O más bien.......
Me parece que el nudo se deshace y vuela con el viento.
En Japón existe un nudo llamado "nudo mariposa".
Cuando se desata el "nudo mariposa", la cinta baila como una mariposa.
Y después debe ser un arco iris con una curva suave.
繊細な結び目。
と言うよりも。
結び目がほどけて、そのまま風に乗って飛んで行きそう。
日本には「蝶結び」という結び方がある。
「蝶結び」がほどけて、リボンが蝶のように舞う。
それはゆるやかなカーブを描き、虹になるにちがいない。
宮城ま咲『一品足りない居酒屋』(待望社、2022年01月24日発行)
宮城ま咲『一品足りない居酒屋』。詩集のタイトルは少しうるさい。「一品足りない」か「居酒屋」のどちらかならすっきりする。ふたつのことばが重なると、「説明」を感じてしまう。つまり、読まなくてもわかったという気持ちになってしまう。たぶん、宮城には「説明癖」のようなものがあるのだろう。
その「説明癖」がいい方向に動いている作品もある。「説明」が「説明であることをやめる」。巻頭の「ぺそり ぽそり」。
うらがOK
おもてがOKなら
オールOK
というわけでもなく
とはじまる。「というわけでもなく」が「説明」へ踏み込む一歩なのだが、「なく(ない)」という否定のことばが象徴的するように、ここからすでに逸脱がはじまっている。肯定は一定の方向を指し示すが、否定はあらゆる方向を指し示しながら、同時に拒否する性格(性質、かも)をもっている。
わたしらには
奥行きがあって
わたしらには
見えない部分があって
本心なんかがあって
「奥行き」は「見えない部分」と言いなおされ、さらに「本心」と言いなおされるわけだが、この「本心」は断定されずに「本心なんか」とはぐらかされる。
そのうえで、
だけど
とつづいていく。この「だけど」はきのう読んだ以倉紘平の「そして」「しかし」とつなげて考えると「しかし」に近いと言えるかもしれない。「逆接」だね。つまり、いままで「説明」してきたことを肯定していくのではなく、否定してことばが動くための踏み台。
だけど
時として わたしらは
見えてる部分がすべてだと
おもわれたりなんかして
おもったりなんかして
言えないことばが
いえないまんまだったりして
「おもわれたりなんかして/おもったりなんかして」には主語のいれかわりがある。客体のいれかわりがある。最初に書かれていた「うら」と「おもて」が、ここで復活している。つまり説明が深まっていくはずなのだけれど、逆に、あいまいになっていく。こいういことばの動きがとてもいい。ここでも「なんか」がとても重要な働きをしている。
「説明」の反対の領域、「あいまい」が広がっていく。「説明」は何かを明確にするはずなのに、ここでは「あいまい」が増えてくるのである。
「なんかして」「なんかして」と「あいまい」を繰り返しておいて「だったりして」とずれていくのもいい。
言いなおせば「説明」がずれていくのである。「説明」でなくなっていくのである。
そして、
洗ったお皿は
おもてが乾いて
うらの糸底にも水気がなければ
すぐに使えるけど
わたしら、
うらでもおもてでもないところ
雫がひそんでたりなんかして
突然、皿のおもて、うらの糸底という具体的なものが出てきて、「説明」の抽象を具体で叩き壊してしまう。雫をもちだしてきて、おしまいにしてしまう。
この「暴力」がなんともいえずに気持ちがいい。「ことば」にしかできない暴走、「ことば」なのに抽象ではなく「具体」。「具体」といいながら……。
「……たりなんかして」
具体をあいまいにしてしまう。
おもわれたりなんかして
おもったりなんかして
言えないことばが
いえないまんまだったりして
の「ずれ」がいりみだれて、復活している。
これは、とてもおもしろい。
「わたしらには」ではなく「わたしら、」という読点の「切れ」も強い響きがあり、おもわずうなってしまう。とてもいい。
「捨てたくないよ」は、「ぺそり ぽそり」とは逆に、「説明が完結する」ことで一種の感動を呼ぶ起こす作品、「ほんとうにそうだよね」といいたくなる作品だけれど、はっきり「ほんとうにそうだよね」といってしまえる作品よりも、私は、「何がいいたいんだ、はっきり言えよ」と叱りつけたくなる作品の方が好きである。
「結論」なんてあるはずがない、ただことばが動いていくだけだ。
Jose Enrique Melero Blazquez
Nudo libre
No sólo quiero mirarlo, quiero tocarlo.
Me pregunto .......,
Cuando lo toque, el hierro comenzará a moverse con la misma flexibilidad que el cuerpo de una mujer.
