詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷合吉重「火花」、原口哲也「鏡」

2018-03-31 10:44:14 | 詩(雑誌・同人誌)
谷合吉重「火花」、原口哲也「鏡」(「雨期」70、2018年02月27日発行)

 谷合吉重「火花」。

おれには金輪際
革命的なことなど無いぞと
日々うそぶいていると
季節は冬に入ろうとしていました
女とはまだ
何も起きていなかったが
会いに行くときはいつも体の下の辺に
火花が散ってどうしよもなかったのです
なんとか場末の居酒屋にしけこんでも
自分への侮蔑がまさってきて
それも消えてゆくのでした

 ここには、私のつかわないことばがある。「金輪際」だ。聞いたり読んだりすると、わかる気がするが、自分では口に出したことがないのは、よくわかっていないからだ。
 私の記憶では、たとえば「金輪際、酒は飲まない」というようなつかい方がある。「絶対に……しない」くらいの意味なんだろうなあ。「後悔」がふくまれている。そしてその後悔というのは「自分への侮蔑」とどこかでつながっていると思う。谷合の詩にも「自分への侮蔑が勝ってきて」ということばがある。
 でも、「金輪際」と「自分への侮蔑」は、この詩では「直接」結びついていない。
 「金輪際」は、まず「革命的なことなど無い」と結びつく。「金輪際、ない」。「金輪際」は「否定」と結びついて動いている。その結びつきに「革命(的)」という、強いことばが入ってきている。「革命」って、なんだろうなあ。
 「革命」は「起きる」とか「起こす」という動詞といっしょに動く。「起きる/起こす」という動詞は、この詩のなかではどうつかわれている。

女とはまだ
何も起きていなかった

 女とのあいだで何が起きること。それが「革命」と呼ばれている。少なくとも、この詩ではそうである。とても「重要」なこと、「大きな」ことなのである。
 男と女のあいだで起きること、というのは、ひとつだなあ。
 その「ひとつこと」を思うと、「体の下の辺に/火花が散って」しまうのか。「火花」には華やかさがあり、「散る」には何かさびしさがある。「革命」の「華やぎ」と「さびしさ」のようなもの。
 「革命」といいながら、どうも「革命的」ではない。それで「侮蔑」ということが、自分に対して起きるんだろうなあ。
 これが、「していました」「なかったのです」「ゆくのでした」と「です、ます」調の文体のなかで展開する。それが、妙におもしろい。
 「金輪際」が「侮蔑」にたどりつくまでの「過程」というか、「革命」を否定して「侮蔑」が姿をあらわしてくるまでの過程が、おかしい。書かれていることばのいたるところに「金輪際」が隠れているように思える。何かをしたいという思いと、「金輪際しない」という思いが絡み合っている。谷合の場合は「金輪際しない」というよりも、「金輪際、できない」「永遠にできない」という感じかなあ。(「金輪際、できない」という言い方があるかどうか、わからないが。)
 「場末の居酒屋」には「金輪際、行かないぞ」と思っていたのかもしれない。でも、いくのをやめることが「できない」。そういうことは「金輪際」というおおげさなことばをつかわなくても思えることだけれど、ついついつかってしまう。自分を鼓舞している。だから、自分を侮蔑することにもなる。
 この感じを「侮蔑がまさってきて」という、これまた微妙ないいまわしで語っている。「まさる」は「勝る」。これも、どこかで「革命」に通じるなあ。「革命」は戦い。そこには勝敗がある。
 よくわからないところで、ことばが不思議な形でつながっている。この不思議さが、詩だと思う。
 この不思議さは、後半「短編小説」のような人間関係を描き出す。谷合とは別の、「場末の居酒屋に行く(来る)ことを、やめることができない」男が、谷合の「分身」のようにして登場してきて、「勝ち」をおさめる。谷合は「革命」を起こすどころか、「革命」で倒される側になってしまう。この「いれかわり」もおもしろいので、つづきは同人誌で読んでください。
 私は、谷合は、小説(散文)の方がおもしろくなるかなあ、などと感じながら読んだ。



 原口哲也「鏡」は、ことばの連絡が、原口自身の内部(肉体の内部)で動くというよりも、「文学の内部」へとつながっていく。

深く悲しみを湛えた彼女の瞳孔が ぼくには見える。
「肉体はふたりを隔てる障壁ではないのです」と言って彼女は
ぼくの顳●(こめかみ)に接吻する そのとき地平線が体液の流れに収束し
失語の深さが 魂の地平を垂直に切り裂いていく。
   (注・こめかみは、私のワープロが文字を持っていないので、●で表記した)

 「ぼくには見える」という言い方が象徴的だ。「ぼくは見る」ではなく、「見る」を「見える」と主語を脇へずらしてしまう。「瞳孔が」「見える」は、一種の「受動態」だ。「ぼく」が受け身になっている。女に対して「受け身」を通り越して、「文学」に対して「受け身」になっている。
 原口にとっては、これが「文学」への進入の仕方なのかもしれないけれど。





*


「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。

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河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(46)

2018-03-30 11:16:29 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(46)(創元社、2018年02月10日発行)

 「瓦の小石」は、河原の小石になって語っている。

ここに連ねられる言葉は
誰かさんが沈黙を恐れるあまり
私の無言を翻訳しているだけの話

 こう「種明かし」をしている。「沈黙」と「無言」が対比されている。
 「無言」は「言(葉)」が「無い」であり、また何も「言わな(無)い」である。「言う」を「無」で否定している。「言う」を否定するとき、そこに「沈黙する」という動詞が結びつく。しかし、小石はことばを持たない。だから、小石は「沈黙する」ことはできない。小石にとっては「沈黙」は動詞にはならない。
 「誰かさん」はどうか。「ことばを持っている」。「言(葉)あ(有)る」。「無言」ではなく「有言」。有るけれど、「言えな(無)い」。「沈黙」には「言わない沈黙」と「言えない沈黙」がある。「誰かさん」は「言えない沈黙」を恐れている。「言えなくなる沈黙」かもしれない。それは「言(葉)を無(な)くする」ことによって起きる「沈黙」であるとも言える。「沈黙を恐れる」は「言えなくなる」「ことばをなくす」ことを恐れるでもある。
 「翻訳する」は、自分のことばではないものを、自分のことば(自分の理解できることば)に言いなおすことである。そこにあるものが「無」であったとしても、その「無」を別のことばで言いなおすこと、とらえなおすことはできる。
 この「翻訳」には、ただ「名詞」を「名詞」、「動詞」を「動詞」として「逐語」的に言いなおすものもあるが、「名詞」をそのことばが生まれてきた「動詞」に還元してとらえなおすということもある。「無言」を「言(葉)」が「無い」ではなく、「言わな(無)い」という具合に。「外国語」を「母国語」に言いなおすことを「翻訳」というが、「言い直し」は「母国語」のなかでも起きるし、また必要なことでもある。こういう「翻訳」は、「ことばを耕す」というような「比喩」として語られることもある。

 さて、その「翻訳」のハイライトはどこか。「無言」と「沈黙」を谷川は、どう「翻訳」している。

私はいつもただここにいるだけ
静かに何一つ表現せずに

 「小石」は「ここにいるだけ」、「何一つ表現せずに」。ことばでは「何一つ表現しない」から、これは「無言」。そして「沈黙」である。「無言」か「沈黙」かは、区別がつかない。「ことばを持たない」から「表現しない(できない)」のか、「ことばを持っている」のに「表現しない」のか。常識的には石はことばを持っていないから「表現できない」ということになるが、ほんとうは持っていて「表現しない」かもしれない。「持っていない」というのは、人間の一方的な判断である。
 というようなことを書くと、きりがない。
 ここで私が注目するのは、

静かに

 ということばである。

私はいつもただここにいるだけ
何一つ表現せずに

 と「静かに」を省略しても、「意味(ストーリー)」はかわらない。なぜ「静かに」ということばが必要なのか。どうして、ここに「あらわれて」来たのだろう。これは、何を表わしているのだろう。
 「静かに」は「無言」にも「沈黙」にも通じる。でも、この「静かに」は「ことば」とは関係がない。「ことば」の「有無」の「静か」とは違う。
 「動静」ということばがある。「動く」と「静かにしている」。「静かにしている」は「静止」にもつながる。
 ここでの「静かに」は「動かずに」である。
 でも、それなら

私はいつも「静かに」ただここにいるだけ
何一つ表現せずに

 でもいいはずだ。「動かずに、ここにいるだけ」。けれど谷川は「静かに」を「ここにいる」ではなく、「何一つ表現せずに」と結びつけている。
 「表現しないこと」を「静か」と定義している。「静か」を「表現しないこと」と定義しているのだ。「ことばを動かさない」を「静か」と定義している。
 石というもの(客観的存在)が動くか動かないかではなく、石の「内部(主観)」が動くか動かないか。
 「内面」が動かない。
 「内面」というのは、まあ、石ではなく、人間に通じるものだが。
 外から「外面」を客観的にみつめているだけではなく、「内面」を主観的にみつめ、「内面」の「静かさ」をとらえ、それを「何一つ表現しない」と言いなおしている。
 ことばが「表現する」のは、いつでも「内面」なのだ。

