145 送辞
誰に対する「送辞」なのか。とても厳しいことばである。詩人が死んだあと、その詩を読んでみた。しかし、
「144 きみに」も「きみ」が誰かわからなかった。もしかすると、この詩に書かれてる詩人かもしれない。一度では気がすまず、否定を念押ししている。そこに凄味、高橋の真実がある。
「144 きみに」の「きみの中がきみでいっぱい」が「賢すぎる」ということかもしれない。「からっぽ」ではない、ということかもしれない。
でも、こういうことは指摘してみても楽しくない。それこそ、こういう部分は「詩ではない」。
どこが、詩、か。
「もうもう」ということばに、詩がある。このことばは書き換えようがない。書き換えられない。「もう」で十分なのだが、高橋は「もうもう」と書く。その繰り返しは、一回限りのものだ。だから、詩、だ。
同じように、最後の「ね」という念押しの「しつこさ」。ここに「肉声」がある。「論理」を超えて、噴出してくる高橋の「肉体」がある。
「あなた」が誰であるかわからないが、単なる「論理」ではなく、「肉声」であの世に送ってもらえるのだから、この詩人は幸福な人である。高橋は、本当に言いたいことを言っているのだから。
(私は、高橋の肉声を思い出している。ある詩人が死んだ。その詩人への厳しいことばを、小さな集まりで偶然聞いた。高橋には一度会ったことがある。その一度の機会に、そのことばを聞いた。--こう書けば、その集いにいた人には、私が想定している詩人が誰であるかわかると思う。もし、高橋のことばを覚えていれば、だが。)
誰に対する「送辞」なのか。とても厳しいことばである。詩人が死んだあと、その詩を読んでみた。しかし、
詩を読むよろこびも おののきも ついに感じえなかった
それはつまり あなたの「詩」がじつは詩ではなかった
そして あなたはつまるところ はじめから詩人ではなかった
「144 きみに」も「きみ」が誰かわからなかった。もしかすると、この詩に書かれてる詩人かもしれない。一度では気がすまず、否定を念押ししている。そこに凄味、高橋の真実がある。
賢すぎるあなたのことだ 自ら気づかなかったはずはない
詩人ではないと自ら知りながら 詩人を振舞いつづけることは
どんなに辛かったことか もうもう らくになってください
詩人であることが特別立派なわけでもないのですから ね
「144 きみに」の「きみの中がきみでいっぱい」が「賢すぎる」ということかもしれない。「からっぽ」ではない、ということかもしれない。
でも、こういうことは指摘してみても楽しくない。それこそ、こういう部分は「詩ではない」。
どこが、詩、か。
「もうもう」ということばに、詩がある。このことばは書き換えようがない。書き換えられない。「もう」で十分なのだが、高橋は「もうもう」と書く。その繰り返しは、一回限りのものだ。だから、詩、だ。
同じように、最後の「ね」という念押しの「しつこさ」。ここに「肉声」がある。「論理」を超えて、噴出してくる高橋の「肉体」がある。
「あなた」が誰であるかわからないが、単なる「論理」ではなく、「肉声」であの世に送ってもらえるのだから、この詩人は幸福な人である。高橋は、本当に言いたいことを言っているのだから。
(私は、高橋の肉声を思い出している。ある詩人が死んだ。その詩人への厳しいことばを、小さな集まりで偶然聞いた。高橋には一度会ったことがある。その一度の機会に、そのことばを聞いた。--こう書けば、その集いにいた人には、私が想定している詩人が誰であるかわかると思う。もし、高橋のことばを覚えていれば、だが。)
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