Huirá de mí?
O me llevará a un lugar que no conozco?
見るだけではなく、触ってみたくなる。
触ったとき、この鉄は女のからだのように、しなやかに動き始めるだろうか。
それは私から逃げていくのか。
それとも私を私の知らないところへ連れて行くのか。
以倉紘平「平家物語 敦盛最期」(「アリゼ」206、2021年12月31日発行)
以倉紘平「平家物語 敦盛最期」は、平敦盛の最期の描写を引用しながらことばを動かしている。以倉は、
〈招かれて、とってかえ〉した敦盛に、しかし私は感動する。
と率直に書いている。そして、このとき、「しかし」ということばを補っている。
「しかし」は敦盛にもあてはめることができる。
敦盛は熊谷次郎直実の扇の招きを無視し(拒否し)、逃げることができた。しかし、逃げずに引き返した。そして首を取られた。
しかし。
このふたつの「しかし」はかなり意味合いが違う。
敦盛の「しかし」は逆の行為をするわけだから、「しかし」は必然である。そして必然であるから、「しかし」ということばは書かれることはない。
以倉の書いている「しかし」には、そういう「論理的必然」がない。
「論理的必然」としての「しかし」にするためには、多くのことばを補わないといけない。
逃げることができるのに逃げずに引き返した。そして、その結果、戦いに敗れ、死んでしまう。これは予想できたことである。そして、その予想通りになった。いや、予想以上のことが起きた。助けようとする直実に自分は敵であると名乗り、首を差し出している。これは「生きる」ということを人間の最善の願いだと考えるならば、愚かしい行為である。生きるとことができるのに、生きるを選ばなかった。
「しかし」。
以倉は「感動する」。
ここにも多くのことばが省略されている。
単に「生きる」ではなく、「どう生きるか」。その決断を人間は、どうやって下すのか。「逃げる」のではなく引き返し、戦って、敗れ、「殺される」という「生き方(むかしは、死にざま、と言った。いまは「生きざま」という、気持ちの悪いことばがのさばっている)」を選んだのはなぜか。そのことを考えると感動する。「しかし」は、いろいろ考えると、含んでいる。
でも、「いろいろ」って何?
以倉は、こう言いなおしている。
そして何よりも詩を感じる。
とって引き返す。そして、戦う。そして、敗れる。そして、詩を残す。その詩に感動する。
こう書き続けてわかるのだが、以倉のつかっている「そして」には、強い「肯定」がある。
「肯定」を支えているのは、「詩」という存在である。
「何よりも」ということばがそれを強調している。この「何よりも」は学校文法的には「詩」を修飾することばだが、私には「そして」を補強することばのようにも思える。「そして=何よりも」という感じで響いてくる。この「そして」と「何よりも」は切り離せない強い力で結びついている。
敦盛は死んだ。そして、詩を残した。そして、以倉は、その詩に感動した。
以倉は、こういう文章も書き加えている。
詩とは何であろう。詩とは、大いなる矛盾を秘めたものではなかろうか。
以倉が指摘していることは、「論理」的には、生と死の矛盾である。「生き方」を「死にざま」と呼ぶような何かである。どのように死んだかということが、どのように生きたかといういちばん確かな証明である。
私は、この、以倉が「矛盾」と呼んでいるものを「しかし」と「そして」ということばに結びつけて考えたいのである。
「しかし」は逆接、「そして」は順接。
以倉は、こういう風に書くこともできたはずだ。
〈招かれて、とってかえ〉した敦盛に、「そして」私は感動する。何よりも詩を感じる「からだ」。
「から(だ)」ということばで、私は以倉の「心理/こころの動き」を補ってみた。そして、こころの動きを補ってみればわかることだが、ひとのこころは「逆接」にみえても、「逆接」を超越して、いつでも「順接」で動いている。まっすぐに動いている。けっして引き返さない。「引き返した」ように見えるのは、こころの視点で見ていないからだ。いわゆる「客観」で見ているからだ。「主観」で世界を見るとき、そこには「順接」しかない。まっすぐな道しかない。
この「そして」は必然である。だから、省略しても、何も問題はない。
〈招かれて、とってかえ〉した敦盛に、私は感動する。何よりも詩を感じる「からだ」。
しかし、以倉は、こう書いていた。
〈招かれて、とってかえ〉した敦盛に、しかし私は感動する。そして何よりも詩を感じる。
短い文章のなかにあらわれた「しかし」と「そして」。
そこから見えてくるものは、とても多い。
「逆接」「順接」「矛盾」。
「矛盾」は「客観的指摘」である。主観には「矛盾」はない。「逆」も「順」もまた主観であり、主観には「順接」も「逆接」もない。ただ主観が動くだけである。
「主観の共鳴」ということばが、ふいに、浮かんできた。
中本道代「川のある街」(「みらいらん」9、2022年01月15日発行)