 けれど、その「内面」を重視するために、この詩は書かれているのかというと、私にはそうは思えない。

あ 私の上に紋白蝶がとまった
かすかだけど重みがあります
この蝶も河音を聞いています
石と蝶のあいだには絆があります
心の絆ではなく物質の絆が
だから存在するだけで良いのです
黙って存在するだけで世界は満ちる
人間がいてもいなくても
さらさらさらさら

 「心」は「内面」、「物質」は「外面(外形)」である。「内面」のつながりではなく、「内面」を必要としないつながり(絆)がある。それは別のことばで言えば何か。「存在する」という「事実」である。「ある」という「事実」が、ただ、そこにある。
 これを「静か」と言う。

黙って存在するだけで世界は満ちる

 は、

何一つ表現しなくても、存在するだけで世界は満ちる

 であり、

静かに存在するだけで世界は満ちる

 である。
 「静かに」と「黙って」が重なる。「静か」と「沈黙」が重なる。そこに「もの」が「ある」。
 「人間がいてもいなくても」は、ことばはあってもなくても、ことばにしようがしまいが、でもある。
 これだけで「良い」と谷川は言っている。
 もちろん、これを「内面を重視しない、と思う内面(感情/認識)を書いたもの」と読むこともできるのだが。つまり「内面を重視しない、ただ存在を重視するという思想が内面である」ということもできるのだが。

 私は、しかし、「ここにいるだけ」という「ある」が、とてもなつかしい。

 私は山の中の田舎で育った。幅がせいぜい3メートル程度の川を「大川」と呼ぶくらいの田舎である。正式な名前はみんな知らない。ほかの川に比べて大きいから「大川」と読んで区別しているだけである。そういうとこのろ「河原」は、まあ、単なる川辺というものだが、小石はある。そこに立ってぼんやり流れを見ている。そのとき川は「さらさらさらさら」と音を立てて流れていたかどうか、私にはわからない。「音」は確かににあった(はずだ)。だが、私は、その「ある」を「ことば」にするということを思いつかなかった。川も小石も、まわりの木や草、その向こうの畑や田んぼ、川の中の魚も、ただ「ある」。「ことば」だけが「なかった」と言い換えられるかもしれない。
 川の音、風の音、光の音も、「ある」。けれど、それはただ「ある」だけで、「聞く」ものではなかった。
 そういう「時間」を、思い出すのである。そのとき、私は「静か」だったと思う。何も動かない。

私はいつもただここにいるだけ
静かに何一つ表現せずに

 この二行に、「ああ、そのとおりだ」と思う。そこから、あの川岸、あの大きな石のそば、あるクルミの木、畦道を歩いていく友だち……と「ある」が広がり続ける。

 それを思うと、いま、私はどうしてこんなに「騒がしい」いるんだろう、とも思う。




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証人喚問報道(基本的な疑問)

2018-03-29 10:10:27 | 自民党憲法改正草案を読む
証人喚問報道(基本的な疑問)
             自民党憲法改正草案を読む/番外199(情報の読み方)

 私は佐川の証人喚問の質疑応答をすべて見たわけではない。一部しか見ていない。それで、実際はどうだったのかわからないのだが。
 2018年03月28日読売新聞朝刊(西部版・14版)の9面に「佐川証人喚問の詳報」(この面は12版)の書き出しは、金子原二郎の質問から始まっている。(1)(2)は私がつけたもので、新聞には書かれていない。

金子氏 (1)財務省の決裁文書14件の書き換えを知っていたか。
    (2)誰が、いつ指示したのか。
佐川氏 (3)捜査を受けている身だ。
    (4)刑事訴追を受ける恐れがあるので答弁を控えたい。

 佐川は(1)についても答えているのだろうか。「知っていたか」という質問は、かなりあいまいである。
 野党の質問者は質問をどう始めたのか知らないが、もっと具体的に質問すべきだと思う。
 たとえば、こんなふうに
①改竄前の文書は見たことがあるのか。
②改竄後の文書は見たことがあるのか。
 ここから「明確」にしないから、佐川を追及できない。
 (1)(2)ともに「ない」と佐川が答えれば、佐川が改竄に関与していたことにならない。別の誰かが指示し、改竄させていたことになる。
 また(1)を「ない」と答えたとするならば、以前の国会答弁は何に基づいていたのかということが問題になる。
 (2)の質問に「ない」と答えたのなら、なぜ佐川が喚問されているのか、なぜ喚問に応じたのかということを問い詰めることができる。
 (1)(2)とも「ある」と答えたとしたら、ここからさらに「具体的」に聴きはじめる。どの部分が改竄にあたると佐川が判断しているか、それを確かめる。
 「特殊」という表現を削除したのは改竄かどうか。
 「昭恵」の名前を削除したのは改竄かどうか。
 「日本会議」の説明を削除したのは改竄かどうか。

 文書が改竄されたことを、国民は知っている。どこが、どう改竄されたかも知っている。だから質問しなくてもいい、ということではない。このときの「知っている」は「国民」の認識であって、佐川自身の認識ではない。
 佐川が改竄と認識しているということを、まず、明確にすべきなのだ。わかっていても、それを「ことば」として残すこと、明言させることが必要なのだ。
 証人喚問の最初に、名前とか職業とかを聴くはずである。それはだれもがわかっている。わかっているけれど、それを本人に語らせる。それが基本。そうであるなら、今回起きたことも、佐川自身のことばで語らせる必要がある。

 (3)についても、
④どこから捜査を受けているか、
⑤いつから捜査を受けているのか
 これを佐川に語らせる必要がある。ほんとうに捜査を受けているかどうか、確認する必要がある。そうしないと、
 (4)がほんとうかどうかわからない。捜査を受けていないのに、「刑事訴追の恐れがある」を口実に、証言を拒んでいるのかもしれない。
 さらに「刑事訴追」を気にするということは、そのあとの「処分」を気にするということだろうから、
⑥「有印公文書偽造」の場合は、どういう「処分(刑、罰金)」があるのか知っているか、
⑦量刑などはいつから知ったか、
 を問うことも大切だ。
 (こういうことは、ふつうの国民は知らない。偽造する機会がないから、そういう法律があることも知らないひともいるだろう。)
 なぜ聞くかといえば、佐川の「認識」を確かめるためである。「認識させるため」と言いなおした方がいいかもしれない。
 質問しなくても、そんなことは「知っているはず」と思ってはいけない。「知っているはずのこと」を「ことば」にさせる。佐川自身に、強く「認識させる」必要がある。
 佐川が何をしたのか、それを「認識させる」手間を惜しむと、どこまでも平気で「証言を拒否」できる。嘘をつける。
 人間の「脳」は非常に「身勝手」にできている。自分の都合のいいことをつないで、「事実」と思い込む。
 野党の追及をかわせたので、自分は「無実」であると思い込むに違いないのである。

 「量刑」を知っているということは、
⑧自分のしていることが「犯罪」であると知っているということである。
 また、それが「犯罪」であると「認識」しているということは、
⑨なぜそれが「犯罪」なのか、という理由を知っているということである。
 佐川が「認識していること」を佐川に語らせる。
 私が見るかぎりでは、佐川自身がこの問題を完全には「認識」していないのだ。
 「認識していない」から、平気で言い逃れる。
 「頭」のなかで「認識させる」だけではなく、その「認識」をことばとして引き出す。それが大事だ。
 「ことば」はつないでいくと、「嘘」がある場合、どこかで破綻する。それを探し出すために、野党は連携しないといけない。





#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー (これでいいのかシリーズ)
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(45)

2018-03-29 09:04:01 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(45)(創元社、2018年02月10日発行)

 「音楽の時間」の「時間」とは何だろうか。

鍵盤の上の手を休めて
シューベルトは未来の子どもの眼で
暮れかかる野に目をこらす
子どもよ 君は聞くだろうかこれを
この生まれたばかりの旋律を
太古から存在していたかのように

 ここには三つの「時間」が書かれている。「未来」と「太古」と、ことばになっていないが「いま」。「生まれたばかり」が「いま」を「強調」している。
 未来-いま(現在)-過去(太古)は、一本の線上に書き表わすことが多いが、実際の「時間」のすぎ方(意識の仕方)は、一本の線上をまっすぐに進むというわけにはいかない。
 シューベルトは「いま」から「未来」の子どもを想像し、その「未来」から「いま」を見つめなおしている。そこに単なる「過去」ではなく「太古」という「時間」が書かれている。未来から見たいま(過去)よりも、さらに過去だから「太古」なのか。未来を「いま」と呼ぶとき、「いま」は「過去」になり、「過去」は「太古」になるということか。
 でも、そうではない。未来-いま-過去-太古というような「線上」で時間を割り振ってしまうと、「時間」のあいだを行き来する動きがなくなってしまう。
 シューベルトは「時間」を自在に行き来している。
 ピアノをつかって「旋律」を生み出す、いま。
 未来の子どもになって野を見る、いま。
 未来の子どもになって旋律を聴く、いま。
 旋律を聴きながら、この旋律がいつ生まれたのか、考える、いま。
 「ここ」にあるのは「いま」だけであり、未来も太古も「考え」のなかにあらわれてくる「時間」であり、それは「呼び方」に過ぎない。「ある」のは「いま」という時間だけ。
 そして「いま」しかないのだとしたら「未来」も「過去」も故障に過ぎないのだとしたら、最後の一行は、

未来に存在しているかのように(未来からやってきたかのように)

 と読み直すこともできるのではないだろうか。
 少なくとも、シューベルトにとって旋律は「太古から存在していた」というよりも「未来から」やってきたの方が近いと思う。まだ存在していないもの(存在したことのないもの)が、どこからともなくやってきた。「未知(未来)」からやってきたからこそ、「未来の子ども」はどう聞くかということが気になる。シューベルトにとって、旋律が「太古」から存在していたものとして認識されるなら、「太古の子ども」がどう聞くかが気になるはずだ。「太古の子ども」は旋律が「未来からやってきたかのように」聞くのではないか、と想像するはずだ。
 で。
 こんなふうに感じたことを全部ことばにしようとすると、「未来」と「太古」が交錯する。どちらも「いま」とつながっていて、「未来」と呼ぶか、「過去」と呼ぶかは、何を考えるかによって決まるだけになる。
 「音楽の時間」は「音楽という時間」であり、「音楽」を「時間」で言うならば、どう言い表わせるかを考えた詩(考えさせる詩)と言えるかもしれない。




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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
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証人喚問報道(だれが満足したのか)

2018-03-28 17:23:56 | 自民党憲法改正草案を読む
証人喚問報道(だれが満足したのか)
             自民党憲法改正草案を読む/番外198(情報の読み方)

 2018年03月28日読売新聞朝刊(西部版・14版)の9面に「佐川証人喚問の詳報」(この面は12版)が載っている。
 丸川珠代の質問と、佐川の答えの部分。

丸川氏 書き換えで安倍首相の指示はあったか。
佐川氏 ございません。
丸川氏 安倍昭恵首相夫人からの指示は。
佐川氏 ございません。

 この「要約」の仕方に、私は疑問を持つ。
 私は中継を全部見ていたわけではないが、丸川の部分だけは見た。丸川は「安倍総理からの指示はありませんでしたね」というような「念押し」というか、誘導質問のような言い方をしていた。
 そのうえで「首相や総理夫人の関与はなかったという証言が得られました。ありがとうございました」というようなことを言ったはずである。
 私が、「中継」を見るのをやめたのは、今回の証人喚問が、丸川は佐川のやりとりを公開の場でするために仕組まれたものであることが、丸川の質問の仕方でわかってしまったからである。
 「指示はあったか」と質問するのではなく「指示はありませんでしたね」と聞く。「か」ではなく「ね」と聞く。

 それにしても。
 「刑事訴追の恐れがある」という証言拒否に対して、その先を追及できない野党はだらしがない。すでに他の場所で書いたことだが、どうして「改竄前に、改竄が刑事訴追の可能性があるとは考えなかったのか」と聞かないのか。
 「いま、なぜ、刑事訴追の可能性があると考えるのか」と聞かないのだろう。
 財務省の職員全員に「改竄は刑事訴追の可能性がない」という認識が共有されていたのか。いつから「刑事訴追の可能性」を意識し始めたのか。そこから攻めることもできるはずである。誰かひとりでも「改竄は刑事訴追の可能性がある」と考えるならば、指示をしたひとは彼に「犯罪をしろ」と強要したことになる。改竄に加わった人のだれひとりとして「改竄は刑事訴追にあたらない」と考えているのなら、財務省はどういう職員教育をしているのか、という問題に発展する。
 佐川の言ったこと、繰り返したことをこそ、もっと追及すべきなのだ。

 丸山穂高と佐川の最後のやりとりが、これまた、ひどい。

丸山 国民が知りたい真相を解明できたと考えるか。
佐川 実際にどういう経緯で誰がやったのか、については答えられていないので(国民は)満足できていないと思う。

 佐川の言う通りだが、そのあと、こう聞いてほしい。
 「では、今回の証人喚問、佐川の証言で、誰が満足できていると思うのか」
 つまり、「佐川は、誰を満足させるために証言したのか」と問うてほしい。

 丸川は、首相を「満足させる」ために質問した。「答え」を誘導した。そして、首相を満足させる結論「首相や総理夫人の関与はなかったという証言が得られました」を早々と引き出した。
 入念にシナリオを書き、さらに「いい間違えないように」、丸川は「指示はありませんでしたね」と質問した。「指示があったか」と問えば、「指示があった」といい間違える可能性がある。「ありませんでした」なら「おうむ返し」(単なる反復)ですむ。
 誰が書いたシナリオかしらないが、この部分だけは非常によくできている。
 「改竄」だけではなく、「証人喚問」も「誰か」の指示でおこなわれているということだ。






#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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松井久子監督「不思議なクニの憲法」上映会。
2018年5月20日(日曜日)13時。
福岡市立中央市民センター
「不思議なクニの憲法2018」を見る会
入場料1000円(当日券なし)
問い合わせは
yachisyuso@gmail.com

憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー (これでいいのかシリーズ)
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(44)

2018-03-28 12:29:53 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(44)(創元社、2018年02月10日発行)

 「八ヶ岳高原音楽堂に寄せて」は「音楽の前の……」からつづいている詩、「音楽の前に……」の別バージョンの作品なのかもしれない。二連目に、

音楽の始まる前の静けさに抱かれて

 という一行がある。でも、違うかもしれない。直前の作品では、「音楽の始まる前の」
この静けさは何百もの心臓のときめきに満ちている

 と「この」があった。
 「この」とは何か。「この」としか言えない何かだ。だから何度も「この静けさは」と繰り返し、「この」を言いなおしていた。「未生のことば」を生み出そうとしていたのが前の作品である。
 「八ヶ岳」では「この」静けさではなく、違うものが語られている。「木立をそよがす風が」や「木々の緑をホリゾントとして地平をのぞみ」という行もあるが、「静けさ」よりも「音(音楽)」の方にことばの「重心」が移っている。

宇宙に澄まされる精密な耳は
絶え間ない雑音の中にかすかな信号を聴き取るという
音楽の始まる前の静けさに抱かれて
私たちの鼓膜は見えない指の愛撫を待っている

 「音楽の始まる前の静けさに抱かれて」という行があり、それが「私たちの鼓膜は」とつづいていくので、「主語」は「私たち(聞き手)」のように書かれているが、私はこの詩を「音楽の作り手」を「主役」にして書かれていると読み直す。
 「音楽の作り手」という「主語」を補うと、この連は

「音楽の作り手は」、宇宙に向けて精密な耳を澄ます
「音楽の作り手は」、絶え間ない雑音の中にかすかな信号を聞きとる
(「音楽の作り手は」、そのかすかな信号を音楽に変える/そこから音楽を生み出す)
(私たちは)、音楽の始まる前の静けさに抱かれて
私たちは、「音楽の作り手の」見えない指が私たちの耳を愛撫するのを待っている

 ということになる。
 前の二行で「音楽の作り手」が「私たち(音楽の聞き手)」とどう違うかを書く。主役を「音楽の作り手」にしてことばを動かす。後半の二行で「私たち(音楽の聞き手)」を主人公にすることで、「対構造」をつくりだしている。
 そして、この「対構造」の中心に、

「音楽の作り手は」、そのかすかな信号を音楽に変える/そこから音楽を生み出す

 という「書かれない一行」がある。
 詩はいつでも「書かれるもの」だが、同時に「書かれないことば」を持っている。「書かれないことば」というのは、詩人にとってわかりきっていることなので「書き忘れる」のである。
 「音楽の作り手」という「主語」も「書かれていない」。谷川が「音楽の作り手」について書いている意識が「肉体」にしみついてしまっているので、「主語」としてあらわれてこないのだ。「無意識」の奥でことばを突き動かしているからだ。
 この「無意識」のかすかな「あらわれ」が「という」という「伝聞」のことばであらわされている。

絶え間ない雑音の中にかすかな信号を聴き取るという
 
 この一行は「絶え間ない雑音の中にかすかな信号を聴き取る」にしても「意味」はかわらない。むしろ「強い」印象(断定)になる。けれど「という」を省略し、断定にしてしまうと、谷川が「無意識」と交渉しながらことばを動かしているということがわからなくなる。「無意識」がことばを動かしている、「無意識」にことばが動かされているという感じがなくなる。
 「音楽の前の……」では「この」が繰り返され、その「内部」を充実させながらことばが動いた。この詩では、何かが「意識」されないまま、一回だけ、谷川を強く動かしている。

 「音楽」が「沈黙」と向き合っている。「沈黙」を不可欠な「対」の要素として向き合っているとするならば、「詩」もまた「書かれないことば(沈黙)」と向き合っている。
 私のこの感想は「雑音」のようなものかもしれないが、「雑音」こそが「沈黙」なのである。

絶え間ない雑音の中にかすかな信号を聴き取るという

 「雑音」があるから「沈黙」がある。「沈黙」は「信号」と言いなおされているが、その「信号」は「音楽の作り手」にしか聞こえない音だからである。
 最終行、

無から生まれ出た音楽というもの

 は、「絶え間ない雑音の中にかすかな信号を聴き取る」を言いなおしたものである。「無」とは「雑音の中」の「中」であり、「沈黙」だ。
 「沈黙」を、書かれていなことばを、演奏されていない音を聴く。
 「書かれたことば」と「書かれたことば」、「演奏された音」と「演奏された音」の「あいだ(中)」に「書かれていないことば」を読み、「演奏されていない音」を聴く。
 これが詩を読み、音楽を聴く喜びではないだろうか。