「みらいらん」9は「恐怖の陰翳」という特集を組んでいる。その巻頭の作品が、中本道代「川のある街」。さて、どんな恐怖が待ち構えているか。
廃屋の垣根にスイカズラが咲いている
スイカズラはふたつの白い花が対になって開き
夏の初めに道端で強い薫りを放つ
「スイカズラはふたつの白い花が対になって開き」という一行は、たしかに怖いことを書いているかもしれない、と思った。
キジバトの鳴くくるしさ
長い長い青大将が川を泳いでいく流線
これは、怖くないなあ。
川には小さな橋がいくつも架かっていて
どの橋にも名前があるのだった
幼いときに晴れ着を着て渡っただろうか
「どの橋にも名前があるのだった」は、私には、かなり怖い。私が生まれ育った田舎にも川があった。しかし、橋に名前はなかった。川にしても、いいかげんなもので、名前のない橋の架かっている川には名前がなかった。その川と、友人の家の後ろで合流する川は「大川(おおかわ)」と言った。大川といっても小さい川で、橋の架かっている川に比べると大きいからそう呼んでいただけだと思う。
「名前がある」というのは、私にとっては、ちょっと怖い。
青大将は砂州で休んでいる
長い長い体はそのときもくねっている
これも、ぜんぜん、こわくない。私は青大将がドグロを巻いているそのまんなかに足を突っ込んだことがある。すると青大将がするするっと足をのぼってくる。どうすればいいのか。たまたまその場所が家の背戸にある池のそばだったので、私は池に足をつっこんだ。すると青大将はほどけて(?)、水の上を滑るように泳いでいった。
私は何度も蛇が池を泳ぐのを見ている。瞬間的に、水につければ蛇は泳ぐと思い、足を池につっこんだ。すると想像どおりのことが起きた。
そういうことは、私には恐怖ではない。
廃屋の垣根からスイカズラを掠めとっていく風
この街のことを何も知らず
誰からも知られず
坂道で小さな渦を巻いている
どの坂を下っても川に突き当たるのだった
「どの坂を下っても川に突き当たるのだった」も、かなり怖いと思った。
でも、いちばん怖いのは、やはり「スイカズラはふたつの白い花が対になって開き」である。最初に読んで印象に残ったからか。「最初」というのもあるだろうが、何が怖いといって「花が対になって開き」という部分が怖いのだ。なぜか。それは「かわらない」からだ。
私が怖いと思ったことは、みな「かわらない」。
「どの橋にも名前があるのだった」。あした、橋の名前がかわるわけではない。かわるときかあるかもしれないが、それは、特別なこと。ふつうはかわらない。「どの坂を下っても川に突き当たるのだった」というのは、特別なことがない限り「かわらない」。
「かわらない」は自分の力ではどうしようもない、ということである。
中本がどういう意図でこの詩を書いたのかわからないが、私は「かわらない」なにかが存在すること、そのかわらなさを中本も怖いと感じているのかもしれないと思って読んだ。
Obra de Jesus Coyto Pablo
No sé qué técnica utiliza Jesus Coyto Pablo.
Me parece como si se colocara una cortina de plástico o un trozo de papel encima del cuadro pintado.
Esto me da una impreción de lo que me gustaría llamar "perspectiva mental" o "profundidad de sentimiento".
Aparte de la perspectiva del mundo real, vivimos en la perspectiva (espacio) de nuestra mente y nuestros sentidos.
Quizás deberíamos llamarlo "la perspectiva de la memoria".
¿Lo he visto, o lo he visto y lo estoy olvidando?
O......
¿Intento verlo u olvidarlo?
Cuando miro esta cuadro, no estoy entrando en un bosque, sino en mi recuerdo y en mi deseo.
Jesus Coyto Pabloがどんな技法をつかっているか、私は知らない。
描かれた絵の上に、プラスチックの幕か紙を重ねているように見える。
これが「精神の遠近感」、「感覚の奥行き」と呼びたいものを感じさせる。
現実世界の遠近感とは別に、私たちは精神、感覚の遠近感(空間)を生きている。
「記憶の遠近感」と呼ぶべきかもしれない。
それを私は見たことがあるのか、見たけれど忘れようとしているのか。
この絵を見るとき、私は、森の中へではなく、記憶の中へ、私の欲望の中へ入っていく。