*


「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。

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目次

小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
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2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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菊池祐子『おんなうた』

2018-03-27 11:03:38 | 詩集
菊池祐子『おんなうた』(港の人、2017年12月20日発行)

 菊池祐子『おんなうた』は「幸せの鳥」の一連目が印象的だ。

あなたは 心臓のように
わたしを 胸に抱いている

海よりも もっと遠い永遠の場所を思って
わたしは どきどきしながら 目を閉じています

 「心臓のように」「胸に抱く」。「心臓」は「肉体」の内部にあるので、これを「抱く」ということはできない。不可能なのだけれど、この不可能は、とても「強い」。ふつうに抱くのではない、ということを強く感じさせる。「力を込めて」とか、「やさしく」とかではない、「特別な」抱き方だ。「特別」ということがつたわってきて、ほーっと思う。
 つづくに連目の「海よりも もっと遠い永遠の場所」というときの「海」は、どこだろうか。たとえば長野県や岐阜県のような海に隣接していな場所なら「海」そのものが「遠い」。けれど、ここに書かれている「遠い」は「海から隔たっている」「海が隔たっている」という「遠さ(距離)」ではないだろう。岸に立って見える海でもない。岸に立って海をみつめながらも、なお、そこからは見えない「遠い海」だ。それは「思い描く」海だ。
 「思い描く」から、「心臓」にもどろう。
 「心臓のように」「胸に抱く」というのも「思い描く」光景である。「抱く/抱かれる」が現実であっても「心臓のように」が「思い描く」のだ。「思い描く」ことで、「わたし」は「心臓」になる。
 「遠い永遠の場所」としての「海」。それも「思い描く」とき、「私」は「遠い海」そのものになっている。
 「思い描く」とは「わたし」が「わたし」でありながら「わたし以外」になることだ。
 そういうふうに読んでいって、

古い帆船が わたしたちの横に そっと着いています

不幸せも 幸せも
孤独 という言葉さえ知らず
ひとり佇んでいる少女 だから
あなたがすき

 あ、「あなた」と「わたし」が「思い描き」のなかで入れ代わった、と感じる。
 「あなたは 心臓のように/わたしを 胸に抱いている」は「思い描いた」情景である。そして、思い描いていると、「わたしは 心臓のように/あなたを 胸に抱いている」にかわる。「心臓」は「少女のわたし」(少女時代の思い出)である。「思い出の少女」だから、それは「胸に抱く」ことができる。
 「少女」はいつか、こういうときが来ることを知っていた。「少女」は、いつかおとなになって、「少女だったわたし」を「思い出し」、思い出すことで「胸に抱く」。同時に、そのとき「少女」が「大人のわたし」を「抱く」ということも起きる。「少女」が、いま、ここにやってきて、「大人のわたし」を抱いている。そうなることを、「予感」していた。このとき「いま/ここ」とは「心臓(こころ)」であり、「思い描く」という「動詞」でもある。

 センチメンタルかもしれない。けれど、センチメンタルもいいなあ。美しいなあ。

*


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目次

小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83

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2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(43)

2018-03-27 08:56:45 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(43)(創元社、2018年02月10日発行)

 「音楽の前の……」に、私は違和感をおぼえた。

この静けさは何百もの心臓のときめきに満ちている

 読んだ瞬間に、「なぜ静けさなのか、なぜ沈黙ではないのか」と思った。「この静けさは」と書き出されているが、詩のタイトルとつづけて「音楽の前の、この静けさは」という意味だと思う。
 「音楽」と拮抗しているのは「沈黙」ではないのか。これまで詩を読んできて、私は、そう感じている。「静かさ」と向き合うのは「自然」である。
 だから、

この静けさに時を超えた木々のさやぎがひそんでいる

 の「木々」は「静けさ」には似合うし、「静けさ」をそっと招き寄せる感じもする。ただし「時を超えた」となると、やはり「沈黙」の方が「美しく」見えると思う。
 「説明」できない。ただ「直感」で、そう感じるだけなのだが。

 最終連は、こうなっている。

この静けさに音は生まれ この静けさに音は還る
この静けさから聴くことが始まりそれはけっして終わることがない

 この連の「静けさ」は「沈黙」が似つかわしい。完全な「沈黙」からひとつの音か生まれ、「音楽」として宇宙の果てまで響いていく。それは宇宙の中心にある「沈黙」に還る。

 と、ここまで書いて、ふっと違うことを思った。
 私の書いていることは「抽象的」すぎる。
 私は「音楽」と書きながら、「音楽とは何か」と問い、その「答え」を探していた。「思考」していた。「思考」のなかでは、確かに「音楽」と「沈黙」は向き合うのだが。
 だが谷川は、ここでは「音楽とは何か」を問うてはいない、と気づいた。
 「音楽の前の……」というのは、「抽象的な音楽(音楽とは何かと問うときに浮かび上がるもの)」ではなく、「具体的」なものをさしている。
 谷川は「音楽」を考えているのではない。「音楽」を「待っている」。この詩は「ホール」で書かれている。音楽がはじまる(演奏される)前のホール。その「ざわめき」のなかにいる。

この静けさは何百もの心臓のときめきに満ちている
この静けさにかけがえのないあの夜の思い出がよみがえる

 こう書き出されるとき、そこには何百人ものひとがいる。「ホール」で、ひとりひとりが「あの夜」を思い出している。そのために「こころ」がざわめいている。「ときめき」が共鳴し合っているのを聴きながら、自分の中の「ざわめき」をおさえる。つまり「静かに」させる。自分でつくりだす「静かさ」の中にいる。
 「音楽」を「聴く」ために。
 自分の中の「音」を「静かに」させて、これからはじまる「音(音楽)」を受け入れる。そういう「具体的」な時間が書かれている。
 タイトルの「音楽の前の……」は

「音楽のはじまる前の、」この静けさ「という時間のなか」は何百もの心臓のときめきに満ちている

 ということになる。「時間」を共有している。

「音楽のはじまる前の、」この静けさ「という時間のなか」に音は生まれ この静けさ「という時間のなか」に音は還る
「音楽のはじまる前の、」この静けさから聴くことが始まり「、」それ(この静けさ「という時間」)はけっして終わることがない

 「時間」は、人間の「聴く」という「動詞」と一緒にはじまり、動く。「聴くこと」を「始める」。いつでも「始める」ことができるから「終わり」はない。
 この「時間」の共有の中に、「音楽を奏でる」ことで「始まる時間」が重なる。それが「ライブ」ということになる。

 「音楽とは何か」ではなく、そういう「問い」は封印し、「音」を聴く。「音楽」は「沈黙」と拮抗して輝くもの、生まれてくるものだとするならば、ひとは「音楽」を「聴く」とき自分の中に「静かさ」をつくりだし、「音」を「待つ」。「音」を受け入れる「準備」をする。「沈黙」と自分の中の「静けさ」が近づくとき、「音」は「音楽」になって「聴こえる」。その「聴こえる」を「聴こえる」ではなく、「聴く」という主体的な「動詞」にかえていくことが「静かさ」をつくること、自分の中の「音」をおさえる(鎮める/静める)こと。
 「静けさ」ということばに、何か「華やぎ」のようなものがあるのは、「聴く」ことへの昂奮があるからだろう。「音楽」が演奏される直前の、「ホール」をおおう昂奮が、この詩には書かれている。
 最初に感じた「違和感」がすーっと消えていった。






*


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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(42)

2018-03-26 12:17:40 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(42)(創元社、2018年02月10日発行)

 「夕立の前」。三連目に印象的な二行がある。

沈黙は宇宙の無限の希薄に属している
静けさはこの地球に根ざしている

 「沈黙」と「静けさ」が「宇宙」と「地球」の「対」で語られている。「対構造」が強いので、ぐいと引きずり込まれる。その強さのせいで見落としてしまうのだが、ここにはもうひとつの「対」がある。
 「無限の希薄さ」と「対」になったものが、ほんとうはある。そして、それは省略されている。
 どういうときでもそうだが、「省略されたもの」が「キーワード」である。「キーワード」は書いている本人にはわかっているので、書く必要がない。書かずにすましてしまう。
 (今、日本中で騒いでいる「森友学園文書改竄」も同じである。最初はあったことばを「改竄」し、「削除」する。それでも「わかる」。最初に書かれていたことばは、もう「財務省」のなかにしみついてしまっている。省内では「意図」は通じる。対外的に消してみせただけのことである。)
 で、その「無限の希薄さ」の「対」とは何か。
 「無限の豊かさ」である。「地球の無限の豊かさ」。
 宇宙には空気がなくて(無限に希薄で)、「音」がない。しかし、地球には空気があって「音」が無限にある。
 この「無限」は、二連目に書かれている。

静けさはいくつものかすかな命の響き合うところから聞こえる
虻の羽音 遠くのせせらぎ 草の葉を小さく揺らす風……

 「いくつもの」は「無限」に対応している。その「いくつも」は「かすか」という「希薄」の積み重ねである。「音」と言わずに「命」と谷川は書く。「音」が「命(生きること/動くこと)」から生まれているからだ。虻は羽を動かして生きている。せせらぎ(水)は流れることで生きている。草は風に揺れて生きている。無数の「生きているもの(命)」が響きあっている。「生きている」ものを支える「静かさ」がある。
 この「静かさ」と「音」との関係は、芭蕉の「閑さや岩にしみ入る蝉の声」を思い起こさせる。「音」から「音」ではなく、そのとき「共存」している「静かさ」を聞く。芭蕉の句には「蝉の声」とだけ書いてある。一匹の強靱な蝉の声か、無数の蝉の強靱な声か。一匹ととらえた方が「閑さ」が強靱になると思う。「一対一」の迫力。
 で、この「静けさ」を引き継いで、三連目、

いくら耳をすませても沈黙を聞くことは出来ないが
静けさは聞こうと思わなくても聞こえてくる
ぼくらを取り囲む濃密な大気を伝わって
沈黙は宇宙の無限の希薄に属している
静けさはこの地球に根ざしている

 と書かれている。「無限の希薄」の「対」は「濃密な大気」であり、それは「ぼくらを取り囲む」。「濃密な大気」のなかには「無限の小さな音」が「命」そのものとして「響き合っている」。
 このあと、詩は四連目に移り、

だがぼくはそれを十分に聞いただろうか

 という行から「転調」する。複雑になる。
 「それ」というのは直前の「静けさ」を指しているととらえるのが、たぶん「学校文法(学校解釈)」の読み方だと思うのだが、簡単には、そう読みきれない。

だがぼくはそれを十分に聞いただろうか
この同じ椅子に座って女がぼくを責めたとき
鋭いその言葉の刺は地下でからみあう毛根につながり
声には死の沈黙へと消え去ることを拒む静けさがひそんでいた

 「声」と「沈黙」と「静けさ」の関係が、一回読んだだけではわからない。自然の命が持っている「音」と「静けさ」、その彼方にある「宇宙の沈黙」との「対」のような「構造」が見えてこない。
 「声」は「人間の発する音」。(自然なら「虻の羽音」など。)
 それは「沈黙(死=個人の主張が拒絶/排除されること/消されること)」を拒んでいる。つまり「自己主張している」。それは、「うるさい」かもしれないが、そこには「静けさ」が「ひそんでいる」。
 この「静けさ」は、これまで書かれていた「静けさ」とは何かが違う。「自然の音/自然の静けさ」は「同居」している。「響き合っている」。
 ところが、この四連目には「拒む」ということばがある。「同居/響き合う」とは異質なものがある。
 「地下でからみあう毛根」の「音」は聞こえない。そこには「静けさ」ではなく、むしろ「沈黙」がある。「責める声(怒り)」はたいがいは「大声」である。そこには「静けさ」はない。むしろ、「沈黙」のような、「強い」ものがある。(「沈黙」という「漢字熟語」が強さを感じさせる。)「沈黙」していた何かが、自己主張する強さ。「沈黙」させられていたものが噴出してくる「力」がある。

声には静かさのなかに安住すること(静かさと同居/共存すること)を拒む沈黙があふれていた

声には生の静かさの中に消え去ることを拒む沈黙が隠れていた

 という具合に「死」と「生」、「沈黙」と「静かさ」を入れ替えて読んでみる必要があると思う。
 「だがぼくはそれを十分に聞いただろうか」の「それ」は「静かさ」である、あるいは「沈黙」であると相対化、固定化して読むのではなく、ふたつがあわさったもの、ある瞬間瞬間にあらわれてくる「それ」としか呼べないものとして読みたい。

はるか彼方の雲から地上へ稲光りが走り
しばらくしてゆっくりと長く雷鳴が尾をひいた
人間がこの世界に出現する以前から響いていた音を
私たちは今なお聞くことができる

 この「音」を支えているのは(この「音」と向き合っているのは)、「静けさ」なのか「沈黙」なのか。「宇宙」と「地上(地球)」、「人間」と「世界」(「私」と「他者」)を「対」にして、私は、この「わからなさ」に立ち止まる。
 「わからない」、言い換えれば、読む瞬間瞬間に感想が違ってきてしまう、そういう違いを生み出しながら生きているのが「詩」なのかもしれない。「わかってはならない」もの、その前で立ち止まるしかないものが「詩」なのだと思ってみる。





*


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草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
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読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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水木ユヤ「わたし」、山本純子「いいことがあったとき」

2018-03-26 12:15:34 | 詩(雑誌・同人誌)
水木ユヤ「わたし」、山本純子「いいことがあったとき」(「ヘロとトパ」2、2018年02月25日発行)

 水木ユヤ「わたし」について何が書けるか。どういう感想が書けるか。とてもむずかしい。

わたしはあさおきてがっこうへいきます
じゅぎょうちゅうにねていません
せんせいのめをみておへんじします
おともだちとけんかしません
だれもみてなくてもおそうじします
ゆうがたおうちにかえります
しゅくだいしてからあそびます
おとうさんおかあさんになまいきなくちをききません
きょうだいなかよくおてつだいします
おふろにはいってきれいにからだをあらいます
さっさとねどこにはいります
わたしはいいこです

 これは水木自身のことでも、水木のことばでもない。「小学生」の一日を書いている。そして、このなかに「ほんとう」があるとすれば、まあ、「わたしはあさおきてがっこうへいきます」だろうなあ。
 いや、すべて「ほんとう」かもしれないけれど、私は、そうは読まない。読めない。
 授業中に居眠りして、よそみして、先生と目をあわせない。友だちとけんかし、掃除はてきとうに手抜き。家に帰ることは、もう暗くなっている。宿題は遊んだあとでやる。父や母に生意気な口をきき、兄弟喧嘩をする。ふろも、てきとう。なかなか寝床に入らない。書いてあることは全部嘘。「いいこ」なんかではない。
 きっと叱られたことだけが書いてある。最初の「わたしはあさおきてがっこうへいきます」も、「早く起きて、さっさと学校へ行きなさい」と言われているのだ。
 で、こんな「嘘」ばっかり書いてあるのに、なぜか、おもしろい。
 ひとは「叱られたこと」をおぼえているのだ。「うらんで」いるかもしれない。それが「ことば」となってしみついている。叱られたことを、いちいち、おぼえている。その全部を一気に書いている。この「一気」がおもしろい。
 そして、この「一気」のなかには、もうひとつ不思議なことがある。たとえば「じゅぎょうちゅうにねていません」だけなら「わたしいいこです」は「ほんとう」になるのかもしれないが、「一気」に全部言うから「嘘」が丸見えになる。「いいこと」を重ねれば重ねるほど「嘘」が大きくなる。やっていることが「裏目」にでる。全部嘘じゃないか、と言われてしまう。たとえそのなかにひとつ「ほんとう」が書かれていたとしても。この関係が、なんともいえず、おかしい。楽しい。
 「ことばの肉体」がくっきりと見える。「見えすぎる」。まるで、自分自身の「肉体」そのものを見るみたいに。
 で、どうということはない、特に感想も書く必要もないことなんだけれど、やっぱり書いてみたいという気持ちになる。この詩の感想をきちんと書けたらいいだろうなあ、と刺戟される。
 いま書いたことが、感想になっているのかどうか、とてもあやしいが。

 特別な体験をことばにすれば詩になるのではない。
 あたりまえのこと、誰もがしていること(したこと)でも、書き方次第で詩になる。詩は、ことばの運動なのだ。
 「書き方」が詩ということになる。



 山本純子「いいことがあったとき」は、水木の作品に比べると「詩」と言いたくなる部分がある。

いいことがあったとき
帽子をつかんで
空へ 思いっきり
ほうりあげる人がいる

喜びが
空のあのへんまで
わき上がっているんだ
と はっきり
目に見えるように

 一連目は「実景」。だれもが見たことがあると思う。二連目は、ことばでしか「見えない」ものを書いている。「ことば」にすることによって初めて見えるものが書かれている。これは「詩」だね。
 水木の詩には「初めて」のことばがない。だれもがみんな知っていることばしか書かれていない。だから、ここが「新鮮」、ここが「発見」と言えない。「詩」がないとさえ、いえるかもしれない。
 でも、そこにも詩はある。
 山本の詩にもどる。

もちろん 帽子は
すぐに落ちてくるから
その人は
帽子をかぶりなおして
また 何もなかったかのように
歩いていく

 これは、また「実景」。「何もなかったかのように」というのは山本の感想。この感想が差し挟まれることで、「実景」が「実景」ではなく、山本だけが見た「新しい世界」になる。「新しい世界」といっても、それはすでにあった。あったけれど、だれも書かなかった。山本が書くことによって生み出された世界。
 「書き方」が詩になっているのだ。
 ちょっと、そういう楽しい「揺れ動き」があって、最終連。

注文した帽子を
受けとりに行くと
 帽子が
 空に浮かんでしまう
 ことがあります
と書いた
領収書をくれる

 これは完全な「嘘」。そんな帽子屋があるはずがない。そういう帽子もあるはずがない。でも、この嘘によって、そうか、いま山本は帽子が空に浮かんでしまうくらいうれしいんだ、とわかる。「書かれていること」は「事実(ほんとう)」ではないが、そのことばのなかに「ほんとう」がある。「書き方」のなかに詩がある。ことばが動くと詩になるのだ。

*


「詩はどこにあるか」2月の詩の批評を一冊にまとめました。

詩はどこにあるか1月号注文
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目次

小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
マーティン・マクドナー監督「スリー・ビルボード」再考21  最果タヒ「東京タワー」25
樽井将太「亜体操卍」28  鈴木美紀子『風のアンダースタディ』32
長津功三良『日日平安』37  若竹千佐子「おらおらでひとりいぐも」40
草森紳一/嵩文彦共著『「明日の王」詩と評論』47  佐伯裕子の短歌54
石井遊佳「百年泥」64  及川俊哉『えみしのくにがたり』67
吉貝甚蔵「翻訳試論――漱石のモチーフによる嬉遊曲」72
西岡寿美子「ごあんない」76
     *
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(上)83

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注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



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山ガール (俳句とエッセー)
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自民党憲法改正案(1)

2018-03-26 12:13:41 | 自民党憲法改正草案を読む
自民党憲法改正案(1)
             自民党憲法改正草案を読む/番外197(情報の読み方)

 自民党憲法改正案の全文が発表された。引用は、2018年03月26日の読売新聞から。「自衛隊の根拠規定を明記する案は、多数派が指示する有力案」とのただし書きがついている。「正式」にはまだ未定ということか。
 改正案だけでは問題点が見えにくいので、関連する現行憲法と照らし合わせて読んでみる。

(現行憲法)
第2章 戦争の放棄
第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 これに自民党は「自衛隊の根拠規定」を明示する。「 9条の2」を追加する。(1)(2)(3)という表記は自民党案にはないが、あとで項目ごとに説明するためにつけた。改行も、分かりやすくするためにつけくわえた。

9条の2
1項 (1)前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、
(2)そのための実力組織として、法律の定めるところにより、
(3)内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮官とする自衛隊を保持する。
2項 自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
 自民党案のいちばんの問題点は「主語」が「国民」ではないことだ。
 現行憲法は「日本国民は」と「国民」を主語にして書かれている。すべての「動詞(述語)」の主語は「国民」である。
 1項は、わかりやすく書き直すと、
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する。
 日本国民は、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は(ここまでがテーマ)、永久にこれを放棄する。
 (この文体は、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」という文体と同じ。テーマを先にかかげ、「これを」という形で引き継ぐ。定義する。)
 途中にある「国際紛争を解決する手段としては」は「テーマの補足」である。
 日本国民は、国際紛争を解決する手段としては、(戦争と武力をつかうことは)永久にこれを放棄する、と言っている。
 2項目に「日本国民」を補うと、
 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は(これがテーマ)、これを「日本国民は」保持しない。
 国の交戦権は(これがテーマ)、これを「日本国民は」認めない。

 自民党の案では「国民」が消えている。補うことが出来ない。
(1)前条の規定は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げず、
 この「主語」は「前条の規定」である。それにつづく文章は「説明」である。「妨げず」という動詞(述語)の主語は「前条の規定」であり、これは「説明文」になる。
 前条は、「我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げる」とは「規定していない」と言う文章を「言い換えた」ものである。「規定していない」という「解釈」を、「解釈」とわからないように書いている。
 「解釈する」というときは「動詞」が必要である。
 「前条は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げるとは規定していない」と、「国民は」解釈するでは、「解釈」を「国民」に押しつけることなる。これは「思想、信条の自由」に反する。だから、そうは書けない。「前条」をそのように「解釈する」人間は限られている。
 これは、

(1)前条は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げるとは規定していないと、「政府は」解釈する

 なのである。「政府(政権)」という「主語」が明示されないまま、ここに登場してくる。案をつくった「自民党」と言い換えてもいい。
 この「政権/自民党」という「主語」が引き継がれていく。

(2)そのための実力組織として、「政権(自民党)が提出した」法律の定めるところにより、
(3)内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮官とする自衛隊を「政権(自民党)が」保持する。

 「法律」を「提案できる」のは「国民」ではない。「自衛隊」という組織を「保持できる」のは「国民」ではない。
 「動詞」と「主語」をていねいに補いながら読む必要がある。「動詞」と「主語」を補うと、「憲法」の「主役」が「国民」から「政権(自民党)」に移ってることがわかる。それも「隠したまま」、「主語」を乗っ取っているのである。
 「内閣総理大臣を最高の指揮官とする」ということばに従えば、主語は「内閣総理大臣(安倍)」ということになる。

(1)前条は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つために必要な自衛の措置をとることを妨げるとは規定していないと、「安倍は」解釈する
(2)そのための実力組織として、「安倍が提出した」法律の定めるところにより、
(3)内閣の首長たる内閣総理大臣を最高の指揮官とする自衛隊を「安倍が」保持する。
 つまり、これは「独裁」の宣言なのだ。しかもその「独裁」は「自衛隊」という組織をバックボーンに持っている。「軍事独裁」が安倍の夢なのだ。(2)で現行憲法で禁じている「武力」ということばつかわず「実力組織」とあいまいにしているのも、国民をだますためなのだ。
 (2)で補った「安倍が提出した」を中心に改憲の動きを見直すと、このことがよくわかる。
 改憲は安倍が提案したのだ。憲法を守る義務がある安倍が、率先して憲法を否定している。「軍事独裁」のために、である。

2項 自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。
 にも、「日本国民」を補うことは出来ない。あえて補えば

自衛隊の行動は、法律の定めるところにより、「国民を代表する」国会の承認その他の統制に服する。

になるかもしれないが、「内閣(総理大臣」と「国会」の出てくる順序が現行憲法とは違う。現行憲法は「天皇→戦争放棄→国民→国会→内閣」という順に規定している。重視するものから先に規定している。
 「9条の2」で「国民」を飛び越して「主語」になった「安倍(内閣総理大臣)」は当然のように、ここでは「国会」を飛び越している。「国会」のうえに君臨する。

 安倍(自民党)の改憲案は、「安倍軍事独裁」のための改憲案である。

(他の改憲案に対する意見は、後日書く。)
 民主主義の基本である「議論」。これを封じることで「独裁」を完成させる。その「線」ですべての「事件」、あるいは「できごと」はつながっている。そして、批判力を身につけさせないための「学校づくり」を、その根底においている。これが安倍のやっていることなのだ。憲法を変え、独裁者になるための下準備なのだ。







#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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松井久子監督「不思議なクニの憲法」上映会。
2018年5月20日(日曜日)13時。
福岡市立中央市民センター
「不思議なクニの憲法2018」を見る会
入場料1000円(当日券なし)
問い合わせは
yachisyuso@gmail.com
憲法9条改正、これでいいのか 詩人が解明ー言葉の奥の危ない思想ー (これでいいのかシリーズ)
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ヨルゴス・ランティモス監督「聖なる鹿殺し」(★★★★+★)

2018-03-25 22:20:45 | 映画
監督 ヨルゴス・ランティモス 出演 コリン・ファレル、ニコール・キッドマン、バリー・コーガン

 映画が始まると、いきなり不気味なシーンがあらわれる。コリン・ファレルと同僚が病院の廊下を歩いているのだが、どこまでもどこまでも廊下がつづいている。それだけではなく「カメラの視点」が通常とは違う。一点透視の構図はキューブリックも好んでつかうが、ヨルゴス・ランティモスの「カメラの視点」はスクリーンの中央にない。通常の人間の「視点」よりも高い位置にある。3メートルくらいから見おろしているという感じ。その位置でカメラがコリン・ファレルスの動きにあわせて動く。見慣れた映像ではないので、「乗り物酔い」の感じがする。1分足らずのシーンだと思うが。
 このシーンに限らないが、「遠近感」がとてもかわっている。コリン・ファレルがバリー・コーガンと最初に会うファミリーレストランのような店内の映し方も、目の悪い私などは「くらり」としてしまう。
 息子と娘が「病気」になり、その「病気」の見当会議(?)のようなシーンも、ふつうはスクリーンに映らない天上、床が上下に広く映し出され、会議室が「遠近法」のなかに閉じこめられているようになっている。
 コリン・ファレルの家が外から映されるとき、単純に近づいていくのではなく、左右に行きつ戻りつしてアップになる。これなども「酔い」を引き起こす。
 これはいったい何なのか。
 「酔い」の感覚から、考え直してみる。「酔い」というのは「自分の頭の中にある世界(初めての風景でもこうだろうと予想している世界)」とは違ったものが「頭」のなかへ飛び込んできて起こる。三半規管が何かわからないけれど、そこがバランスを崩すと、「視覚」がゆれて、「予想していた世界」と「実際に見える世界」が微妙にずれる。その「ずれ」が「ゆれ」となって増幅し、「頭の中」が気持ち悪くなる。
 この「酔い」の感覚が「比喩」となって、この映画を動かしている。
 「自分の見る世界(コリン・ファレルの見る世界)」と「他人の見る世界(バリー・コーガン)」は違う。コリン・ファレルから見れば「手術ミス(自覚がある)」だが、バリー・コーガンから見れば「殺人」である。コリン・ファレルにはアルコールを飲んでのミスという意識があるから、バリー・コーガンの「殺人」という「世界」を完全に拒否できない。それは「罪滅ぼし」という意識になって、二人を結びつけるのだが、そこにはやはり「ずれ」が残り続ける。「許されたい」と「許せない」が交錯する。この「修正できないずれ(ゆれ)」が映画を支配する。
 この「ずれ(ゆれ)」をさらに気持ち悪くさせるシーンがある。バリー・コーガンがニコール・キッドマンの前でスパゲティを食べる。とてもだらしない食べ方である。食べながら、バリー・コーガンがこんなことを言う。「私の食べ方はとても特徴的で、父親に似ていると言われる。フォークでぐるぐるまいて口に運ぶ。そういわれて、私は父を引き継いでいる、と思った。けれど、それは特別かわった食べ方ではなく、みんなが同じようにフォークでぐるぐるまいて口に運ぶ。違っていない。」
 でも、そうかな? やっぱり違う。「ことば」にすれば同じでも、「見える」ものは違う。また「似ている」ということもある。「違い」と「同じ」が「ずれ」としてそこに隠されている。
 何が同じで、何が違うか。違うと感じるとしたら、それは何によってなのか。
 ここから映画のクライマックスが急展開する。家族の誰かを殺さなければ、全員が死んでしまう。さて、誰を殺すことになるのか。誰が殺されることになるのか。殺す主役は父(コリン・ファレル)と決まっているので、彼に対して「命乞い」がはじまる。「家族」は「みな同じ」はずなのに、自分はコリン・ファレルの気に入るようになるから、自分を許して(殺さないで)と言う。他人を蹴散らすというのではなく、自分を売り込む。この「エゴイズム」と「愛」の「ずれ(ゆれ)」が、なんとも言えず、「気持ちが悪い」。
 これは何かおかしいとわかるのだが、何がおかしいのか、どこを修正すれば「ゆれ」がなくなり、「酔い」の感じがなくなのか、明確に言えない。
 最後の決断を、コリン・ファレルが目隠しをしてぐるぐるまわり、「酔った」感覚のまま、誰かを射殺するという描き方も、「ゆれ(ずれ)」と「酔い(正常ではなくなる)」を強調している。

 で、ここでストーリーの「カギ」になっている「立てなくなる」「食べることができなくなる」という「病気」だが、これも振り返ってみれば「酔い」に通じる。船酔いをすると立っていられなくなる。ものも食べられない。食べても吐いてしまう。一口かじっただけのリンゴさえ、娘は吐いてしまう。
 コリン・ファレルの手術の失敗、この映画の「起点」も、「アルコールの酔い」である。

 「酔い」とは何なのか。これをテーマに「ギリシャ悲劇」風に仕立て、それを「映像」として結晶させたのが、この映画ということになる。とても「凝った」映画なのだ。この「凝り」をどう評価するかむずかしいが、気持ち悪いと感じるのは「酔い」そのものを「体感」した証拠、つまり映画が成功していることの証明になるので、★一個を追加した。
 こんな映画は、見たことがない。

 それにしても。
 バリー・コーガンはうまい。背中を丸めて、未成熟の16歳の肉体の不完全さを体現し、顔も半分だらしなくし、未成熟の不気味さを出している。めつき、口の動き、どこをとっても「演技」している。最初は「演技」しすぎているように感じるのだが、これがまた映画の狙いの「酔い」を引き起こすのだから、最初から「計画」されたものなのだろう。
    (KBCシネマ1、2018年03月25日)


 *

「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(41)

2018-03-25 14:09:03 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(41)(創元社、2018年02月10日発行)

 「* 夜ひそかに人が愛する者の名を呼ぶ時、」の最初の断章。

 夜、ひそかに人が愛する者の名を呼ぶ時、それもまた、沈黙との
ひとつの戦いである。その時、意味は言葉にはなく、むしろ声にあ
る。月の夜の草原でコヨーテが長い吠え声をあげるのと同じように、
われわれ人間もまた自らの声で、沈黙と戦う。

 「その時、意味は言葉にはなく、むしろ声にある。」という一文に強く惹かれる。「声」に思わず傍線を引く。私は「声」に対する「好き嫌い」が激しい。
 詩から脱線するが(谷川が書いているのは、私がこれから書くこととは関係ないのだが)、私は美空ひばりの声が好きだ。森進一の声も好き。都はるみは、若いときの声が好き。五木ひろしの声は嫌い。
 で、こう書いてしまって、なぜ「脱線」したのかなあ、私はほんとうは何が書きたかったのかなあ、と考え始める。「脱線」しなければならない「理由」が私にはあったのだ。それは何かというと……。
 「意味」だな。
 美空ひばりの歌を聴いているとき、私は「歌詞(ことば)」を聞いていない。「メロディー」も聞いていない。「声」を聞いている。それを思い出したのだ。
 美空ひばりが好きな理由を、谷川のことばを借りていいなおせば、美空ひばりを聞く「意味」は「歌(歌詞、曲)」にはなく、むしろ「声」にある、ということである。

 さて。

 ここからまた「脱線」するのだが、あるいは、詩にもどるのだがといった方がいいのか。私は考える。谷川の書いている「意味」とは何だろうか。「労働とは、働くという意味である」というときの「意味」とは違うね。
 あえて言いなおせば「重要なこと」だろうか。

その時、「重要なこと」は言葉にはなく、むしろ声にある。
(その時、重要なのは言葉ではなく、むしろ声である。)

 こう言い換えることができる。「大切なこと」とも言いなおせる。
 それでは「何にとって」重要なのか。大切なのか、と問い直す。「肉体」にとってである、と私は直感する。「自分の肉体」にとって重要である。
 先の一文は、

その時、「こころを動かすのは(こころを支配するのは)言葉にはなく、むしろ声である。

 という具合に言いなおすこともできるかもしれないが、わたしは「こころ」の存在を信じていないので、わきにおいておいて考えをすすめる。
 「肉体」と「ことば」と「声」とどういう「関係」にあるのか。(谷川は、言葉、と書いているのだが、ここからは私の考えなので、私のいつもつかっている表記で書く。)
 「ことば」は「肉体」をとおって「声」になる。肉体をとおるから「具体的」である。「聞こえる」ものとしてつかむことができる。書かれていれば「読む」という形でつかむ。この場合も「文字」を「書く」という手を媒介とした動詞、「読む」という目を媒介とした動詞が動く。「ことば」は、こんなふうに「肉体」をともなわない。その分、私には「抽象的」な存在に思える。
 「声」は「肉体」を実際につかって「出す」ものである。「ことば」も「ことばを出す(発する)」という言い方があるが、「声を出す」というときのように、「肉体」の「ここ」をつかってというのとは違う。「声を出す」ときは、「のど」「舌」をどのように動かしているかはわかるが、「ことばを出す」とき「頭(能)」をどのように動かしているかはわからない。もしかすると「頭」ではなく「小腸」で「ことばを動かしている」のかもしれない。脳波を調べればわかるのかもしれないが、それはのどや舌のように、自分の思うようには動かせない。
 「ことば」と「声」を比較すると、「ことば」は抽象的。「声」は具体的である。「声」は「声を出す」という「動詞」を含めた「肉体」の動きとしてとらえなおすことができる。

その時、「重要なこと」は言葉にはなく、むしろ「声に出すこと」ある。

 さらに、「言葉」と書かれていたのは、「愛する者の名」であったから、これは

その時、「重要なこと」は「愛する者の名」にはなく、むしろ「愛するものの名を声に出して、呼ぶこと」にある。

 とも言いなおすことができる。
 「呼ぶ」のは「名」だけではない。「名」をもった「肉体」そのものを「呼ぶ」(招く)でもある。
 「ことば」もまた、「ことばで指し示されたもの」を「呼ぶ」ことだが、これもまた「声を出して呼ぶ」ことに比べると、抽象的である。「声に出して呼ぶ」というのは具体的で、「声の出し方」によって、「呼ぶ-呼ばれる」の間が具体的にゆれる。「やさしい声」で呼ぶ、「怒った声」で呼ぶ、では、その後の関係が違ってくる。

 さらに詩に引き返すのだが。

 谷川は、最初に「愛する者の名を呼ぶ」という「具体」から始まって、その「呼ぶ」という動詞を「声」という名詞で言いなおしている。(私は、これを逆に「声」から出発しなおす形で「声に出す」「呼ぶ」とたどってみたのだが。)言い換えると「具体」から始まり「抽象」へ、ことばを動かしている。
 「具体」は「個別的」であるのに対し、「抽象」は「個別」をこえる。「普遍」(真理)につながるからである。
 なぜ「普遍」につながることを書いたかというと、「コヨーテ」を出すためである。
 「人間」と「コヨーテ」が「普遍(声を出す)」という「動詞」でひとつになる。そうすると「人間」の「動詞」が「人間」の枠を超えて、「いのち」のようなものに結びつく。「人間」の「比喩」が「コヨーテ」なのか、「コヨーテ」の「比喩」が「人間」なのか。どちらでもない。「いのち」が「人間」と「コヨーテ」として、一緒に生まれてくる。「比喩」というか、「例示」というか、別なもので言いなおすとき、「二つの存在」は「一つ」につながり、「一つ」の奥にあるものを浮かび上がらせる。「声を出す」という「動詞」と一緒に。こういうことろが「詩」の魅力。論文では、こういう展開は頻繁には起きない。
 で、この「声を出す」ということを、谷川は「沈黙との戦い」と「定義」している。

 このとき「沈黙」というのは、どこにあるのだろうか。ひとりの「夜」、あるいは「月の夜の草原」ということばから「私」のまわり、「コヨーテ」のまわりに「沈黙」があると読むのがふつうかもしれない。「沈黙」につつまれて、孤独な「人間(私)/コヨーテ」と読むとわかりやすい。
 けれど、「声に出す」という「肉体」に引き返すと、「沈黙」は「肉体」そのもののなかに「ある」とも考えることができる。自分の中にある「沈黙」を突き破るために「声を出す」。その「声」は「名」というような「明確なもの」ではない。すでに存在するものではない。「声」はまだ「名づけられていないもの」を噴出させるためにもつかわれる。「名づけられていないもの」とは「未生のもの」である。「肉体」のなかにある「未生のもの」、それを「生み出す」ために「吠え声」をあげる。
 これが谷川のいう「戦い」。
 「詩」とは自分の中にある、まだ「ことばにらないないもの」と戦い、その存在を「声にする(声に出す)」ことである。声をつかって(肉体をつかって)、「形」を生み出すことである、と言える。
 
 最初に美空ひばりのことを書いたが、私が感じるのは、美空ひばりの声からは「何か」が生み出されていると感じる。それは「ことばの意味」ではない。「感情」という便利な「流通言語」があるが、「感情」と言ってしまうとまた違う。まだ名づけられていない何かがあると感じる。





*


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目次

小川三郎「沼に水草」2  岩木誠一郎『余白の夜』8
河邉由紀恵「島」13  タケイ・リエ「飯田橋から誘われる」18
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ことばを読む(『太宰治をスペイン語で読む』を読みながら考えたこと)

2018-03-24 13:25:21 | 詩集
ことばを読む(『太宰治をスペイン語で読む』)

 『太宰治をスペイン語で読む』(NHK出版、2017年10月25日発行)の「走れ、メロス」を読んでいる。一か所、勉強し始めの私にまったく歯が立たないところがある。対訳で、注もついているのだが、ページを開くたびにそこでつまずく。
 日本語では、こうである。

きのうの豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木端微塵に橋桁を跳ね飛ばしていた。

 漢字熟語が多いのだが、それでも「意味」はわかるし、イメージもぱっと目に浮かぶ。ところが、これがスペイン語になると、まったくお手上げなのだ。
 スペイン語を引用してもしようがないので省略するが(52ページを参照)、なぜなんだろう、とはたと考えた。
 そこから、また日本語にもどって読み直した。
「走れメロス」のなかにはさまざまな文体がある。
 「初夏、満天の星の夜である」というような簡潔で美しい文章もあり、それは私の大好きな一行だが、激流の凝縮した描写は他の部分とはあきらかに違う。太宰は、あえてこの部分をこう書いているのだ、と突然気づいた。
 私はうなってしまう。
 激流を目にして、メロスは立ちすくみ、絶望にかられるのだが、その激流を描写するのに、長く書いていては、読者の気持ちが激流の方に移ってしまう。メロスの感情を忘れてしまう。だから、精一杯短く書く。感情(気持ち)に突き刺さるように、強いことばで「一気」に書き上げている。
 激流はストーリーの一つの「山場」ではあるのだが、その「描写」そのものに時間をかけてしまうと、メロスがどう思ったかを書けなくなる。どうしても凝縮する必要があったのだ。しかも、激しさを実感させなければならない。

 ここに「見せ場」がある。「ことば」の見せ場である。「詩」がある。

 「走れメロス」は友情と信頼をテーマとしている。テーマからすると、こういう障碍は「説明」におわってしまうときがある。ストーリーを動かすだけの「説明」になってしまうときがある。太宰は、これを「説明」にせずに「詩」としてことばを輝かせている。
 この工夫を反映した結果、スペイン語は「複雑」になっている。
 私のスペイン語では、何度読んでも「意味」にならない。「イメージ」が思い浮かばない。スペイン語になれ親しんでいない私には、そのスペイン語が「強すぎる」のである。
 日本語の文章も強く複雑ではあるけれど、何度か聴いたことがあることばなので、イメージはできる。スペイン語は聞く機会がないので、そのことばが「肉体」に入ってこないのである。
 ことばは人間の習慣というか「暮らし」をひきずって動いている。
 太宰は、日本人の読者にそのことばがどう聴こえるかを明確に意識、またそれを利用しながら、そこを「詩」にしている。

 私は、こういう部分を探して読むのが好きである。
 「走れメロス」は中学生のとき読んだと思う。そのときは、この激流の描写に気がつかなかった。最後の「赤いマント」の部分が気になっただけである。それが嫌いで、太宰を読もうとは思わなかった。
 でもスペイン語で読んで、あ、ここがおもしろいところだったのだと気づかされた。突然、太宰を読んでみたいという気持ちになった。太宰の文章の中には、私の気づいていない「詩」があるに違いないと思った。
 本を読む(詩を読む)のは、テーマを読むのではなく(テーマに対する感想を書くのではなく)、そういうことばに触れて、どきどきするためである。
 テーマなど、関係ない。





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谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(40)

2018-03-24 08:33:45 | 谷川俊太郎『聴くと聞こえる』
谷川俊太郎『聴くと聞こえる』(40)(創元社、2018年02月10日発行)

 「モーツァルト、モーツァルト」。高橋悠治の演奏を聞いたときのことを書いている。私は次の三行がとても好きだ。

譜めくりの女優の卵が譜をめくりそこねて
一瞬悠治は片手になって音楽はたゆたい
ぼくらの暮らしの中の物音のひとつとなり

 音楽が乱れる。不完全になる。それを谷川は「物音」になると書いているのだが、私はここに「音楽」があると思う。ふいにあらわれた、そのときだけの「音楽」。あ、これを聴きたい、と突然思った。
 そして思い出したことがある。何年か前、ニューヨークへ行った。ヴィレッジバンガードだったと思うが、ジャズを聴きにいった。目当ての演奏家が出演しているからではなく、ニューヨークへ来たからジャズクラブへ行ってみたかったというだけのことである。誰が演奏したのか、何と言う曲だったかも忘れた。しかし、忘れられない体験をした。演奏の途中に「ゴーッ」と音がする。地下鉄の走る音だ。これを聞いた瞬間、「あ、これがジャズなのだ(音楽なのだ)」と実感した。生活が、そのまわりにそのまま、ある。暮らしが共存している。暮らしといっしょに「音楽」が響いている。
 これはCDや、音響が完全なホールでは味わうことのできない「楽しさ」である。
 谷川が書いているのは、私の体験した「暮らし」とは違うものだが、「完全な音楽(理想の音楽)」が乱れる瞬間の「物音」。そこに「音楽」では表現できない何かがある。谷川が書きたいことは、そういうことではないかもしれないが、私は、聴いてもいない高橋のピアノのその瞬間の「乱れ」を思い、「音楽」を感じる。

 谷川が書こうとしていることは何か。前後を含めて引用し直してみる。

疾走なんかしないでぼくらの隣で
モーツァルトは待ってくれている
いつかぼくらがこの世から消えて失せるのを
譜めくりの女優の卵が譜をめくりそこねて
一瞬悠治は片手になって音楽はたゆたい
ぼくらの暮らしの中の物音のひとつとなり
そのくせ時計には決してできないやりかたで
時間を定義した

 「時間」とは「生きる時間(生きている時間/人生)」を指しているのだろう。「ぼくらがこの世から消え失せる」を言いなおしたものだろう。
 「時間(限りある人生)」の反対のものは「永遠」である。「永遠」を「完璧なもの」と言いなおせば、それは「音楽」であり、「音楽を完璧なもの」というとき、「物音」は「不完全なもの」と言いなおすことができる。「時間」と「永遠」との対比に、「物音」と「音楽」の対比が重なる。私には、そう感じられる。
 「永遠(完璧な存在)」のなかで、一瞬「不完全なもの(時間)」が自己主張する。「意味」のなかで、一瞬「無意味」が自己主張する。この「無意味」を、私は美しいと思う。「意味」を拒絶して、それでもそこに「存在している」。「ある」ことの、無防備な美しさを感じる。
 これは「きいている」の最終連に出てきた、

ねこのひげの さきっちょで
きみのおへその おくで

 の「無意味(ナンセンス)」に似ている。
 美しくて、しかも「強い」。
 ふうつ、あらゆるものは「意味」によって補強される。「意味」をもつことによって強くなる。重要になる、と考えられていると思う。「意味」があるから大切にされる。
 けれど、そうではなくて、「意味」から解放されて、ただそこに「ある」ことがとても不思議に刺戟的な瞬間がある。いや、「頭を殴られる」という感じに似ているかな。「あ、そうか、こういうものがあるのだ」と、その存在に気づかされる。
 それは、気づいた瞬間(いま)は、「意味」がない。しかし、いつかきっと「未知の意味」になると思う。「未生の意味」が「無意味」のなかに「自己主張している」と感じるのだ。

 谷川はモーツァルトを「定義」して、

オナラやウンコが大好きだった男

 と書いている。「オナラやウンコ」は、やはり、ふつうは「意味」から逸脱して「ある」ものだと思う。「意味から逸脱している」けれど、それは生きていくとき全体に「不可欠」なのものだ。「生きている」証のようなものだ。「生きている時間」を「定義」している何かなのだ。
 




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